アナザーカントリー 少女漫画から抜け出してきたような王子様・ルパート・エヴェレット

デジタルリマスター版ってきれい!往年の名画が最新技術の処理を施されて蘇るのは喜ばしい限りだ。ゴダールの”軽蔑”のデジタルリマスター版を見たときも、カプリ島の自然がさらにまばゆいばかりに輝き、バルドーが素肌に纏う真紅のタオルやカナリアイエローのバスローブがより鮮やかに見えて感激した。そして今回のアナザーカントリーデジタルリマスター版では、数十年前に初めて観た時の美しさに勝るとも劣らぬ、神々しく上品な魅力にあふれるルパート・エヴェレットに釘付けになった。

1930年代のイギリス、全寮制のパブリックスクール。第一次大戦で亡くなった卒業生を追悼するミサで、I vow to thee, my country(ホルストのジュピターの旋律)を合唱する生徒たち。ルパート・エヴェレット扮するガイは、金髪の美少年ハーコートを見初める。二人は歌いながら視線を交わす。恋の始まり。双眼鏡で寮の別棟から出てくるハーコートを探したり、クリケットの試合で審判を務めれば彼に有利な判定をしたり、ガイはもうハーコートに夢中。ハーコートを追い求めてついに食事に誘う。複雑な思いで参加した母親の再婚パーティの帰り、着飾って瀟洒なホテルの高級レストランでハーコートを待つガイ。果たして来てくれるのか半信半疑の憂い顔。そこへハーコートが現れた時の二人の輝くような笑顔と言ったら♡今日は二人の記念日だと最高級のシャンパンを開けてお祝い。ため息が出るほど優雅なイギリス上流階級の男の子たち。今日は酔っぱらおうと歓びをはじけさせ、ガイはハーコートに身の上話を語る。ガイの父親は彼が14歳の時に亡くなっている。それも腹上死。ハーコートには心を許し、幸せなガイ。

彼らが着こなすファッションがまた素敵。ダンディズムを産み出したジェントルマンの国・イギリスだけに、色彩を抑えた禁欲的にも見える紳士服のラインナップが見事。ミサや結婚パーティでの正装、パーティではジャケットに蘭の花を挿しているのが全く違和感なくおしゃれ♥クリケットのユニフォーム、ガイや友人のチェックのガウン、ストライプのパジャマ、ケーブル模様のベストにセーター、軍事教練時の軍服。共同寝室に並べられたベッドには、ガウンとコーディネートしたベッドカバーがかけられているのもさすが。当たり前だが洋服とは西洋人のものなのだとしみじみ思う。長い手脚、白皙の美貌にネイビーブルーや黒のダークカラーがよく映える。黄色人種だとそうはいかない。

作中、冒頭で寮生が同性愛の現場を舎監に目撃されるシーンの他には直接的な性描写はない。美しいガイのヌードを一切みせないところもこの映画の魅力だ。ガイとハーコートが夜、月光を浴びた湖上のボートの上で抱き合うシーンも上品。終始着衣で清潔感溢れていてたまらない。二人は心と理性とでお互いを求めあう上半身の関係って感じ。そんな、現実にはありえない少女漫画の世界のような禁断の愛にリアリティを与えているのは、ひたすらルパート・エヴェレットという美青年の存在だろう。あんなにかっこいい人が現実にいるとはってレベル。ベニスに死す、のビヨルン・アンドレセン然り、美少(青)年という言葉を超越したあまりに美しすぎる人を見ると、思わず時間よ止まれ!と思う。残酷な時の流れで老いていく姿など見たくないと。

輝かしい未来を約束されていたガイだが、同性愛者という理由でエリートコースを逸れ、共産主義に傾倒する友人の影響もあってか階級社会を否定し、スパイとしてロシアに亡命することになる。その骨っぽい友人・ジャドを演じているのがコリン・ファース。ルパート・エヴェレットにコリン・ファース、なんて贅沢な配役なのか。美術品の美しさを堪能できる。白髪の紳士となったガイをジャーナリストが取材する。彼の部屋には若き日のジャド、愛し合ったハーコートの写真が飾られ、ハロッズのマグカップが置かれている。ジャーナリストは帰国願望はあるか、会いたい人物、したいことなどないか尋ねる。帰国する気はなく、特に会いたい人物もいないが、クリケットがしたいというガイが切ない。イギリスの美しい風景と由緒あるパブリックスクールの寮の設え、少女漫画から抜け出してきたような王子様・ルパート・エヴェレット讃。青春とは苦悩する時代なのだろう。

南京の基督ー神の視点に立つ不幸

この小説を読んで、故・虫明亜呂無氏が自著で芥川龍之介について書いていたのを思い出した。芥川が若き日に詠んだ俳句に感銘を受けた虫明氏いわく、彼は早くからすべてを冷静に観照する心を身に着けていたという。なるほど、芥川の卓越した知性を痛感させる作品だった。主人公の旅行者は訪れた南京の街で、病弱な父を養うために娼婦として働く少女に出会い、身の上話を聞く。彼女には客から移された梅毒を患った過去がある。当時は誰かに移せば治るという迷信があったため、ほかの娼婦たちから客をとるように促されるが、敬虔なキリスト教徒である彼女は頑なに拒む。そんなある日、キリストに面影の似た西洋人が客として訪れる。彼女は彼を受けいれるが、翌朝目覚めると彼の姿はなかった。それ以来彼女の梅毒は治り、彼女は彼をキリストだったのではないかと思うようになる。旅行者はその男を知っていた。南京で娼婦を買い、金は払わずに逃げたと吹聴していた質の悪い男で、梅毒を病み発狂したのだった。今でもその男をキリストだと信じている彼女を前に旅行者は、真実を話して彼女を啓蒙してやろうか、それとも何も告げずに彼女の幸せを守ってやろうか迷うのだったー

自分だったらどうしただろう?人間は神の視点に立ってしまったら幸福にはなれない。自分が信頼している相手は自分を裏切っているかも知れないし、哀れみを請いながら陰で舌を出して笑っている輩もいるだろう。世界を俯瞰することほど恐ろしいことはない。幸せは無知の上に成り立っているとも言える。色々な事情があったにせよ、芥川が若くして自死を選んだ理由の一つは、この神の視点に立ってしまったことなのではと思えてならない。そのために、彼が常に抱いていた人生に対する深い懐疑から抜け出せなくなったのではないだろうか。

1990年代に香港で映画化されている。全体に芥川へのオマージュを散りばめたような作品で、原作とは少し設定が違う。ヒロインの娼婦には富田靖子が扮し、セリフは吹替だろうが言葉の壁を超えた名演だった。彼女と愛し合う作家にはレオン・カーフェィ。日本人役を中国人が、中国人役を日本人が演じるというのも面白い。デュラスの”ラマン”公開時には、日本の映画ファンの間では誘惑と官能の貴公子のようにもてはやされていた彼だが、個人的には卑猥すれすれ、下品すれすれのエロスだと思った。でもこの映画の中では和服がよく似合って文句なしにかっこよかったー私の記憶が正しければ。ラスト、死を選ぶ彼=芥川の姿が哀しい。スタイリッシュな映像も印象的な一編。

余談ながら・・・25年くらい前”ラマン”を見た帰りに女性誌を読んでいたら、誰かが、”ラマンには参った、愛人を演じる俳優が大助花子の大助にしか見えず・・・”と書いており、電車の中で涙が出るほど笑い、その後約半年にわたり思い出しては笑い続けた。確かにレオン・カーフェィ大助に似ている。。。大助が愛人を演じるラマンって想像するだけで笑える。

オスカー・ワイルド讃-世紀末文学の旗手の慧眼

ここ何シーズンかのハイブランドのコレクションは、どこも攻めに攻めている感じ・・・といえば誉め言葉にも聞こえるが、正直悪趣味なデザインばかりが目立つ。奇抜なプリント、tackyと称される柄on柄、一度着てしまえばすぐ飽きそうなアクの強い組み合わせ。誰が着るんだろうって素朴な疑問である。ファッションというのは上品な趣味の良さだけを追求していたらいずれは閉塞に陥るものなのかもしれないが、やりすぎ感が半端じゃない・・・動物や怪獣を思いっきりフィーチャーしたりして、インパクトは強烈だけど。そこでふとオスカー・ワイルドの名言を思い出した。”流行とはひとつの醜さの形であり、ひどく耐えがたいので、6か月ごとに変える必要がある” 慧眼だ。彼が生きた19世紀末のロンドンではどんなものが流行っていたのだろう。日本でいえば十人十色、蓼食う虫も好き好きの成句が示す通り、人間の個性は各人異なるものなのに、猫も杓子も同じものに追従する光景は確かにエレガントとは言えない。流行に関しては、20世紀はフランスの文学者・マンディアルグも、”今流行っているものの大半は既に半ば死んでいるものだ”との見解を示しており、なるほどと思った記憶がある。ジェントルマンの国イギリスに戻ると、ワイルドからさらに一世紀時代を遡ればダンディ王として君臨したジョージ・ブランメルがおり、彼は”着こなしの上手な人間は決して衣服によって目立ってはならない。いかなる種類であれ、派手な模様は一切寄せ付けてはならない”との名言を残している。さすがダンディズムを産み出した国・イギリスだけあって、ファッションに一家言持つ人の言葉には重みがある。

そんなことを言いつつ、一昨年だか、イタリアの高級ランジェリーブランド・ラ・ぺルラが発表した架空の動物のプリントは結構気に入ってしまった。翼ある象や虎、キリン、謎の怪鳥、一番面白いと思ったのはフライングオイスター。誰かが生牡蠣を食べる際に取り損なって飛ばしてしまったのが由来なのではと勝手に思っている。西洋にはギリシャ神話の時代から架空の動物を創造する文化があり、興味深い。ボルヘスの幻獣辞典で知った、勝利の塔のア・バオ・ア・クゥーとか神秘的。と、オスカー・ワイルドの慧眼を称えるところが脱線してしまったが、ワイルドおよびブランメルに関してはまた別の機会に書いてみたい。

ばくれんー死語に再会した感激、日本酒の名前です

莫連、と書く。すれっからしの女性を指す言葉。明治時代あたりに使われたのだろうか、実際耳にしたことはない。欲望という名の電車の主人公、ブランチを評して誰かが書いた文章で初めて知った。今は聞きなれない言葉なので、気軽に使えて面白い。あの人もなかなかの莫連で・・・と貶しても、誰も気づかないだろう。すれっからし、もほとんど死語のように思えるが、そう形容するより莫連を使った方が隠語度が高い。それが先日、某所でばくれんという山形の日本酒を飲み、まさか莫連の意味?とラベルを見ると、酒をあおる浮世絵風の女性のイラストが。ひっそりと、でも脈々と生きている言葉なのだと実感した。

言葉は時代につれ、その言葉に付与された価値が消滅すれば使われなくなるのだろうが、いわば言葉のシーラカンス、死語の歴史は興味深い。風情のある言葉も多いので時々こっそり使ってみたくなる。死語と意識せずに使う人のずれ感も面白い。数十年来の友人は、ご両親の影響か、昭和の死語を平気で使い続ける。胸の豊かな人をボイン、新しい服をおニュー、地に足がついていない人を夢見る夢子さん・・・ってこれかなり昔のボキャブラリーである。死語と気づかない感性、一種の鈍感力もなかなか凄い。時代を先取りする感性が魅力的なのと同様、彼女の、時代の空気に全く鈍い感性も私にとっては魅力的。死語はそんな人々によって支えられているのかもしれない。思いがけないばくれんとの出会いのように、いつかまた忘れている死語と出会えたら感激だ。

激辛foodに憑かれてー激辛愛好家界のフレッド・アステアと勝手に自負

激辛foodが大好き。と言っても食べ歩きの趣味はないので激辛の味を新規開拓するわけでもなく、いつも決まった店に行くばかり。まずはココイチの10辛。さらに辛みパウダーを振りかけてカスタマイズを楽しむ。店舗数が多いので、どこでも気軽に食せることがココイチの魅力。それからヤミツキカレー。昔の職場の近所にあったので、一時は週三ぐらいの割合で利用していた。激辛でもそんなに辛くはなく、カスタマイズ用の辛みは置いていないが、ラッキョウの食べ放題が嬉しい。さらに激辛を求めて、蒙古タンメン中本の北極ラーメン。今はいつも北極の4倍を食べるが、汁物だけあってかなり辛さが身に染みる。みなさん、汗と鼻水と格闘しながら召し上がってる感じ・・・ところがわたしは激辛を食しても汗をかかない。20世紀ハリウッドに、フレッド・アステアというミュージカルスターがいた。彼はタキシード姿で一切汗をかかずに激しいダンスを踊り、エレガンスの極みと称賛されていた。なので自分も激辛愛好家界のフレッド・アステアと勝手に自負している!(^^)!

他にも激辛を供する店にはいろいろお邪魔しているものの、上記の3店が私の激辛食の聖地か。自宅では、レトルトの大辛カレーにサドンデスソースを小さじ一杯入れて食べるのが好き。辛さが和らいでしまうので白米はなし。それも至福のひと時・・・サドンデスソースはラベルのMade with great karmaって表記がいい。

愛すれど哀しく―フランスには2種類の”ヒモ”がいる

こちらもGyaoでのめぐり逢い。なんだかベタなタイトルに、どんな話なのだろうとクレジットを見ていると、原作はBubu de Montparnasseとあり、古い友人に久しぶりに出会ったような懐かしい思いでいっぱいになった。学生時代、20世紀フランス文学という授業をとっていて、その中でルイ・フィリップのこの小説を紹介されたのだ。教授曰く、フランスにはヒモにも2種類あって、年上の金持ち女性に可愛がられる若い男がジゴロ、若い女を働かせて上がりをせしめるのがマクロー(鯖)ということだった。洋の東西を問わず、なぜ鯖のたとえっていい意味に使われないのか。この作品に登場するのはマクローとその女。舞台をイタリアに置き換えていた。ヴィスコンティ作品でもおなじみのピエロ・トージによる衣裳が素敵。ポスターにも使われている、女の子のボーダー柄のサイハイタイツなんか今でもおしゃれ。(ほかにも見どころは色々あったのだろうが、ワイン片手に見たのであまり覚えていない( 一一) 何よりも、ジゴロとマクローのエピソードを思い出させてくれたことに感謝、な映画。

昼顔 ブニュエルの韜晦趣味が炸裂ー美しき人妻の見る白日夢

もう50年も前の映画とは・・・でも時代を感じさせない問題作。
上流階級の若き人妻が、不可解な欲望に突き動かされて昼間は”昼顔”の源氏名で娼婦として客をとるというショッキングなお話。今昼顔というと、日本でヒットしたドラマ&映画を連想される方が多いようだが。。。

若く美しい人妻・セヴリーヌにはカトリーヌ・ドヌーヴ。今や齢70を超えた大女優も撮影時は23歳、ため息の出る美しさ。冒頭、彼女と医者の夫・ピエール(ジャン・ソレル)を乗せた馬車が森の中をシャンシャンシャンと鈴の音を鳴らして走り行く。楽しそうに見える二人なのに、なぜか突然彼女は樹に縛られて衣服を裂かれ、夫に鞭打たれる。冷たい泥を投げつけられて汚れていく。おまけに夫は馭者に彼女を乱暴するように指示する。全てが唐突で、観客を予期せぬ世界に迷い込ませる。

セヴリーヌは夫と訪れたスキーリゾート地で夫の友人であるユッソン(ミシェル・ピコリ)という男に出会う。このユッソンがさすがミシェル・ピコリと唸らせる悪そうな男ぶり。セヴリーヌは彼に嫌悪感を覚えるが、彼はセヴリーヌに興味を示し、彼女の潜在的な娼婦願望を見透かしているかのように彼女にパリの高級娼館について語る。心が騒ぐセヴリーヌ。憑かれたように娼館を目指すもののドアを叩く勇気はなく、枯れ葉の舞う公園のベンチで自分を持て余し、涙ぐむシーンが印象的。結局やはり自分の願望と娼館の誘惑に負け、足を踏み入れるのだが。そののち、昼顔の働く娼館を訪れるユッソンは自分の思う壺とばかりに彼女を見てほくそ笑む。セヴリーヌはそもそも夫との性生活に歓びを見出せない。妻として敬意を持たれ、愛されながらのセックスは彼女の本意ではないのだ。彼女の欲望は、自分を徹底的に蔑んで娼婦にまで身を落とし、感情を分かちあうことのない行きずりの男の欲望を満たしてこそ満たされる。

この映画はファッションも話題になった。洗練された美しさでトップデザイナーのファッションを着こなすドヌーヴ。彼女の衣装を担当したのがサンローランで、シューズがロジェ・ヴィヴィエ。サンローランが今こんな服を発表したら全身揃えたいくらい私にとっては憧れの服。シックなベージュのワンピース、ニットにパテントレザーと異素材を組み合わせたコート、黒い帽子にサングラス、ラスト近いシーンでの、白い襟がついた清楚な黒いワンピース。どれもシンプルで上品で、サンローランの傑作だと思う。モンドリアンルックやヒッピーのフォークロアファッションとはまた違うサンローランの魅力が全開である。

シューズのロジェ・ヴィヴィエも、個人的には一番好きなシューメーカー。パテントレザーに大きなバックルのついた、今でもヴィヴィエの代表作として現役のパンプスは、歩きやすいうえに女性の脚を美しくみせる逸品だ。以前、カトリーヌ・ドヌーヴが実際に履いたモデルを展示会で見た時は胸が高鳴った。今のより少し大きめのバックル。20世紀のおしゃれなパリジェンヌの足元を飾ったのだろう。真っ赤なパッケージでも有名なヴィヴィエ、当時は全然印象が違うベージュのパッケージで、それも上品で素敵だった。

昼顔に惚れ込んでしまう危険な客・マルセルにピエール・クレマンティ。この人が平凡な役を演じているのを見たことがない。ここでも狂気を感じさせる凶暴なやくざ者である。前歯が全て銀歯、革のコートにステッキを持った一種異様な出で立ち。彼女を追って自宅にまで押しかけるようになったマルセルを扱いあぐね、娼館を去ろうとするセヴリーヌ。マルセルは彼女をあきらめきれず、夫のピエールを待ち伏せして銃を放ち、逃げようとする過程で警官に射殺される。昏睡状態に陥るピエール、一命はとりとめるが、車椅子での生活を余儀なくされる。ある日夫妻をユッソンが訪れ、ピエールにセヴリーヌの行状を全て話すという。セヴリーヌはユッソンを止めようとはしなかった。こんな絶体絶命の時にもなんだかどうでもいいような顔をしているドヌーヴが私には魅力的。彼女は当時、演技ができる女優とは目されていなかった。誰も息の長い活躍を続け大女優となった今の彼女を想像できなかっただろう。この人を見ていると、継続は力なり、という言葉を思い出す。

白い襟付きの清楚なワンピース姿で優雅に刺繍しながら、ユッソンがピエールに全てを話すのを待っているセヴリーヌ。そこへピエールが車いすで現れ・・・なんと立ち上がって平然と飲み物を作るのだ。あっけにとられるセヴリーヌにピエールが尋ねる。何を考えていたの?あなたのことよ。そ、そんな・・・監督のルイス・ブニュエルには韜晦趣味があるようで、この映画も結局は妄想だったの?って感じの終わり方。すべてはセヴリーヌのマゾヒスティックな嗜好が生んだ夢だったのか。よき夫がいて、何不自由ない生活を送っている彼女がなぜ娼婦になってしまうのか。人間の心は謎。ドヌーヴのファッションとその美しさを楽しみながら、劇中の彼女が酔い痴れる禁断の世界を垣間見、人を煙に巻く演出に翻弄された・・・というのが私の感想だろうか。

ちょっと笑ってしまった、日本人が娼婦を買いに来るシーン。その日本人が話している日本語、私にはわからない・・ということは日本人ではない。(たぶん韓国人だと思う)フランス人にとっては(ブニュエルはスペイン人だが)日中韓人どれも同じなのだろう。彼は娼館のマダム・アナイス(ジュヌヴィエーヴ・パージュ)にこのカード使えるか?と尋ねるが、そのカードの名前がゲイシャクラブカード( ;∀;) 即マダムに駄目よ使えないわと却下されていた。↓の男の人、昔の力道山みたい。謎のおもちゃを持ち込んでくる。

ゲイシャクラブカードというネーミングセンスが素晴らしく、昼顔というと反射的にこのシーンを思い出すくらい気に入っている。ディテールの面白さを楽しむのも映画鑑賞の醍醐味。野に咲く昼顔は朝顔と違ってなんだか淋し気。昼顔の花を見ると、なぜか幼いセヴリーヌが聖体拝領を頑なに拒否するシーンが浮かんでくる。自分の気持ちを偽れない真面目な女の子だったのだろうか。成長したセヴリーヌも、昼顔という名で真面目に妄想に取り組んでいるのが痛ましい気もする。

ディアギレフの見えない手

加藤和彦・安井かずみ夫妻が1980年代に発表したアルバム・Belle excentrique。常に時代を先駆けたおしゃれな二人がフランスのエスプリをシックに表現していて、当時の日本人には早すぎた観があるーと言っても、ロスチャイルド夫人にしろジャン・コクトーにしろ20世紀の名士、いま彼らの名前を知っている日本人もごく一部だろう。昭和は遠くなりにけり。ディアギレフの見えない手、とはその珠玉のような作品群の一つ。ディアギレフという聞きなれない名前も手伝い、妙に心に残った。ウォッカで人生の憂さを晴らす男が、パリのサクレクール寺院の鐘の音を聞きながら頽廃的に♪この世の憂さ晴らすのはvodka・・・故郷を偲ぶのはvodka・・・オペラ座の鐘が鳴る 乱れた心の鐘が鳴る 人生の舞台裏で糸をひくのは見えない手♪と歌っており、子供心にディアギレフとはおそらくかなりの策士なんだろうなと思ったことを覚えている。

このアルバム、ジャケットは金子國義の絵で、長身痩躯の黒いスーツ姿の男性が額と手から血を流して立っている。ちょっと不気味な感じだが、金子國義のファンだった私はとても気に入り、勝手にその男性を策士と思しきディアギレフに重ね合わせていた。当時は、ディアギレフが20世紀初頭にロシアバレエ団を結成してヨーロッパで活躍した天才興行師だということは知らなかった。それから時は流れ、数年前、国立新美術館で開催されたバレエリュスの衣裳展に行った時、実際のディアギレフの写真を初めて見て・・・想像とあまりに違っていたのにびっくり( ;∀;)いまは死語?のいわゆるずんぐりむっくりー背は低く、太っていて、胡散臭い雰囲気を漂わせ・・・まさに興行師のイメージそのものではあったものの、金子國義描くところの瀟洒な身なりの男性からはあまりにもかけ離れていて結構ショックだった。

それでもただならぬ存在感を示すディアギレフに興味を持ち、オランダ人作家による彼の伝記・A lifeを読んでみたところ、イダ・ルビンシュタイン、トルストイ、ストラヴィンスキーなどなど、今日まで語り継がれる名だたる芸術家たちとの交流を含む彼の人間関係にまつわるいろいろなエピソードや、当時のロシアのライフスタイルが語られていて面白かった。特に忘れがたいのは、19世紀ロシアの上流階級の家庭では、男の子が思春期を迎えると父親が娼館に連れて行く習わしがあったということ。農奴解放以前は、農奴の女性が娼婦の役目を担うこともあったとか。ディアギレフも父親に連れられて娼館に行くが、彼は同性愛者だったのでその時の経験を屈辱的に思っていたのだそうだ。長じてからの彼の恋人はみな美しい青年で、バレエ団のプリンシパルなどほとんど彼の恋人だった。恋人を一流の芸術に触れさせて育てていくのが彼の流儀で、有名なのはニジンスキー。

バレエ公演を続けるには当然ながら莫大な資金が必要で、ディアギレフは常に資金集めに奔走していたが、もちろん多くのパトロンがいた。パリの社交界人士をはじめ、かのココ・シャネルも彼のパトローネ。シャネルは彼の死に水をとったという。美しいものが大好きで、芸術的センスにあふれ、また天才を見出す天才でもあったというディアギレフ。シャネルはディアギレフが休んでいるのを見たことがないと書いている。常に行動あるのみで、莫大な借金を作り、金があれば浪費する人生の果て、糖尿病の悪化で57歳で没したときに残したものは、カフスボタン一つだけだったという。。。なんてかっこいい生き方なのか。

バレエリュス100周年記念にパリ・オペラ座で開催された公演のビデオ上映を、この夏東急文化村で鑑賞した。夢のようなひととき。牧神の午後、ペトルーシュカ、薔薇の精、それに初めて見た三角帽子!こちら初演の衣裳デザインはなんとピカソ。天才同士のコラボレーションだ。薔薇の精のメロディは、子供のころのバレエ教室で、レッスンの終わりに生徒が一人一人先生に挨拶する際に先生がピアノで弾いてらしたもので懐かしかった。

一つの歌が縁となって、色々な文化を知りえるのは素晴らしいこと。精神の旅への誘いのようなものだ。ディアギレフを知る機会を与えてくれた加藤和彦・安井かずみのお二人、また特異な美意識に共感した金子國義も鬼籍に入られたが、彼らが残したものは後世の人々に影響を与え続けている。芸術には命があるから。余談ながら、Youtubeで偶然目にした、白っぽいスーツを着てIt’s a small cafe?という歌をうたう加藤和彦が哀切な感じで好きだ。

みじかくも美しく燃え 

まずこのタイトルに惹きつけられた。原題はElvira Madigan、シンプルにヒロインの名前。それにこの哀切な邦題をつけたのは一連の越路吹雪作品でも名高い詩人の岩谷時子さんだそう。妻子ある中尉とサーカスの綱渡り芸人の美少女との逃避行の物語で、姦通罪のあった19世紀末スウェーデンで実際に起こった心中事件の映画化。

張り詰めた空気が漂う、透明感溢れる映像と、モーツァルトの音楽が美しい。寡聞にして、スウェーデンの映像作家は他にベルイマンしか知らないが、ベルイマン作品も無駄をそぎ落とした禁欲的な緊張感が漲っている。スウェーデンの厳しい自然の中で育まれた感性なのか、宗教的背景があるのか。同じくスウェーデン出身のリサ・ラーソンの作品もユーモラスながら華美な装飾はない。

最初はピクニック気分のような二人。広々とした田園の木陰でパンやチーズを食べ、草花と戯れ、二人だけの世界を謳歌する。自分たちの失踪記事を新聞で読み、笑い合うほど屈託がない。楽しい食事の最中に不注意でワインのボトルを倒してしまい、赤ワインがこぼれていくのが不吉な予感。

一般的に男性よりも女性のほうが現実的と言われるように、この映画でも中尉が終始現実逃避しているのに対して、年若い女の子は現実を見ている。

戦争について二人が語るシーン。

中尉は華やかな閲兵式に象徴される示威運動の延長として戦争を見ているが、彼女は自分がサーカスの巡業で他国にいた際に見た戦争を語る。

サーカスの動物たちはみな焼かれた。戦争は閲兵式ではないわ。焼ける肉の臭いよ。

このセリフが忘れられない。

二人は捕えられたら投獄される身、金目のものを売り払いながら逃げるしかない。彼女がパリで脚の悪い画家に描いてもらった絵を売るエピソードがある。どうやらその画家はロートレックのようだ。いくらで売れたのだろう。そのうち当然金は尽き、彼女は何とかして生き延びようと酒場の踊り子として働こうとするが、中尉は恋人が男に媚びを売る仕事をすることに耐えられず、それも続かない。野生のベリーの実を摘んで飢えをしのぐ二人、もう先がない。

覚悟を決めなくては、と切り出すのも彼女だ。

美しい自然の中で最後の食事をする二人。パンや卵を入れたかごの底には銃がある。銃を見て、とっさに受け入れられない彼女は彼の腕を離れ、野原で草花と舞う蝶を追いかける。牧歌的な映像の中に銃声が二つ響いて終わり。

やるせない映画ではあるけれど、恋人同士は長く一緒にいたところで必ずしも幸せなわけではないので、お互いを必要として激しい情熱に駆られている時の道行きもある意味幸せなのかと最近は思う。

ちなみにヨーロッパ三大心中事件の一つだとか。一つは映画・うたかたの恋で有名なオーストリア皇太子と男爵令嬢の心中事件だが、もう一つは不明。とても気になる。

 

Je t’aime…moi non plus ゲンズブールマジックが煌く切ない恋物語

男女の愛の睦言をそのまま吹き込んだようなデュエット・Je t’aime…moi non plus. 最初に聴いたのはゲンズブール&バーキンヴァージョンで、あまりにセクシーなので驚いたが、後年ゲンズブール&バルドーヴァージョンを聴いて更なる衝撃。前者をはるかに上回る色っぽさなのだ。さすが往年のフランス№1セクシー女優といったところ。元々はこの曲、ゲンズブールとバルドーが恋愛関係にあったとき、彼女に請われて書いたものなんだそう。実生活で情熱のさなかにいる二人が、世界で一番幸せなカップルなのではと思わせる熱~い歌いっぷりを披露しており、なまめかしいことこの上なし。

しかし、当時ドイツ出身の写真家でプレイボーイとして有名だったギュンター・ザックスと結婚していたバルドーが、ゲンズブールとの関係がスキャンダルに発展するのを恐れて発売の差し止めを求めたのでお蔵入りとなってしまう。バルドーのために作った歌なのにとゲンズブールはかなり落ち込んだようだ。(後に動物愛護団体を設立したバルドーが、売り上げをそこに寄付するならとリリースに同意したので日の目を見ることになる。)その後、事実上の妻となったバーキンと再びデュエットするとは彼なりの悪趣味の美学なのだろうか。。。それにしてもこんな詩を書いてしまうゲンズブールって何者?そりゃあ発禁になるだろう。母国語でないフランス語だから平然として聴けるが、日本語でこんなこと歌われたらちょっとというかかなり驚く。昔のサザンとか忌野清志郎のノリ?

で、今回はその映画の話。時代も場所も特定されないノーマンズランドのスナックで働く男の子みたいな女の子、ジョニー。太った店主のボリスにこき使われ、何の楽しみもないような日々を送っているところに、クラスとパドヴァンという、ごみ収集を生業とするゲイカップルが現れて。。。クラスははじめ、ジョニーを少年と勘違いするが、残念ながら女の子。でもお互い惹かれあい、三角関係が始まる。

冒頭から、血だらけのカラスの死骸だったり、ごみ処理場だったり、汚れたダンプカーだったりと、およそ恋愛映画にふさわしくないアイテムが登場する。
豚かと見まがうほど醜い犬も出てきたり。。。(この犬、ゲンズブールがバーキンにプレゼントされて実際飼っていたブル・テリアのナナという雌犬なのだそう。バーキンの祖国・イギリス原産で、当時のイギリスではとてもポピュラーな犬種だったとか。のちにゲンズブールの伝記映画でゲンズブール本人が、ナナが亡くなった時それまでの人生で一番泣いたというようなことを語っており、しんみり。)

閑話休題。クラスとジョニーが愛を交わそうとするのも薄汚いモーテル。ゲイのクラスは女性を愛せず、それを罵るジョニーだったが、やがて男同士の愛の行為を受け入れようとする。苦痛に耐えられずモーテルの部屋で絶叫してしまうため、不審者扱いされて追い出され、なかなか思いを遂げることはできず。。。やっと結ばれるのは汚いダンプカーの荷台の上。想像したラブストーリーとは全然違うので戸惑いながら見ているうちに、ゲンズブールマジックに魅せられている自分に気づいた。
汚れた、異臭が漂いそうな背景との対比で、登場人物たちの美しさ、純粋さが際立って見えるのだ。すべてがゲンズブールの研ぎ澄まされた審美眼によって選ばれたオブジェなのだろう。モーテルでのラブシーンも、多くの男性が惹きつけられるであろう胸や腰ではなく、ジョニーのむき出しの背中をひたすら撮り続け、一筋縄ではいかないゲンズブールの美意識を感じさせる。

クラスとパドヴァンがごみ処理場でじゃれるように抱き合うシーン

ジョニーが、クラスがごみの中から拾ってきた人形を抱いてクラスを思うシーン

太った醜い女がストリップを繰り広げるダンスパーティで、クラスとジョニーが抱き合って踊るシーン(BGMはje t’aime・・・!)(一番好きなシーンでもある)

嫉妬に狂ったパドヴァンに殺されかけたジョニーが、去っていくクラスを涙ぐみながら追うシーン

どれも切ない恋心を表現していて見事だ。テーマ曲のBallade de Johnny-Janeも泣かせる。さあ、ジョニージェーン、すべて忘れてやり直し。あの灼けつくような短い日々の思い出を消してしまおう。また別のトラックがやってきて、君をもう一つのフロリダへ連れて行ってくれるよ。

束の間の恋に酔いしれ、それを失ったジョニーが哀しい。