南京の基督ー神の視点に立つ不幸

この小説を読んで、故・虫明亜呂無氏が自著で芥川龍之介について書いていたのを思い出した。芥川が若き日に詠んだ俳句に感銘を受けた虫明氏いわく、彼は早くからすべてを冷静に観照する心を身に着けていたという。なるほど、芥川の卓越した知性を痛感させる作品だった。主人公の旅行者は訪れた南京の街で、病弱な父を養うために娼婦として働く少女に出会い、身の上話を聞く。彼女には客から移された梅毒を患った過去がある。当時は誰かに移せば治るという迷信があったため、ほかの娼婦たちから客をとるように促されるが、敬虔なキリスト教徒である彼女は頑なに拒む。そんなある日、キリストに面影の似た西洋人が客として訪れる。彼女は彼を受けいれるが、翌朝目覚めると彼の姿はなかった。それ以来彼女の梅毒は治り、彼女は彼をキリストだったのではないかと思うようになる。旅行者はその男を知っていた。南京で娼婦を買い、金は払わずに逃げたと吹聴していた質の悪い男で、梅毒を病み発狂したのだった。今でもその男をキリストだと信じている彼女を前に旅行者は、真実を話して彼女を啓蒙してやろうか、それとも何も告げずに彼女の幸せを守ってやろうか迷うのだったー

自分だったらどうしただろう?人間は神の視点に立ってしまったら幸福にはなれない。自分が信頼している相手は自分を裏切っているかも知れないし、哀れみを請いながら陰で舌を出して笑っている輩もいるだろう。世界を俯瞰することほど恐ろしいことはない。幸せは無知の上に成り立っているとも言える。色々な事情があったにせよ、芥川が若くして自死を選んだ理由の一つは、この神の視点に立ってしまったことなのではと思えてならない。そのために、彼が常に抱いていた人生に対する深い懐疑から抜け出せなくなったのではないだろうか。

1990年代に香港で映画化されている。全体に芥川へのオマージュを散りばめたような作品で、原作とは少し設定が違う。ヒロインの娼婦には富田靖子が扮し、セリフは吹替だろうが言葉の壁を超えた名演だった。彼女と愛し合う作家にはレオン・カーフェィ。日本人役を中国人が、中国人役を日本人が演じるというのも面白い。デュラスの”ラマン”公開時には、日本の映画ファンの間では誘惑と官能の貴公子のようにもてはやされていた彼だが、個人的には卑猥すれすれ、下品すれすれのエロスだと思った。でもこの映画の中では和服がよく似合って文句なしにかっこよかったー私の記憶が正しければ。ラスト、死を選ぶ彼=芥川の姿が哀しい。スタイリッシュな映像も印象的な一編。

余談ながら・・・25年くらい前”ラマン”を見た帰りに女性誌を読んでいたら、誰かが、”ラマンには参った、愛人を演じる俳優が大助花子の大助にしか見えず・・・”と書いており、電車の中で涙が出るほど笑い、その後約半年にわたり思い出しては笑い続けた。確かにレオン・カーフェィ大助に似ている。。。大助が愛人を演じるラマンって想像するだけで笑える。

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