エゴン・シーレ 妄執に憑かれた淫らなエピキュリアン

没後100周年を迎えようとしているエゴン・シーレ。それにちなんで撮影されたのか?今年公開された”エゴン・シーレ 死と乙女”を観た。モデル出身の白皙の美男子・ノア・サーベトラがシーレ役。35年ぐらい前にもシーレの映画は制作されており、その副題は愛欲と陶酔の日々(この邦題もすごい(+o+) 別れの朝で女性たちを虜にしたドイツの美青年・マチュー・カリエールがシーレを演じていた。実際のシーレの写真を見ると美青年というよりちょっとコミカルな風貌でひょうきん者というか、ルパン三世とか竹中直人を連想させる。しかし彼を演じる俳優が二人とも抜けて美青年なのが解せない。それも縦長で繊細な王子様系。マチュー・カリエール版は、マチュー=シーレの他に、愛人ヴァリ役のジェーン・バーキン目当てで観に行った。これが19世紀末の頽廃ムード色濃い耽美的な作品で、10代の自分には刺激的で痺れた。もともとクリムトのモデルだったヴァリが強烈なファムファタルとして描かれ、コスチュームもヌードも過激でスキャンダラス。クリムトやシーレの絵画の世界観を彷彿とさせる。

シーレはクリムトから譲り受ける形でヴァリと暮らし始め、ヴァリはシーレのためにポーズをとるようになる。バーキン=ヴァリはシーレにぞっこんで、とにかく尽くす。カリエール=シーレがあまりに格好よく、また女心をくすぐる甘えん坊なので観る方も納得。幼女を性的虐待したかどで逮捕されたシーレの独房に、ヴァリが窓からオレンジを投げ入れ、闇の中にオレンジだけが明るく浮かび上がる絵画的なシーンが特に印象深いが、全体を通して映像がきれい。陰に日向にシーレを支えたヴァリなのに、シーレは中産階級の娘・エディート(クリスチーネ・カウフマン)と出会って恋に落ち、ヴァリを捨てて結婚してしまう。捨てられるヴァリが痛ましい。バーキンの悲しみの表現、胸に迫る。”誰も愛したことありません。私はただのモデルです”と書き捨てて去っていくヴァリ。シーレは薄情で残酷な男。でもマチュー・カリエールの容姿だと許したい気もする。

エディート役のクリスチーネ・カウフマンは、清楚で可憐な美少女ぶりが人気で活躍を期待されていた矢先に、共演した20歳も年上のトニー・カーチスと18歳にして結婚、多くの男性ファンを落胆させたという伝説の女優。まさかこの映画に出演しているとは思わなかった。10代の美少女時代とは随分イメージが違うーとはいえ成熟した30代の彼女もやはり美しかった。その後バグダッド・カフェでも再会できたのはうれしい限り。映画では、エディートはシーレの子を身ごもるが、妊娠中にスペイン風邪で死亡。シーレも彼女の後を追うように死亡。第一次大戦に看護師として従軍したヴァリは梅毒で死亡。みな若くして命を落としてしまう。カリエール=シーレは知的で上品過ぎてシーレの持つ野卑な魅力は感じられないものの、美男美女に加え美しい映像、衝撃的な絵を堪能できたので個人的にはすごく好きな映画。

副題”死と乙女”版はシーレの人生を少年時代から忠実に再現している。実の妹を裸にして絵を描いたり、変態的な性癖は早くから萌していたようだ。上の写真がサーベトラ=シーレ。美しすぎる。モデル出身だけあり容姿端麗、眉目秀麗だけど、残念ながら演技力が乏しい。自分の芸術を模索するシーレの苦悩が全然伝わって来なかったーただ、シーレが苦悩していたのかは不明。倒錯のエロスにどっぷり浸かりきっていたのかも知れないし。あっさりヴァリを捨てる酷薄さ、結婚してもヴァリとは関係を続けたいと望む無責任さから結構能天気だったのではとも思う。ヴァリを演じた女優は、バーキンとは打って変わって地味~な人。若き日のロミー・シュナイダーとシャーロット・ランプリングの面影があり、その二人を思いっきり野暮ったくした感じで、出稼ぎ労働でモデルをやっている女といった描かれ方か。ファムファタルを期待すると裏切られる。20世紀初頭のオーストリアの現実に照らすとこちらの方がリアルなのだろうか。でもシーレの作品として残っているヴァリは思いっきりドラマチックなのでどちらが本物に近いのだろう。

先輩のクリムトと並び称されるシーレ。二人の作品は共に頽廃の香りに満ち、死への誘惑が漂うが、甘美で妖艶、絢爛豪華で官能的なクリムトの絵が観る者を陶然とさせるなら、シーレの絵は陰惨でグロテスク、観る者を慄然とさせる。クリムトの絵に見られた華やぎはシーレの絵では姿を消し、負のオーラに取って代わる。年長のクリムトが世紀末の頽廃文化の陰と陽を描いたとすれば、遅れてきたシーレはその陰の遺産を偏愛していたように見える。シーレには自画像が多いのも特徴で、ほとんどみな上目遣いの自分を描いている。かなりのナルシシストぶり。ショッキングな人体画だけではなく、実際は多くの風景画も残しており、それらも色調は概して暗く、陰鬱な雰囲気。猥褻な裸体画ばかり描いているようでは社会に受容されないものの、そうせずにはいられなかったシーレは自身の業を感じていただろうか。陰気にならざるを得ないのもわかる。二作品とも早世の天才としてシーレをかなり美化しているが、彼の本質的な魅力は映画で描かれた姿とは離れたところにあるのではないかと思う。自分の妄執の世界で悦に入ったエピキュリアンというか・・・この表情からしてやはりなんだかお茶目で少し軽薄なお兄さん像を汲み取ってしまうのは私だけだろうか。

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