G1は台風の激しさでやってくる

夏休み、旅行、コンサート・・・楽しみに思い描く未来はそれが実際始まるずっと前から始まっている。カレンダーを見て夏休みの始まりを確認した日、旅行の計画を立てた日、コンサートのチケットを買った日。最初の一歩を踏み出した時からその日が来るまで、期待に胸を膨らませて待つのは楽しい。年を重ねるにつれそんな機会は少なくなっていくけれど、私の場合今でも忘れられないのは、ディープインパクトが参戦した2006年の凱旋門賞を待ち焦がれた日々である。ディープの凱旋門賞参戦が正式に決定してから凱旋門賞当日まで、現地でライヴ観戦することだけを目標に生きたと言っても過言ではない。その凱旋門賞当日、朝からついに夢がかなう興奮のあまり何も喉を通らなかった私は、ロンシャン競馬場で粛然と発走時間を待ちつつ、ああこれを楽しみにこの数か月生きてきたのだから終わってしまったら他に何を夢見たらいいんだろう、いっそゲートが開かないでほしいなどと願った。今でもこの感覚は理解できる。何かが現実になる前こそ期待を抱き甘美な夢を見ることができるが、その瞬間が訪れたら最後、もうその狂おしいほどの高揚感は失われてしまうからだ。夢や希望が人に与える力の強いこと。だから人間はそれを糧に生きていけるのだろう。19世紀に生きたデンマークの哲学者・キルケゴールは絶望を死に至る病と呼んだ。確かにその通りだと思う。

G1の前にもいつも同様の感覚を味わう。レースのずっと前からG1という台風に巻き込まれ、翻弄され、自分もいつしか台風に同化していくような感じ。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているーニーチェの言葉を思い出す。本命はなに、穴ならどれ、と報道に惑わされつつ決戦の時を待つ。人々の欲望が怒涛のようにオッズに反映される。当てたい、儲けたい、馬券を買う者の思いはみな同じ。結末は誰にもわからない。できればこの疼くような興奮を終わらせたくない。心地よい攪乱に酔い痴れていたい。勝っても負けても、滾る思いはそれで終わりだから。G1の度、めくるめく光景が眼前を過る。往々にして自分の予想とは違う結末が訪れ、馬券も風の藻屑となる。落胆するだけならまだしも、被害額が大きいと胸が焼けるような激しい痛みが走り、目の前が真っ暗になるーでもまあいいか、こんな激烈な感覚はほかのことでは味わえないのだから、これも競馬を嗜む者の幸せと心得よう、と自分に言い聞かせーなんて健気な競馬ファン。台風一過は清々しいが、すぐにまた次のG1台風の到来を心待ちにする。ギャンブラーは本質的にオプティミストなのか。

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