ばくれんー死語に再会した感激、日本酒の名前です

莫連、と書く。すれっからしの女性を指す言葉。明治時代あたりに使われたのだろうか、実際耳にしたことはない。欲望という名の電車の主人公、ブランチを評して誰かが書いた文章で初めて知った。今は聞きなれない言葉なので、気軽に使えて面白い。あの人もなかなかの莫連で・・・と貶しても、誰も気づかないだろう。すれっからし、もほとんど死語のように思えるが、そう形容するより莫連を使った方が隠語度が高い。それが先日、某所でばくれんという山形の日本酒を飲み、まさか莫連の意味?とラベルを見ると、酒をあおる浮世絵風の女性のイラストが。ひっそりと、でも脈々と生きている言葉なのだと実感した。

言葉は時代につれ、その言葉に付与された価値が消滅すれば使われなくなるのだろうが、いわば言葉のシーラカンス、死語の歴史は興味深い。風情のある言葉も多いので時々こっそり使ってみたくなる。死語と意識せずに使う人のずれ感も面白い。数十年来の友人は、ご両親の影響か、昭和の死語を平気で使い続ける。胸の豊かな人をボイン、新しい服をおニュー、地に足がついていない人を夢見る夢子さん・・・ってこれかなり昔のボキャブラリーである。死語と気づかない感性、一種の鈍感力もなかなか凄い。時代を先取りする感性が魅力的なのと同様、彼女の、時代の空気に全く鈍い感性も私にとっては魅力的。死語はそんな人々によって支えられているのかもしれない。思いがけないばくれんとの出会いのように、いつかまた忘れている死語と出会えたら感激だ。

激辛foodに憑かれてー激辛愛好家界のフレッド・アステアと勝手に自負

激辛foodが大好き。と言っても食べ歩きの趣味はないので激辛の味を新規開拓するわけでもなく、いつも決まった店に行くばかり。まずはココイチの10辛。さらに辛みパウダーを振りかけてカスタマイズを楽しむ。店舗数が多いので、どこでも気軽に食せることがココイチの魅力。それからヤミツキカレー。昔の職場の近所にあったので、一時は週三ぐらいの割合で利用していた。激辛でもそんなに辛くはなく、カスタマイズ用の辛みは置いていないが、ラッキョウの食べ放題が嬉しい。さらに激辛を求めて、蒙古タンメン中本の北極ラーメン。今はいつも北極の4倍を食べるが、汁物だけあってかなり辛さが身に染みる。みなさん、汗と鼻水と格闘しながら召し上がってる感じ・・・ところがわたしは激辛を食しても汗をかかない。20世紀ハリウッドに、フレッド・アステアというミュージカルスターがいた。彼はタキシード姿で一切汗をかかずに激しいダンスを踊り、エレガンスの極みと称賛されていた。なので自分も激辛愛好家界のフレッド・アステアと勝手に自負している!(^^)!

他にも激辛を供する店にはいろいろお邪魔しているものの、上記の3店が私の激辛食の聖地か。自宅では、レトルトの大辛カレーにサドンデスソースを小さじ一杯入れて食べるのが好き。辛さが和らいでしまうので白米はなし。それも至福のひと時・・・サドンデスソースはラベルのMade with great karmaって表記がいい。

愛すれど哀しく―フランスには2種類の”ヒモ”がいる

こちらもGyaoでのめぐり逢い。なんだかベタなタイトルに、どんな話なのだろうとクレジットを見ていると、原作はBubu de Montparnasseとあり、古い友人に久しぶりに出会ったような懐かしい思いでいっぱいになった。学生時代、20世紀フランス文学という授業をとっていて、その中でルイ・フィリップのこの小説を紹介されたのだ。教授曰く、フランスにはヒモにも2種類あって、年上の金持ち女性に可愛がられる若い男がジゴロ、若い女を働かせて上がりをせしめるのがマクロー(鯖)ということだった。洋の東西を問わず、なぜ鯖のたとえっていい意味に使われないのか。この作品に登場するのはマクローとその女。舞台をイタリアに置き換えていた。ヴィスコンティ作品でもおなじみのピエロ・トージによる衣裳が素敵。ポスターにも使われている、女の子のボーダー柄のサイハイタイツなんか今でもおしゃれ。(ほかにも見どころは色々あったのだろうが、ワイン片手に見たのであまり覚えていない( 一一) 何よりも、ジゴロとマクローのエピソードを思い出させてくれたことに感謝、な映画。

昼顔 ブニュエルの韜晦趣味が炸裂ー美しき人妻の見る白日夢

もう50年も前の映画とは・・・でも時代を感じさせない問題作。
上流階級の若き人妻が、不可解な欲望に突き動かされて昼間は”昼顔”の源氏名で娼婦として客をとるというショッキングなお話。今昼顔というと、日本でヒットしたドラマ&映画を連想される方が多いようだが。。。

若く美しい人妻・セヴリーヌにはカトリーヌ・ドヌーヴ。今や齢70を超えた大女優も撮影時は23歳、ため息の出る美しさ。冒頭、彼女と医者の夫・ピエール(ジャン・ソレル)を乗せた馬車が森の中をシャンシャンシャンと鈴の音を鳴らして走り行く。楽しそうに見える二人なのに、なぜか突然彼女は樹に縛られて衣服を裂かれ、夫に鞭打たれる。冷たい泥を投げつけられて汚れていく。おまけに夫は馭者に彼女を乱暴するように指示する。全てが唐突で、観客を予期せぬ世界に迷い込ませる。

セヴリーヌは夫と訪れたスキーリゾート地で夫の友人であるユッソン(ミシェル・ピコリ)という男に出会う。このユッソンがさすがミシェル・ピコリと唸らせる悪そうな男ぶり。セヴリーヌは彼に嫌悪感を覚えるが、彼はセヴリーヌに興味を示し、彼女の潜在的な娼婦願望を見透かしているかのように彼女にパリの高級娼館について語る。心が騒ぐセヴリーヌ。憑かれたように娼館を目指すもののドアを叩く勇気はなく、枯れ葉の舞う公園のベンチで自分を持て余し、涙ぐむシーンが印象的。結局やはり自分の願望と娼館の誘惑に負け、足を踏み入れるのだが。そののち、昼顔の働く娼館を訪れるユッソンは自分の思う壺とばかりに彼女を見てほくそ笑む。セヴリーヌはそもそも夫との性生活に歓びを見出せない。妻として敬意を持たれ、愛されながらのセックスは彼女の本意ではないのだ。彼女の欲望は、自分を徹底的に蔑んで娼婦にまで身を落とし、感情を分かちあうことのない行きずりの男の欲望を満たしてこそ満たされる。

この映画はファッションも話題になった。洗練された美しさでトップデザイナーのファッションを着こなすドヌーヴ。彼女の衣装を担当したのがサンローランで、シューズがロジェ・ヴィヴィエ。サンローランが今こんな服を発表したら全身揃えたいくらい私にとっては憧れの服。シックなベージュのワンピース、ニットにパテントレザーと異素材を組み合わせたコート、黒い帽子にサングラス、ラスト近いシーンでの、白い襟がついた清楚な黒いワンピース。どれもシンプルで上品で、サンローランの傑作だと思う。モンドリアンルックやヒッピーのフォークロアファッションとはまた違うサンローランの魅力が全開である。

シューズのロジェ・ヴィヴィエも、個人的には一番好きなシューメーカー。パテントレザーに大きなバックルのついた、今でもヴィヴィエの代表作として現役のパンプスは、歩きやすいうえに女性の脚を美しくみせる逸品だ。以前、カトリーヌ・ドヌーヴが実際に履いたモデルを展示会で見た時は胸が高鳴った。今のより少し大きめのバックル。20世紀のおしゃれなパリジェンヌの足元を飾ったのだろう。真っ赤なパッケージでも有名なヴィヴィエ、当時は全然印象が違うベージュのパッケージで、それも上品で素敵だった。

昼顔に惚れ込んでしまう危険な客・マルセルにピエール・クレマンティ。この人が平凡な役を演じているのを見たことがない。ここでも狂気を感じさせる凶暴なやくざ者である。前歯が全て銀歯、革のコートにステッキを持った一種異様な出で立ち。彼女を追って自宅にまで押しかけるようになったマルセルを扱いあぐね、娼館を去ろうとするセヴリーヌ。マルセルは彼女をあきらめきれず、夫のピエールを待ち伏せして銃を放ち、逃げようとする過程で警官に射殺される。昏睡状態に陥るピエール、一命はとりとめるが、車椅子での生活を余儀なくされる。ある日夫妻をユッソンが訪れ、ピエールにセヴリーヌの行状を全て話すという。セヴリーヌはユッソンを止めようとはしなかった。こんな絶体絶命の時にもなんだかどうでもいいような顔をしているドヌーヴが私には魅力的。彼女は当時、演技ができる女優とは目されていなかった。誰も息の長い活躍を続け大女優となった今の彼女を想像できなかっただろう。この人を見ていると、継続は力なり、という言葉を思い出す。

白い襟付きの清楚なワンピース姿で優雅に刺繍しながら、ユッソンがピエールに全てを話すのを待っているセヴリーヌ。そこへピエールが車いすで現れ・・・なんと立ち上がって平然と飲み物を作るのだ。あっけにとられるセヴリーヌにピエールが尋ねる。何を考えていたの?あなたのことよ。そ、そんな・・・監督のルイス・ブニュエルには韜晦趣味があるようで、この映画も結局は妄想だったの?って感じの終わり方。すべてはセヴリーヌのマゾヒスティックな嗜好が生んだ夢だったのか。よき夫がいて、何不自由ない生活を送っている彼女がなぜ娼婦になってしまうのか。人間の心は謎。ドヌーヴのファッションとその美しさを楽しみながら、劇中の彼女が酔い痴れる禁断の世界を垣間見、人を煙に巻く演出に翻弄された・・・というのが私の感想だろうか。

ちょっと笑ってしまった、日本人が娼婦を買いに来るシーン。その日本人が話している日本語、私にはわからない・・ということは日本人ではない。(たぶん韓国人だと思う)フランス人にとっては(ブニュエルはスペイン人だが)日中韓人どれも同じなのだろう。彼は娼館のマダム・アナイス(ジュヌヴィエーヴ・パージュ)にこのカード使えるか?と尋ねるが、そのカードの名前がゲイシャクラブカード( ;∀;) 即マダムに駄目よ使えないわと却下されていた。↓の男の人、昔の力道山みたい。謎のおもちゃを持ち込んでくる。

ゲイシャクラブカードというネーミングセンスが素晴らしく、昼顔というと反射的にこのシーンを思い出すくらい気に入っている。ディテールの面白さを楽しむのも映画鑑賞の醍醐味。野に咲く昼顔は朝顔と違ってなんだか淋し気。昼顔の花を見ると、なぜか幼いセヴリーヌが聖体拝領を頑なに拒否するシーンが浮かんでくる。自分の気持ちを偽れない真面目な女の子だったのだろうか。成長したセヴリーヌも、昼顔という名で真面目に妄想に取り組んでいるのが痛ましい気もする。

ディアギレフの見えない手

加藤和彦・安井かずみ夫妻が1980年代に発表したアルバム・Belle excentrique。常に時代を先駆けたおしゃれな二人がフランスのエスプリをシックに表現していて、当時の日本人には早すぎた観があるーと言っても、ロスチャイルド夫人にしろジャン・コクトーにしろ20世紀の名士、いま彼らの名前を知っている日本人もごく一部だろう。昭和は遠くなりにけり。ディアギレフの見えない手、とはその珠玉のような作品群の一つ。ディアギレフという聞きなれない名前も手伝い、妙に心に残った。ウォッカで人生の憂さを晴らす男が、パリのサクレクール寺院の鐘の音を聞きながら頽廃的に♪この世の憂さ晴らすのはvodka・・・故郷を偲ぶのはvodka・・・オペラ座の鐘が鳴る 乱れた心の鐘が鳴る 人生の舞台裏で糸をひくのは見えない手♪と歌っており、子供心にディアギレフとはおそらくかなりの策士なんだろうなと思ったことを覚えている。

このアルバム、ジャケットは金子國義の絵で、長身痩躯の黒いスーツ姿の男性が額と手から血を流して立っている。ちょっと不気味な感じだが、金子國義のファンだった私はとても気に入り、勝手にその男性を策士と思しきディアギレフに重ね合わせていた。当時は、ディアギレフが20世紀初頭にロシアバレエ団を結成してヨーロッパで活躍した天才興行師だということは知らなかった。それから時は流れ、数年前、国立新美術館で開催されたバレエリュスの衣裳展に行った時、実際のディアギレフの写真を初めて見て・・・想像とあまりに違っていたのにびっくり( ;∀;)いまは死語?のいわゆるずんぐりむっくりー背は低く、太っていて、胡散臭い雰囲気を漂わせ・・・まさに興行師のイメージそのものではあったものの、金子國義描くところの瀟洒な身なりの男性からはあまりにもかけ離れていて結構ショックだった。

それでもただならぬ存在感を示すディアギレフに興味を持ち、オランダ人作家による彼の伝記・A lifeを読んでみたところ、イダ・ルビンシュタイン、トルストイ、ストラヴィンスキーなどなど、今日まで語り継がれる名だたる芸術家たちとの交流を含む彼の人間関係にまつわるいろいろなエピソードや、当時のロシアのライフスタイルが語られていて面白かった。特に忘れがたいのは、19世紀ロシアの上流階級の家庭では、男の子が思春期を迎えると父親が娼館に連れて行く習わしがあったということ。農奴解放以前は、農奴の女性が娼婦の役目を担うこともあったとか。ディアギレフも父親に連れられて娼館に行くが、彼は同性愛者だったのでその時の経験を屈辱的に思っていたのだそうだ。長じてからの彼の恋人はみな美しい青年で、バレエ団のプリンシパルなどほとんど彼の恋人だった。恋人を一流の芸術に触れさせて育てていくのが彼の流儀で、有名なのはニジンスキー。

バレエ公演を続けるには当然ながら莫大な資金が必要で、ディアギレフは常に資金集めに奔走していたが、もちろん多くのパトロンがいた。パリの社交界人士をはじめ、かのココ・シャネルも彼のパトローネ。シャネルは彼の死に水をとったという。美しいものが大好きで、芸術的センスにあふれ、また天才を見出す天才でもあったというディアギレフ。シャネルはディアギレフが休んでいるのを見たことがないと書いている。常に行動あるのみで、莫大な借金を作り、金があれば浪費する人生の果て、糖尿病の悪化で57歳で没したときに残したものは、カフスボタン一つだけだったという。。。なんてかっこいい生き方なのか。

バレエリュス100周年記念にパリ・オペラ座で開催された公演のビデオ上映を、この夏東急文化村で鑑賞した。夢のようなひととき。牧神の午後、ペトルーシュカ、薔薇の精、それに初めて見た三角帽子!こちら初演の衣裳デザインはなんとピカソ。天才同士のコラボレーションだ。薔薇の精のメロディは、子供のころのバレエ教室で、レッスンの終わりに生徒が一人一人先生に挨拶する際に先生がピアノで弾いてらしたもので懐かしかった。

一つの歌が縁となって、色々な文化を知りえるのは素晴らしいこと。精神の旅への誘いのようなものだ。ディアギレフを知る機会を与えてくれた加藤和彦・安井かずみのお二人、また特異な美意識に共感した金子國義も鬼籍に入られたが、彼らが残したものは後世の人々に影響を与え続けている。芸術には命があるから。余談ながら、Youtubeで偶然目にした、白っぽいスーツを着てIt’s a small cafe?という歌をうたう加藤和彦が哀切な感じで好きだ。

みじかくも美しく燃え 

まずこのタイトルに惹きつけられた。原題はElvira Madigan、シンプルにヒロインの名前。それにこの哀切な邦題をつけたのは一連の越路吹雪作品でも名高い詩人の岩谷時子さんだそう。妻子ある中尉とサーカスの綱渡り芸人の美少女との逃避行の物語で、姦通罪のあった19世紀末スウェーデンで実際に起こった心中事件の映画化。

張り詰めた空気が漂う、透明感溢れる映像と、モーツァルトの音楽が美しい。寡聞にして、スウェーデンの映像作家は他にベルイマンしか知らないが、ベルイマン作品も無駄をそぎ落とした禁欲的な緊張感が漲っている。スウェーデンの厳しい自然の中で育まれた感性なのか、宗教的背景があるのか。同じくスウェーデン出身のリサ・ラーソンの作品もユーモラスながら華美な装飾はない。

最初はピクニック気分のような二人。広々とした田園の木陰でパンやチーズを食べ、草花と戯れ、二人だけの世界を謳歌する。自分たちの失踪記事を新聞で読み、笑い合うほど屈託がない。楽しい食事の最中に不注意でワインのボトルを倒してしまい、赤ワインがこぼれていくのが不吉な予感。

一般的に男性よりも女性のほうが現実的と言われるように、この映画でも中尉が終始現実逃避しているのに対して、年若い女の子は現実を見ている。

戦争について二人が語るシーン。

中尉は華やかな閲兵式に象徴される示威運動の延長として戦争を見ているが、彼女は自分がサーカスの巡業で他国にいた際に見た戦争を語る。

サーカスの動物たちはみな焼かれた。戦争は閲兵式ではないわ。焼ける肉の臭いよ。

このセリフが忘れられない。

二人は捕えられたら投獄される身、金目のものを売り払いながら逃げるしかない。彼女がパリで脚の悪い画家に描いてもらった絵を売るエピソードがある。どうやらその画家はロートレックのようだ。いくらで売れたのだろう。そのうち当然金は尽き、彼女は何とかして生き延びようと酒場の踊り子として働こうとするが、中尉は恋人が男に媚びを売る仕事をすることに耐えられず、それも続かない。野生のベリーの実を摘んで飢えをしのぐ二人、もう先がない。

覚悟を決めなくては、と切り出すのも彼女だ。

美しい自然の中で最後の食事をする二人。パンや卵を入れたかごの底には銃がある。銃を見て、とっさに受け入れられない彼女は彼の腕を離れ、野原で草花と舞う蝶を追いかける。牧歌的な映像の中に銃声が二つ響いて終わり。

やるせない映画ではあるけれど、恋人同士は長く一緒にいたところで必ずしも幸せなわけではないので、お互いを必要として激しい情熱に駆られている時の道行きもある意味幸せなのかと最近は思う。

ちなみにヨーロッパ三大心中事件の一つだとか。一つは映画・うたかたの恋で有名なオーストリア皇太子と男爵令嬢の心中事件だが、もう一つは不明。とても気になる。

 

Je t’aime…moi non plus ゲンズブールマジックが煌く切ない恋物語

男女の愛の睦言をそのまま吹き込んだようなデュエット・Je t’aime…moi non plus. 最初に聴いたのはゲンズブール&バーキンヴァージョンで、あまりにセクシーなので驚いたが、後年ゲンズブール&バルドーヴァージョンを聴いて更なる衝撃。前者をはるかに上回る色っぽさなのだ。さすが往年のフランス№1セクシー女優といったところ。元々はこの曲、ゲンズブールとバルドーが恋愛関係にあったとき、彼女に請われて書いたものなんだそう。実生活で情熱のさなかにいる二人が、世界で一番幸せなカップルなのではと思わせる熱~い歌いっぷりを披露しており、なまめかしいことこの上なし。

しかし、当時ドイツ出身の写真家でプレイボーイとして有名だったギュンター・ザックスと結婚していたバルドーが、ゲンズブールとの関係がスキャンダルに発展するのを恐れて発売の差し止めを求めたのでお蔵入りとなってしまう。バルドーのために作った歌なのにとゲンズブールはかなり落ち込んだようだ。(後に動物愛護団体を設立したバルドーが、売り上げをそこに寄付するならとリリースに同意したので日の目を見ることになる。)その後、事実上の妻となったバーキンと再びデュエットするとは彼なりの悪趣味の美学なのだろうか。。。それにしてもこんな詩を書いてしまうゲンズブールって何者?そりゃあ発禁になるだろう。母国語でないフランス語だから平然として聴けるが、日本語でこんなこと歌われたらちょっとというかかなり驚く。昔のサザンとか忌野清志郎のノリ?

で、今回はその映画の話。時代も場所も特定されないノーマンズランドのスナックで働く男の子みたいな女の子、ジョニー。太った店主のボリスにこき使われ、何の楽しみもないような日々を送っているところに、クラスとパドヴァンという、ごみ収集を生業とするゲイカップルが現れて。。。クラスははじめ、ジョニーを少年と勘違いするが、残念ながら女の子。でもお互い惹かれあい、三角関係が始まる。

冒頭から、血だらけのカラスの死骸だったり、ごみ処理場だったり、汚れたダンプカーだったりと、およそ恋愛映画にふさわしくないアイテムが登場する。
豚かと見まがうほど醜い犬も出てきたり。。。(この犬、ゲンズブールがバーキンにプレゼントされて実際飼っていたブル・テリアのナナという雌犬なのだそう。バーキンの祖国・イギリス原産で、当時のイギリスではとてもポピュラーな犬種だったとか。のちにゲンズブールの伝記映画でゲンズブール本人が、ナナが亡くなった時それまでの人生で一番泣いたというようなことを語っており、しんみり。)

閑話休題。クラスとジョニーが愛を交わそうとするのも薄汚いモーテル。ゲイのクラスは女性を愛せず、それを罵るジョニーだったが、やがて男同士の愛の行為を受け入れようとする。苦痛に耐えられずモーテルの部屋で絶叫してしまうため、不審者扱いされて追い出され、なかなか思いを遂げることはできず。。。やっと結ばれるのは汚いダンプカーの荷台の上。想像したラブストーリーとは全然違うので戸惑いながら見ているうちに、ゲンズブールマジックに魅せられている自分に気づいた。
汚れた、異臭が漂いそうな背景との対比で、登場人物たちの美しさ、純粋さが際立って見えるのだ。すべてがゲンズブールの研ぎ澄まされた審美眼によって選ばれたオブジェなのだろう。モーテルでのラブシーンも、多くの男性が惹きつけられるであろう胸や腰ではなく、ジョニーのむき出しの背中をひたすら撮り続け、一筋縄ではいかないゲンズブールの美意識を感じさせる。

クラスとパドヴァンがごみ処理場でじゃれるように抱き合うシーン

ジョニーが、クラスがごみの中から拾ってきた人形を抱いてクラスを思うシーン

太った醜い女がストリップを繰り広げるダンスパーティで、クラスとジョニーが抱き合って踊るシーン(BGMはje t’aime・・・!)(一番好きなシーンでもある)

嫉妬に狂ったパドヴァンに殺されかけたジョニーが、去っていくクラスを涙ぐみながら追うシーン

どれも切ない恋心を表現していて見事だ。テーマ曲のBallade de Johnny-Janeも泣かせる。さあ、ジョニージェーン、すべて忘れてやり直し。あの灼けつくような短い日々の思い出を消してしまおう。また別のトラックがやってきて、君をもう一つのフロリダへ連れて行ってくれるよ。

束の間の恋に酔いしれ、それを失ったジョニーが哀しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京ダート1400メートル 笑顔のピエロのブランコを見逃さないで

東京ダート1400メートルのレース。スタート台へ向かうスターターの様子をカメラが捉えるほんのわずかな時間、可愛い顔が映し出されることがあるのをご存知ですか?私も最初は何だか解せず、その存在に気づいたのはここ10年ぐらいの話なのですが。緑色の帽子をかぶったピエロが、ウィンクしながらにっこり笑って立っているのです。赤い手袋をつけた両手にはブランコを下げています。フジビュースタンドから遠く臨むと、楽し気にブランコを揺らす子供たちの姿が見えます。

今年のJRAのCMにも登場したこのピエロ、何がスペシャルかって、前向きと後向きの2つの顔を持っているのです。4つある目で前も後ろも見えるわけ。いわば東京競馬場の双面神・ヤヌスの神!ヤヌスの神が過去と未来を同時に見ていたように、ピエロもスタートからゴールまで全部見ている。雨の日も風の日も雪の日も、東京競馬場の内馬場で笑顔で立ち続けるピエロ、その姿を見ているだけで幸せな気分になります。東京競馬場で繰り広げられた色々なドラマを見てきたのでしょう。おととしぐらいから、ハロウィンにはジャックオーランタンのマスクをかぶるようになりました。それがまた可愛い。ちなみにこのピエロのブランコ、2台あるのですが、障害レースのハードルのすぐ近くに立っているピエロは、踏み切ってジャンプ!の時全身が見えます。私の不満は、当該レースの前にもかかわらず、カメラの位置によってピエロの顔が映らない時があること。JRAさんには、東京競馬場にはこんなに可愛いブランコがあるんですよともっとアピールしてほしいと切に思います。

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世にも怪奇な物語 ロジェ・ヴァディムが描く禁断の恋

Gyaoで無料動画を見ていると、たまにえっと思うような懐かしい映画に出会ったりする。最近ではこの、エドガー・アラン・ポーの三作品を三人の監督が撮ったオムニバス映画・世にも怪奇な物語。初めて観たのがいつだったのか・・・当時はフェリーニによる第三話・Toby Dammitに出てくる少女の顔をした悪魔が怖くて、それが一番印象的だった。主人公を破滅へと導く、子供なのに既に堕落しているかのような、悦楽と悪の虜になっているような表情の女の子。まさにポーの世界の住人。

今回ももう一度あの女の子を見たくて映画を観たら、今度はロジェ・ヴァディムによる第一話のMetzengersteinに心を奪われた。当時の妻だったジェーン・フォンダを主役にした耽美的な作品で、ジェーン扮するのは莫大な財産を相続した伯爵家の令嬢・フレデリック。神をも恐れぬ傲慢な彼女はその取り巻きと共に放蕩の限りを尽くす日々を送っているが、従弟である男爵との出会いにより変化が訪れる。

フランス・ブルターニュ地方の古城が舞台で、その荒涼とした佇まいがもう雰囲気たっぷり。マイケル・ジャクソンのスリラーのナレーションでも有名なヴィンセント・プライスがここでも美声のナレーションを披露しており、全編を流れる感傷的な音楽と共に物語を盛り上げる。ジェーンは終始バーバレラ風の露出の多いセクシーな衣装で登場。自分の妻や恋人をスターにしていった手腕で有名なヴァディム、ジェーンの官能的な魅力を知り尽くしていたからこそだろう。森の中でキツネの罠にかかった彼女を偶然通りかかった従弟のウィルヘルム男爵が助けることになり、それで二人は意識し合うようになる。ウィルヘルム男爵は、フレデリックの伯爵家とは長年いがみ合う仲の、分家の中でも最も資産のない家の出。二人はいとこ同士とは言えそれまでお互いをよく知る機会はなかった。ウィルヘルムは才能豊かだったにもかかわらず興味を示したのは馬と狩猟だけで、社会には背を向けて孤高の姿勢を貫く男だった。

ウィルヘルム男爵役はジェーンの実弟であるピーター・フォンダ。彼といえば反射的にバイカーのバイブル・イージーライダーを思い出す向きは多いだろうが、私には何といってもこちら。長身痩躯で、湖の底のような目をしたピーター=ウィルヘルム。フレデリックは一目で恋に落ちる。あの目で見つめられたらたまらないだろう。実際の姉弟をキャスティングしているところが禁断の愛・近親相姦っぽい危うさを醸し出している。

 

その日以来、フレデリックは彼が忘れられず、馬を駆っては出会った場所や彼が現れそうな場所を彷徨う。憂愁に閉ざされた彼の面影を追うフレデリックの恋心が切ないシーン。城壁でフクロウと語り合うウィルヘルムを見つけ、フレデリックは呼び止める。傍にやってきた彼に、寒い、自分の家ではこんな時男がマントを貸すものだというと、彼は黙って自分のマントでフレデリックを覆う。愛しい男に寄り添う歓びで高鳴るフレデリックの胸の鼓動が聞こえてきそうだった。ウィルヘルムを食事に誘うフレデリックだが、ウィルヘルムは放埓な彼女を批判して拒否する。それが悲劇の始まり。プライドを傷つけられたフレデリックは、ウィルヘルムの厩舎に放火させる。ウィルヘルムは燃え盛る炎の中、愛する馬を救いに厩舎に入り、馬と共に命を落とす。フレデリックには予期せぬ出来事だった。さらに予期せぬことに、フレデリックの家に謎の漆黒の馬が現れる。ウィルヘルムの魂を担ったその馬にフレデリックは夢中になり、同時に死への誘惑にも憑りつかれる。

ジェーン・フォンダはヴァディムと別れてからアメリカに戻り、社会派映画で女優として名をあげる。アカデミー賞の主演女優賞を受賞した帰郷での演技など見事だった。でも個人的にはヴァディムと一緒にいたころの妖艶な彼女が好きだ。また、フランスの老舗美容サロン・CARITAが担当したジェーンのヘアスタイルの素敵なこと!もちろんブロンドのロング!驚くほどヴァディムの昔の恋人に似たショットもあり。。。ヴァディムって本当にブロンドが好きなのだと感心。ジェーンと交際する前の恋人であり、彼の子供も産んでいるカトリーヌ・ドヌーヴとの出会いの際には、”きみのブルネットも素敵だけれど、男と言うのはブロンドの女に夢を賭けるものなんだよ。きみはもっと美しくなりたくない?”と口説いたというエピソードがある。色々なタイプの美女との恋を楽しんだヴァディムだが、ブロンド好みの一点は終生ぶれなかったのか。

ティファニーで朝食を Holiday Golightly トルーマン・カポーティに憧れて

子供の頃この映画を見て、こんなに素敵な世界があるものかと思った。オードリー・ヘップバーンの洗練され切った美しさ、それをさらに引き立てるシックなファッション、活気に溢れるニューヨークの街並み、郷愁を誘うヘンリー・マンシーニの音楽、自分も飼いたかった猫。大人になったらリトルブラックドレスを着て煙草をくゆらせ、タクシーでティファニーに乗り付けたいとまで無謀な野心は抱かなかったものの、10代の私はホリー・ゴライトリーに強烈に憧れた。それまでに見たことのない印象的なキャラクターだったのだ。

原作者であるトルーマン・カポーティの大ファンになったのもこの映画がきっかけだった。ホリーは、なんとなく浮かない気分の時、ティファニーに足を運べば気持ちが晴れ、悪いことなんて起こるわけはないと思えると言う。ホリーにとってのティファニーがまさに私にとってのこの映画で、いやなことがあってもこの映画を見れば一気に心が晴れるほど気に入っていた。だから後にカポーティのインタビューや伝記を読んで彼がこの映画に不満だったことを知るに及んで驚いた。彼の本意を知るには原作を読むしかなく、手に取ったのがBreakfast at Tiffany’sだった。なるほど、疑問は氷解した。カポーティが描いたティファニーで朝食をは奔放に生きるヒロインが真実の愛に目覚める話ではないのだ。都会的で洗練されたおしゃれな作品から人間の心の闇を見据えたシリアスな作品まで、カポーティの提示する世界は一筋縄ではいかない。映画は原作とは別物として楽しめばいいのだろうが、作者としてはまったく意図しない作品に仕上がっていたのが気に入らなかったのだろう。

Breakfast at Tiffany’sは今でもとても思い入れのある作品で、手元にある黄変したペーパーバックを見ると、この本に魅了されて過ごした月日が偲ばれる。冒頭、おそらく今は作家になった主人公が、作家志望だった時代に借りた部屋を追想するシーンがある。屋根裏に詰め込んだような家具でいっぱいの、古い、陰気な部屋だが、ポケットに手を入れてこの部屋の鍵に触れるといつも気持ちが昂揚したー初めての自分自身の部屋で、自分の本があり、鉛筆立てには削られるのを待っている鉛筆があり、作家になるために必要なものすべてが揃っているように思えたから。

このWeb上の部屋は、主人公にとっての初めての部屋と同じようなもの。自分が愛するものについて自在に語れる自分だけの場所。何しろ好みのままを綴る問わず語りなので、顧みられるべくもなく、多くの読者を期待することはできないのは自明の理。しかし安易に大衆に迎合するより楽しい。インターネットという茫洋たる大海の中で生まれては消える泡沫の如きブログであれ、これからここに何を綴ろうか考えるだけであやしうこそものぐるほしけれ。