愛の嵐-リリアーナ・カヴァーニが描く頽廃と背徳の世界

倒錯の愛なんて懐かしい言葉を思い出す。ナチスの将校・マックスは、ユダヤ人捕虜の美少女・ルチアを見初め、意のままに操る。寵愛ではあるが、その限りではない。彼女は彼のサディスティックな欲望を満たす格好の対象だったのだ。戦争が終わり、マックスはウィーンのホテルで夜勤のポーターとして身を隠すようにひっそり暮らしている。そこへ高名な指揮者とその妻が訪れる。それは彼がかつて歪んだ愛情を捧げたルチアだった。運命のいたずら。動揺を隠せない二人。ルチアには過去の忌まわしい記憶が悪夢のように甦る。すぐにウィーンを発とうとするルチアだったが、彼女の部屋にマックスが現れ・・・倒錯の愛の再燃である。

1975年公開のイタリア映画で、全編を通して暗く、背徳の香りに満ちている。いまYoutubeで当時のトレーラーを見ても挑発的なシーンが満載で、映画好きの若者が熱狂して飛びつくような内容だ。強制収容所時代、髪を刈り上げられたルチアが裸でマックスの盲ら射ちに逃げ惑うシーン。マックスに贈られたピンクのワンピースを着て遊園地のカルーセルに乗るシーン。何と言っても圧巻はナチスの将校たちの頽廃ムード漂うパーティで親衛隊の帽子をかぶり、半裸にサスペンダー姿で”何が欲しいと聞かれたら・・・”とアコーディオンに合わせてドイツ語で歌うシーンだろう。愛の嵐と言えばこれという感じだ。将校たちを挑発する淫蕩なパフォーマンス。マックスは悦に入り、ご褒美だと言ってルチアに箱を渡す。嬉しそうに箱を見つめるルチアだが、蓋を開けるとその中に入っていたのは・・・ルチアが嫌っていた看守の男の首で、思わず顔をそむけるルチア。サロメの物語の再現。

監督のリリアーナ・カヴァーニ、頽廃の表現が見事で、この映画でもほとんど全裸に近い悪魔のようなメイクの男にバレエを踊らせている。さすがネロやカリギュラを史上に擁する国の申し子、なかなかついていけないイタリアン魂だ。再会後、最初はマックスを拒むルチアだが、すぐに狂気に憑かれたかの如く愛の行為に溺れていく。過去の業すら懐かしいのか悪ふざけを繰り返し、部屋に鍵をかけて閉じこもりガラス瓶を割るルチア。鍵を開けるとマックスが飛び込んでくる。割れたガラスの破片を踏み足から血を流すマックス。彼はその足を労わるルチアの手を踏みつけて血まみれにする。そして二人は淫靡な微笑を交わす。倒錯とはこういうことか。共犯者としてお互いを確かめ合う象徴的なシーンだ。

出口のない関係に戻った二人にナチス残党の追手が忍び寄る。生き残りの捕虜を抹殺してきた彼らはルチアの存在を突き止めたのだ。ルチアを自分の部屋に匿うマックス。しかし追手はマックスの周囲を買収してライフラインを絶たせる。飢餓状態に陥ったルチアが、やっとありついたジャムを舐めながら欲望に身を任せるシーンは鬼気迫るものがあった。やがてすべての望みは失せ、マックスはナチスの親衛隊の制服で、ルチアはかつてマックスに贈られたドレスに似た服で、真夜中に部屋を抜け出す。道行きのシーン。ドナウ河にかかる橋の上で二人は凶弾に倒れる。まさに戦争が生んだ悲劇なのだが、この映画のキーワードは何と言っても倒錯と頽廃。ローマ帝国のように長く繁栄したのち衰退した文化の中で生まれた概念で、私には正直よくわからないものの、それだけに興味深い。

カヴァーニ監督と同じくイタリア出身の巨匠・ルキノ・ヴィスコンティは、”デカダンス(頽廃)、もはや決まり文句になってしまった言葉だ。この言葉が真の意味とは反対の意味で使われているのは残念なことだ。不健全なことを言うのに使われている。しかしデカダンスとは、芸術を理解するひとつの方法に過ぎない”と語っており、味わい深い。ヴィスコンティ作品で女装する上の写真のヘルムート・バーガー、これぞデカダンスの極みという感じだ。ルチアを演じたシャーロット・ランプリングはほかの出演作でもファムファタル役が多いが、インパクトの強さではこれが一番だろう。ランプリング自身は、この役で定着してしまった恐るべき魔性の女といったイメージに後々苦しんだという。マックス役のダーク・ボガードはさすがの名演。強制収容所時代、ルチアにサディスティックな行為を繰り返す時は悪い男の顔をしているが、最後は禁断の愛に殉じる男の顔になっている。ヴィスコンティのベニスに死すや地獄に墜ちた勇者どもの名演でも名高いボガード、日本ではあまり知られていないダーリングでの演技も心に残る。

子供のころは、この作品の原題がIl portiere di notte、夜のポーターだということを知らなかった。メロドラマめいた邦題の愛の嵐より、こちらの方がナチスの残党として生き残った男の業の深さが感じられて好きだ。

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