ストリート・オブ・クロコダイル 不毛な袋小路の悪夢の人形劇

アメリカ出身の双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの監督作品。双子の共同作業というだけで興味を持った。特殊なシンパシィが通い、シンクロニシティを共有することも多いという双子。神秘的な絆で結ばれているのだろう。志同じくした双子の彼らによる作品が凡庸なものであるはずはない!との期待にたがわなかった悪夢のような映画・ストリート・オブ・クロコダイル。かなりエキセントリックな世界だが、その陰鬱ながら幻想的な頽廃美は唯一無二。

ストリート・オブ・クロコダイルの地図が大写しになる。物淋しい口笛が響き渡る。くたびれかけた初老の男が劇場に入っていくと、舞台の奥は博物館になっており、中は古色蒼然、古びたねじや拡大鏡、キネトスコープが雑然と置かれている。キネトスコープを覗くと、積もり積もった埃と錆に埋もれたストリート・オブ・クロコダイルの機械仕掛けの模型が見える。ドラマチックで哀切なヴァイオリンの音。長らく止まっていた模型に男がつばを垂らすと、模型は動き始める。男は、模型の中にいたやせこけたパペットの男をつなぐひもを鋏で切る。自由になったパペットはストリート・オブ・クロコダイルを彷徨い、ある仕立て屋に吸い寄せられていく。

薄汚れたガラスに映る埃、ねじ、ひも。可愛いアウグスティンのメロディが流れる。機械仕掛けの猿がシンバルを鳴らすとそれが合図のようにニット帽をかぶった子供の人形が地面に落ちたねじを拾う。迷宮のような仕立て屋の奥にはマネキン人形が並んでいる。さらに進むと、頭の上部と眼球がない人形がパペットを待っている。人形の合図で、同様のマネキン人形が一斉に動き出し、パペットをとらえて頭部を自分たちと同じマネキンに挿げ替え、中に綿を詰め込む。剥製状態。人形が作業台に敷いたポーランドの地図の上にマジックのように取り出したのは生々しい肝臓。それを紙で包み、きれいにピン打ちし、挿げ替えたパペットの頭部につなげる。再びおびただしい埃にまみれたねじとマネキン人形が映し出され、新しい肉体を得たパペットは仕立て屋を後にする・・・って不思議な話でしょう。全体を通して無彩色で暗澹たるムードが漂い、人形の頭を挿げ替えたり生の肝臓が登場するなど不気味なシーンの連続なのに、全く不快感を覚えないどころか、ブラザーズクエイの卓越した審美眼に圧倒される。錆びたねじ、埃で汚れた調度品が俄然魅力的に見えるのが凄い。冒頭のくたびれかけた男や古色蒼然とした博物館と同じく、ストリート・オブ・クロコダイルは過去の遺物。その模型が再現する世界を支配しているのは脳をくりぬかれた人形たちで、何の意志も感情もないまま、訪れる者におそらく同じ仕打ちを繰り返しているのだろう。全くつかみどころのない話なのでかえって好奇心をそそられ、原作を読んだ。

原作者は19世紀末ポーランドに生まれたブルーノ・シュルツ。小説だけでなく、絵画にも才能を発揮した。上は彼の自画像である。ストリート・オブ・クロコダイルは”肉桂色の店”に収録された短編で、工藤幸雄氏により大鰐通りの名で訳されている。これがまた、不思議な話なのである。ある町の美しい地図に空白として描かれている大鰐通り。そこは人間の屑が住み着く腐敗した場所で、地図の製作者はその界隈を町の一部として認めるのを憚ったために空白としているかのようだ。色彩のない、全てが灰色の大鰐通りにまともな人間は近づこうとはしないが、例えば自暴自棄になったり、安い誘惑に縋りたくなったりすると、人々はそこに吸い寄せられる。街娼がたむろし、列車の発着時刻も定められていない無秩序な町で、人々は束の間の快楽をむさぼろうとする。しかし欲望は満たされないまま大鰐通りを後にするのが常だ。

シュルツが愛した生まれ故郷・ドロホビチの不健全な一画を描いたこの小説にはプロットが全くない。何度読んでも何の話だったのかわからないほど難解で、私も随分戸惑った。小都市ドロホビチを侵食した資本主義経済への批判の書とも言われているが、私は、劣等な人間が住む劣悪な地域の風紀を独特の筆致で描いているところに魅力を感じる。また、順風満帆な時はそんな地域を馬鹿にしている人間も、魔がさせばたやすく入り込んでいけると、人間の弱さに言及しているところも忘れがたい。何もかもが冴えない大鰐通りなのに、自分の立場を忘れ放逸を尽くしたい人間にはパラダイスになってしまうのだ。魔界の陥穽。

原作に仕立て屋で服をあつらえるエピソードは登場するものの、マネキン人形たちによる肝臓移植の話は完全にブラザーズ・クエイのオリジナルである。シュルツは50歳でゲシュタポに殺されている。ポーランドの地図の上で肝臓を移植するイメージは、ナチスの洗脳・侵略を象徴しているのだろうか。登場するマネキン人形たちの風貌が、ナチスの将校と捕虜のユダヤ人女性との倒錯の愛を描いた”愛の嵐”に出てくる、パーティーシーンで扮装したナチスの将校に似ているのが印象的だ。映画の最後に、”安っぽい人間が素材となっているこの町では、どんな才能も花ひらくことなく、暗く、異常な情熱が刺激されることもない。大鰐通りは、私たちが現代と大都会の腐敗の言い訳として作った租界だった。その不幸は、そこでは何も成功せず、確かな結論にたどり着けないことであった。もちろんそこについて私たちは去年の古新聞から切り抜いた不自然なコピーや合成写真ぐらいしか提供することができない。”との原作からの引用が示される。そんな不毛な袋小路で、人形たちはまた誰かが模型につばを垂らすのを待っているのだろう。ちなみに、シュルツの小説はタイトルが何とも魅力的。この大鰐通りも然り、肉桂色の店、砂時計サナトリウム、マネキン人形論、などなど。読みたいのはやまやまだが、難解過ぎてなかなか挑戦できずにいる。

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