ビヨルン・アンドレセン 20世紀映画史上に燦然と輝く永遠の美少年

たった一本の映画に出演しただけで永遠の美少年アイコンになってしまった人。イタリアの巨匠・ルキノ・ヴィスコンティがトーマス・マンの小説を映画化した”ベニスに死す”のタジオの造形は、ビヨルン・アンドレセンなしでは不可能だったと思われる。ヴィスコンティは14歳のポーランド少年・タジオ役を演じる俳優を求めてヨーロッパ中を探し回り、数千人もの候補者の中からスウェーデン生まれの15歳のビヨルン・アンドレセンを見出した。その過程は、テレビドキュメンタリー”タジオを求めて”で詳述されている。ストックホルムの音楽学校に学び、それまでにエキストラとして映画に出演したことがあった彼は、5歳で父に捨てられ、それが原因で母に自殺されるという不幸な背景を持つ少年だった。

トーマス・マンの原作では作家である主人公・アッシェンバッハは、映画では音楽家(グスタフ・マーラーをモデルにしたと言われる)の設定で、コンサートホールで倒れ、医者に長期休養を命じられてベニスを訪れる。豪華なホテルのサロンで寛ぎながらあたりを見回すと、ポーランド人らしき家族に目が留まった。中年の女性と三人の女の子、そこから少し離れて立つセーラー服姿の少年・・・アッシェンバッハは、その少年の完璧な美しさに驚嘆し目を瞠る。青白い肌、優美で控え目な上品さを湛える顔立ち。ウェーヴがかかった蜂蜜色の髪は軽やかで、全てがこの世のものとは思えないほど繊細で精巧につくられていた。このセーラー服姿のタジオの神がかった美しさは衝撃的で、アッシェンバッハは悪魔に魅入られたかのようにこの少年に夢中になる。タジオを追い求めて、偶然を装い彼の行動半径に出没するアッシェンバッハ。タジオも自分を見つめるアッシェンバッハの視線にうすうす気づくようになる。

アッシェンバッハに扮したダーク・ボガードは、この役を自ら最高の演技と称し、今後生活のために映画に出演することはあっても、これ以上の演技は自分にはできないだろうと語っている。一世を風靡した作曲家が老境に達し、年甲斐もなく美しい少年への恋に溺れ、恋の病から若返りたいと望み、床屋で髪を黒く染め白粉を塗り、頬紅をはたいて口紅までつける。その姿でタジオを追い、街中で見失って焦って方々を探し回る。一気に汗が噴き出し、白髪染めの染料が汗に黒く滲む。我に返り、そんな自分の惨めな姿を大声で笑うボガード=アッシェンバッハは、滑稽さと哀しみを醸し出す圧巻の演技だった。彼はかつてミュンヘンのコンサートホールの控室で言われたことを思い出していた。”威厳も高貴性ももうお終いだ。あなたはご自分の音楽ともども墓場に入ればいい。もうご老体なんだ。そして、世界中に老年ほど醜いものはない” アッシェンバッハに引導を渡す言葉。老いた者の悲しい現実。冷徹な、ヴィスコンティらしい美意識を反映した演出だ。

若く神々しいタジオとすでに死臭を漂わせているかのようなアッシェンバッハを対比させることによって、タジオの美もアッシェンバッハの老醜も残酷なほど際立つ。タジオ一家がホテルを発つ日、アッシェンバッハは砂浜のデッキチェアに腰かけ、波打ち際で友達と戯れるタジオの姿を見納めとばかりに見つめる。突然不快感に襲われたアッシェンバッハは、タジオに近づこうとして立ち上がることもできず、顔に噴き出した汗にはまた白髪染めの染料が溶け出す。アッシェンバッハに気づいて彼を見つめるタジオ。それがタジオと交わした最後の視線となり、アッシェンバッハは死出の旅に出る。マーラーの華麗なシンフォニーを背景に、ストーリーはやるせないものである。10代の頃初めて観たときにはアンドレセンの美しさばかりが心に残ったが、年を重ねてから観るとボガードの演技にも圧倒され、感慨深い。いつ見ても神話から抜け出してきたように美しいアンドレセン。美少年という言葉は彼のためにあるのではと思わせる。無邪気な笑顔を見せながら背徳の香りも漂わせる、まるで堕天使のような美しさだった。

コスチュームデザインは多くのヴィスコンティ映画で衣裳を担当したピエロ・トージ。きちんとした時代考証に基づく卓越したデザインを披露している。タジオのセーラー服や金ボタンの詰襟、ボーダーのマリンのシャツ、水着などはため息をつく趣味の良さ。また、アッシェンバッハの服装が上品でおしゃれ。白麻、ベージュの麻、黒のサマーウールのスリーピースのスーツにハット、マフラーを合わせた、上流階級の男の旅先でのファッションのお手本のような着こなしには惚れ惚れする。もちろん、タジオの母役のシルヴァーナ・マンガーノの華やかなドレスや、タジオの妹たちのセーラー服もたまらなく素敵なのだが、この作品ではどうしてもメンズのファッションに目がいってしまう。ヴィスコンティ作品ではピエロ・トージのコスチュームを見るのも大きな喜びである。

その後、アンドレセンのオフスクリーンショットを見て驚いた。映画での魔性の美少年はどこへやら、全く普通の男の子だったのである。健康的で初々しい高校生にベニスに死すの神秘的なタジオの面影はなく、愕然としたと同時にヴィスコンティマジックを思い知った。ルートヴィヒでヘルムート・バーガーを鬼気迫る美しさの孤高の王に仕立て上げたように、妙なる魔術によってアンドレセンをベニスに死すの中で永遠の美少年として封印したのである。美、特に少年少女の美は儚くうつろいやすい。最も美しい時の姿を、貴族出身のヴィスコンティの手で更に高貴に美化されたアンドレセン。彼を見る側にしてみればありがたいことこの上ないが、その後、タジオのイメージからの脱皮に苦しんだというアンドレセン自身にとっては幸せだったのかどうか。ベニスに死す出演後、アンドレセンはいつの間にか映画界から姿を消した。残念至極とはいえ、いかにも伝説の美少年を演じた彼にふさわしい。便宜上、美男・美女のカテゴリーに入れても彼はあくまでも美少年。大人になる前の束の間の季節の麗人。その後のことなど知らなくていい・・・のに、これだけ通信が発達すると容易に消息が得られてしまう。インターネットの世界はアンドレセンを宇宙の彼方に消えた王子様のように守ってはくれない。若さはいつしか失われ、生きていく限り誰もみな年老いる。時の流れは残酷だからこそ、失われた時代の奇跡的な美の映像の価値も増すということか。ベニスに死すの中でだけ、夢はそのままだ。

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