愛の嵐-リリアーナ・カヴァーニが描く頽廃と背徳の世界

倒錯の愛なんて懐かしい言葉を思い出す。ナチスの将校・マックスは、ユダヤ人捕虜の美少女・ルチアを見初め、意のままに操る。寵愛ではあるが、その限りではない。彼女は彼のサディスティックな欲望を満たす格好の対象だったのだ。戦争が終わり、マックスはウィーンのホテルで夜勤のポーターとして身を隠すようにひっそり暮らしている。そこへ高名な指揮者とその妻が訪れる。それは彼がかつて歪んだ愛情を捧げたルチアだった。運命のいたずら。動揺を隠せない二人。ルチアには過去の忌まわしい記憶が悪夢のように甦る。すぐにウィーンを発とうとするルチアだったが、彼女の部屋にマックスが現れ・・・倒錯の愛の再燃である。

1975年公開のイタリア映画で、全編を通して暗く、背徳の香りに満ちている。いまYoutubeで当時のトレーラーを見ても挑発的なシーンが満載で、映画好きの若者が熱狂して飛びつくような内容だ。強制収容所時代、髪を刈り上げられたルチアが裸でマックスの盲ら射ちに逃げ惑うシーン。マックスに贈られたピンクのワンピースを着て遊園地のカルーセルに乗るシーン。何と言っても圧巻はナチスの将校たちの頽廃ムード漂うパーティで親衛隊の帽子をかぶり、半裸にサスペンダー姿で”何が欲しいと聞かれたら・・・”とアコーディオンに合わせてドイツ語で歌うシーンだろう。愛の嵐と言えばこれという感じだ。将校たちを挑発する淫蕩なパフォーマンス。マックスは悦に入り、ご褒美だと言ってルチアに箱を渡す。嬉しそうに箱を見つめるルチアだが、蓋を開けるとその中に入っていたのは・・・ルチアが嫌っていた看守の男の首で、思わず顔をそむけるルチア。サロメの物語の再現。

監督のリリアーナ・カヴァーニ、頽廃の表現が見事で、この映画でもほとんど全裸に近い悪魔のようなメイクの男にバレエを踊らせている。さすがネロやカリギュラを史上に擁する国の申し子、なかなかついていけないイタリアン魂だ。再会後、最初はマックスを拒むルチアだが、すぐに狂気に憑かれたかの如く愛の行為に溺れていく。過去の業すら懐かしいのか悪ふざけを繰り返し、部屋に鍵をかけて閉じこもりガラス瓶を割るルチア。鍵を開けるとマックスが飛び込んでくる。割れたガラスの破片を踏み足から血を流すマックス。彼はその足を労わるルチアの手を踏みつけて血まみれにする。そして二人は淫靡な微笑を交わす。倒錯とはこういうことか。共犯者としてお互いを確かめ合う象徴的なシーンだ。

出口のない関係に戻った二人にナチス残党の追手が忍び寄る。生き残りの捕虜を抹殺してきた彼らはルチアの存在を突き止めたのだ。ルチアを自分の部屋に匿うマックス。しかし追手はマックスの周囲を買収してライフラインを絶たせる。飢餓状態に陥ったルチアが、やっとありついたジャムを舐めながら欲望に身を任せるシーンは鬼気迫るものがあった。やがてすべての望みは失せ、マックスはナチスの親衛隊の制服で、ルチアはかつてマックスに贈られたドレスに似た服で、真夜中に部屋を抜け出す。道行きのシーン。ドナウ河にかかる橋の上で二人は凶弾に倒れる。まさに戦争が生んだ悲劇なのだが、この映画のキーワードは何と言っても倒錯と頽廃。ローマ帝国のように長く繁栄したのち衰退した文化の中で生まれた概念で、私には正直よくわからないものの、それだけに興味深い。

カヴァーニ監督と同じくイタリア出身の巨匠・ルキノ・ヴィスコンティは、”デカダンス(頽廃)、もはや決まり文句になってしまった言葉だ。この言葉が真の意味とは反対の意味で使われているのは残念なことだ。不健全なことを言うのに使われている。しかしデカダンスとは、芸術を理解するひとつの方法に過ぎない”と語っており、味わい深い。ヴィスコンティ作品で女装する上の写真のヘルムート・バーガー、これぞデカダンスの極みという感じだ。ルチアを演じたシャーロット・ランプリングはほかの出演作でもファムファタル役が多いが、インパクトの強さではこれが一番だろう。ランプリング自身は、この役で定着してしまった恐るべき魔性の女といったイメージに後々苦しんだという。マックス役のダーク・ボガードはさすがの名演。強制収容所時代、ルチアにサディスティックな行為を繰り返す時は悪い男の顔をしているが、最後は禁断の愛に殉じる男の顔になっている。ヴィスコンティのベニスに死すや地獄に墜ちた勇者どもの名演でも名高いボガード、日本ではあまり知られていないダーリングでの演技も心に残る。

子供のころは、この作品の原題がIl portiere di notte、夜のポーターだということを知らなかった。メロドラマめいた邦題の愛の嵐より、こちらの方がナチスの残党として生き残った男の業の深さが感じられて好きだ。

家長の心配 無限の解釈を許す迷宮のダークファンタジー

カフカの短編。私にとってカフカは最も魅了される作家の一人で、彼が描いたワンダーワールドは何度読み返しても飽きない。初めて読んだのは遠い昔、新潮文庫の100冊に入っていた”変身”で、人間が毒虫に変身するという荒唐無稽な話に魅せられた。その後”審判”、”城”を読んで、カフカへの興味はさらに増した。特に審判だろうか。理不尽な展開で思いもよらぬ結末に呼び寄せられるK。Kとはカフカ自身だろうが、彼は終生精神の迷路をさまよい続けたのだろうか。20世紀には不条理という言葉が流行った。カミュのペストや異邦人と並んでカフカの諸作品も不条理文学の代表とされた。今は耳にすることもなくなった言葉である。

”家長の心配”は、”オドラデク”と呼ばれる謎の物体に気を病む男の話。日本語訳でほんの数ページの作品である。オドラデクという意味不明の名前を持つ、壊れた小さな糸巻きに似た物体(でも口を利いたり、動いたりする)が、神出鬼没の行動をとる。男の家の中を転々としたかと思えばしばらく姿を見せず、でも必ず彼の家に戻ってくる。相手が小さいので、子供に話しかけるような口調で名前を尋ねると、”オドラデク”と答え、どこに住んでいるの?と聞くと、住むところなんて決まっていない、と言って落ち葉がカサカサいう音のような笑い声を響かせる。そして会話は終わってしまい、何の進展もなく、オドラデクは再び姿を消したり現したりを繰り返す。男は、何の意味も目的もなく存在しているかのようなオドラデクが死ぬことなどあるのかと疑問に思う。生きとし生けるものは全て時と共に成長し、死に向かって進んでいくーしかしオドラデクにはそれはあてはまらない。自分が死んだあともオドラデクが生き残るだろうと考えるだけで、男は複雑な気持ちになる。なんとも奇妙な話だが、心に残る。カフカは一貫して因果律を排した世界を語り、無意識のうちに整合性を求める読者を惑わせる。それはファンタジーでもある。不気味な、無限の解釈が可能なダークファンタジーである。

オドラデクについて考えると決まって徒然草に登場する白うるりのエピソードを思い出す。僧侶が、ある法師を見て“白うるり”という名をつける。聞き手がそれは何の意味だと尋ねると、僧侶は、自分もそんなものは知らない、もしそんなものがあるとすればこの法師の顔に似ている、と答える。禅問答のよう。オドラデクの話に通底するものがあると思う。語感が面白くて笑いを誘うが、これも人間を不安に陥れる、正体不明の存在の表象だろう。オドラデクと白うるりは長いこと私の中で不条理の象徴だったが、割と最近新たに加わったのが村上隆のkaikaikikiだ。オドラデクと白うるりが滑稽な要素を備えながらも不条理の陰の部分だとしたら、kaikaikikiは陽!謎の存在ではあれ人々をハッピーにする。kaikaikikiを生み出した奇才・村上隆は、吉田兼好、カフカの衣鉢を継ぐ者かも知れない。

 

蛇足ながら、村上隆がLVとコラボしたモノグラムのマルチカラー、私は大好き。発表当時の参道LVでのプロモーションも素敵だった。今も15年近く前のマルチカラー・スピーディを愛用している。

 

CHANEL 2017 AW 宇宙服の価格に驚嘆

今季のシャネルのテーマは宇宙で、カタログは銀色のパッケージで送られてきた。カール・ラガーフェルドは、”宇宙飛行士のトマ・ペスケに続いて、空を超えて星を目指す旅です”と語ったそうだ。スペースファンタジーに登場しそうなきらきら輝くアイテムがたくさん。グリッターを散りばめたブーツ、David Bowieにインスパイアされた(Space oddity? Life on Mars? それとも地球に落ちて来た男から?)色とりどりに煌くベルトやブローチ、(シャネルの方に丁寧に説明していただいたのに、何のイメージだか失念してしまった・・・ロケット打ち上げの瞬間?宇宙の彼方の色?)ベビーピンクのスーツ💛いつものことながらため息が出るようなラインナップだったが、一番印象的だったのは宇宙服をレントゲン撮影しておこしたというプリント。エレガントなシルクのブラウスやパンツの他に、モノクロでトレーナーやパーカーとして展開されており、カジュアルラインの方はそれを着て街を闊歩するアジア系ツーリストの姿が目に浮かぶようなアイテム・・・それがらみで宇宙服について伺った驚愕の事実。シャネルとしては宇宙服を購入して今季のテーマに取り組む所存だったが、その宇宙服が一着なんと10億円もするのだそうだ。さすがのシャネルも購入は断念して、レンタルしてレントゲン撮影などしたのだとか。10億円の服。オートクチュールの遥か上。そんな服を身にまとう宇宙飛行士ってすごい人なのだと改めて実感した。下はカタログの表紙のカーラ・デルビーニュ。

北斎とジャポニスム展ー五輪ロゴ盗作疑惑騒動に思いを馳せて

上野の国立西洋美術館で開催中の北斎とジャポニスム展を見てきた。先週は同じ敷地内の上野の森美術館の怖い絵展に行った。大雨にもかかわらず大盛況で、並ぶのに耐えられない私は飛ばし見してしまった。おそらく一番の目玉であろうレディグレイの処刑は見てきたが。北斎展も盛況だったが怖い絵展ほどの混雑ではなかったのでゆっくり楽しめた。北斎を切り口にジャポニスムを解釈するというのが面白い。どちらか一方の展覧会だったら雨の中わざわざ足を運ばなかったかも知れない。新しい試みとは大切だ。北斎が近代西洋絵画に多大な影響を及ぼしたことは知っていたが、正直その影響力の大きさに驚いた。モネやドガをはじめとする印象派の画家たちはこぞって北斎の構図を自作に取り入れている。今の世だったら、印象派は北斎のパクリだと激しく糾弾されることだろう。東京五輪のロゴ盗作疑惑騒動を思い出した。

北斎はダ・ヴィンチやミケランジェロと同じく、解剖学的観点から人体に興味を持っていたそうで、実にいろいろなポーズの人物画を残している。中には春画もあり、生々しい描写は衝撃的だ。男女とも着衣ながら媾合している部分を赤裸々に描いていて、なまめかしいというよりえぐい。それなのに男女の顔は無表情っぽく描いている。やはり関心があったのは顔より人体なのか。かなり長い仮名の文章が添えられていて何が書いてあるのか興味津々だったが、残念ながら全く読めなかった。達筆すぎて。いや普通の読みやすい字でも意味がわからなかっただろう。日本人なのに江戸時代の文章が理解できないなんてと情けないが、思えば明治時代の候文だって難しい。いずれ古典の名作を原文で読みたいなどと思っていたが、そんな野心が一気に吹き飛んだ。こちらの展覧会、ピンクの色調のフライヤーも可愛らしく、そこに描かれた北斎とドガの人物画と一緒に撮影できるスペースも設けられているのが今どきの催しという感じ。絵画にとどまらず、北斎の描いた動植物の図案を採用した磁器メーカーの食器やアールヌーヴォーのエミール・ガレのガラス器、カミーユ・クローデルの彫刻なども展示されており見どころたっぷり。もう一度行きたいくらいである。

双頭の鷲 変幻自在のアーチスト・コクトーが贈る格調高いロマン

ジャン・コクトーの戯曲の映画化作品。原作は、コクトーが主演の二人、エドヴィージュ・フィエールとジャン・マレーを想定して書いたもので、ジャン・マレーが自伝”美しい野獣”の中で面白いエピソードを紹介している。マレーはコクトーに、あらかじめこう伝えた”第一幕では一言も話さず、第二幕では歓喜の涙を流し、第三幕では階段から仰向けに落ちる”役がやりたいと。コクトーはマレーの希望をすべて叶えて、この作品ができあがったのである。若き日、輝くような美男子・ジャン・マレーが端役で舞台に出てきたとき、コクトーは蒼白となってあれは誰だと尋ねたという。二人は実生活でも長い間恋人同士だった。

絶世の美女との誉れ高い女王(フィエール)は、王の死後決して人前には出ないながらも国を治め、国民の信任を得てきた。それが気に入らない亡き夫の母・大侯爵夫人は女王暗殺の機会を狙っている。若き美貌の無政府主義者・スタニスラス(マレー)は、唆されて刺客として雇われる。女王主催の舞踏会が催されている城に忍び込んだスタニスラスは、おりしも雷雨の中警官と犬に追われ、命からがら女王の部屋にたどり着く。舞踏会には出ず部屋に閉じこもっていた女王は、亡き王に生き写しのスタニスラスを見て驚き、同時に彼が刺客であることを見抜く。女王は王の死後、死だけを待ち望んでいたのだ。スタニスラスは、女王を愛する王のもとへ導くいわば死の天使なのである。傷を負ったスタニスラスを手厚く介抱した女王は、彼を読書係に任命し、時を過ごすうちに二人の間には愛が芽生える。女王を愛してしまったスタニスラスに彼女を殺すことはできない。

最後の朝。遠乗りに出かけた女王の帰還を待ち、城の前庭には近衛兵たちが列をなす。刺客としての使命を果たせず、自殺しようと毒をあおったスタニスラスは、最期に女王に愛の言葉を求める。その懇願を一蹴し、女王は無礼者と罵る。逆上したスタニスラスは女王の背に短剣を突き立てる。女王は殺してほしいから罵った、わたしはあなたを愛していると言い残して、近衛兵たちに一礼を授けようと階段をのぼり、息絶える。スタニスラスは女王に駆け寄ろうとするが、力尽きて階段から転げ落ちる。マレーは最初は傷ついた刺客として登場するので一言も話さず、女王と愛し合うようになって喜びの涙を流し、最後、死に際して階段から転げ落ちる。希望通り。エドヴィージュ・フィエールの威厳に満ちた優雅な皇妃、ほかの女優ではちょっと考えられないような名演で、淀みない長台詞のシーンは圧巻だ。衣裳とか部屋の設えなども贅沢で、モノクロってところがさらにクラシカル。観客を陶然とさせる格調高いドラマなのだ。

 

女王が亡き夫にそっくりの暗殺者と恋に落ちてしまうって設定がたまらない。なぜ禁断の愛って人の心を揺さぶるのだろう。考えてみれば不思議だ。双頭の鷲とはさまざまな国家や貴族の紋章として使われているが、コクトーが想定しているのはハプスブルク家で、19世紀末、世界で最も美しい王妃と讃えられながら暗殺されたエリーザベト皇妃にインスパイアされた物語なのだろう。初めて見たコクトーの映画は夢と現実が錯綜するオルフェで、マレー扮する詩人のオルフェに恋してしまう死の国の王女にマリア・カザレスを配していた。死の国にオルフェを連れてくることもできたのに、オルフェにインスピレーションを与えて自分の恋をあきらめる王女。マリア・カザレスは暗い情熱を秘めた悲劇的な美貌の持ち主で、こちらもやはり気品と威厳が際立つ演技だった。トリスタンとイゾルデを現代風にアレンジした悲恋(これはコクトーが脚本を担当)もよかった。気がつけばどれも禁断の恋の物語。だからよけいに心惹かれるのだろうか。コクトーは多芸多才の人で、映画に限らず、詩、小説、絵画にも才能を発揮した。どれをとっても天性の趣味の良さと良心が感じられる。よく、何でもいいから一つのことに集中できたらもっといいのだがと語っていたそうだ。凡人にはうかがい知れないが、あらゆる才能に恵まれすぎるというのも贅沢な悩みなのだろう。

シナの五にんきょうだい お父上、それに兄弟3人がジョッキーってすごい

子どものころに読んだ絵本で、顔が瓜五つの5人兄弟が力を合わせて難局を乗り越えていく話。確かそれぞれあり得ない特技の持ち主だったはず。ほんわかしたシンプルなイラストが印象的だった。それを久しぶりに思い出したのは、先週土曜日の新潟8レースで木幡3兄弟がJRA史上初の3兄弟によるワンツースリーを決めたからだ。3兄弟がJRAのジョッキーになったというのも平成になってから初めてだそうだ。木幡家の人々、お父様も含めて顔がよく似ている。一番下の育也君はちょっと違う気もするが。名前も兄弟全員に”也”がつき、けっこう混乱させられる。最近周辺では木幡買いと称して木幡兄弟を狙いうちする輩もいて、彼らにとってはこの上なくうれしいワンツースリーだっただろう。このように、絵本と競馬という一見全く関係ないもの同士が思いがけないきっかけでリンクするのが面白い。シュルレアリスムの作家たちに絶賛されたロートレアモン伯爵のマルドロールの歌の有名な一節・解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶然の出会いなんて言葉まで思い出させる。競馬に限らず、文学に限らず、人生のすべてにわたって・・・ミシンと雨傘の偶然の出会いー思いがけない展開に心惹かれる私である。

Dress me up-帽子とフレグランスなしでは外出できない

いつからそうなったのかー帽子とフレグランスなしでは外出できない。素顔で出かけるのには抵抗ないのに、妙なこだわり。私の信条の一つ、物事にこだわらないことにこだわる、に反する執着だ。フレグランスの自分史は長く、10代後半からいろいろな香水に魅了されてきた。そもそもは、ココ・シャネルの”香水なくしてエレガントな女性は存在しない”という言葉を知ったことによる。自身の香水をひろめるための戦略だろうが、名言だと思う。古くはゲランのミツコ(30年ぐらい前、憧れのナスターシャ・キンスキーの愛用品とのことで興味を持った。濃厚で神秘的なオリエンタルムードの香り)にアビルージュ(フランス語で赤い乗馬用のジャケットを意味する言葉で、メンズ用フレグランス。馬を愛する私としてはたまらない)、ディオールのミスディオール(苔の香りというのがなんとも不思議)、ジヴァンシーがオードリー・ヘップバーンのためにプロデュースしたランテルディ(フランス語で禁じられたもの、の意。ヘップバーン以外の人が使ってはいけないという意味だそう)シャネルの傑作・No.5(これとCOCOを一番長く使っているかも)、などなど、随分と香水遍歴したものだ。

そして20世紀末の衝撃のフレグランス・ディオールのプワゾン!大好きで何度もリピートして使い、ふんだんにつけて出かけた。今思えば周囲にはいい迷惑だっただろう。プワゾンは日本のバブル時代を象徴するような香りで、とにかく流行った。甘く、挑発的で官能的。香水に毒と命名するセンスもいい。六本木の某カフェで、強烈なプワゾンの香りを感じ、?と見ると視線の先に山田詠美がいた、なんてこともあった。その後タンドルプワゾンとかピュアプワゾン、ミッドナイトプワゾンなどの支流が発表されたが、私はオリジナルの香りが一番好き。でも、今使う勇気はない。。。。少しつけただけでもかなりの芳香なので。最近、香水が歩いているっていうほど香らせている人は滅多にいない。21世紀に入って香りもナチュラルなライト志向になってきているのだろう。私は20世紀に流行った濃厚な香りが今でも好きだけど。

いま主に使っているのは去年かおととし?にLVが満を持して発表したフレグランス。7種類を一斉に世に問うたのだから凄い。今年の春、7種類全部のミニボトルの詰め合わせが出たので試しに買ってみた。その場ではどれが好みか判然としなかったものの、使ううちに好きな香りが明確になっていった。今は断然、Turbulencesのファン。乱気流ってネーミングも素敵、胸騒ぎする感じで。今度はTurbulencesのフルボトルを買ってみようと思う。

そして帽子の話。シャネルファンの私としては、これももしかしたらシャネルが帽子屋から始まったといういきさつに関係あるのかもしれない。シャネルの美容部長だったフランソワーズ・モレシャン女史が自著で、帽子はiの字の上の点の部分。それがあってこそ初めて装いは完成する、というようなことを語っていて、なるほどと思った。それを読んだのはほんの子供のころだが、ずっと心に残っていたのだろう。それに、映画・ボルサリーノの影響か。ボルサリーノのハットをかぶったジャン・ポール・ベルモンドの姿が忘れがたく。ハットにキャスケット、キャノティエ、ベレーにトリルビー(これは19世紀末のイギリス作家、ジョージ・デュ・モーリア作の小説のタイトルだと知り、なぜか感激した。邪悪な催眠術師、スヴェンガリについて調べていて偶然知った)、もう帽子は死ぬほど好き。

これは20年近く前に香港で購入したボルサリーノ。日本では花の装飾のあるボルサリーノは珍しい。なんともおしゃれな一品。購入時と変わらぬ美しさなのがすごい。さすが老舗の技である。

エレガントなシャネル。上の黒いハットはティファニーで朝食をのヘップバーンを思わせる。下のピンクのハットはハンドメイドで、買ってはいけないような値段だったのに、悪魔に魂を売ったファウストのごとく、帽子に魂を売ってしまった私は誘惑に勝てなかった。。。

日本の帽子メーカーでは、以前南青山に店舗を構えていたアナスタシア。上の写真はそこの5年ぐらい前の作品。今は全国のデパートに出店しているが、当時は南青山の店を訪ねていくのが楽しみだった。可愛らしい装飾を施した帽子が多く、夢のような空間だった。お店の方もみなさん感じがよくて、よく話し込んだりした。懐かしい。帽子は保管に場所をとるのでもうこれ以上増やせないほどになってしまった。でもまだまだ帽子の旅も続くのだろう。

一握の砂 握れば指の間より落つのは外れ馬券

先週は雨の菊花賞。不良馬場との発表だったが、その上にもう一つ極悪というランクを作ってほしいといつも思う。ロジユニヴァースやオルフェーヴルが勝った時のダービーの馬場って不良なんて言葉じゃおさまらないくらい悪かったもの。三冠レースのラスト一冠はまさにその極悪馬場で争われた。3連単のフォーメーション専門に馬券を買っており、勝つのはデムーロのキセキか、ルメールのアルアインと予想。しかし上位人気ばかりで決まるとは思えなかったので、2、3着には穴っぽい馬を置いた。かねてからここで!と決めていたのが和田騎乗の芦毛ポポカテペトル。長距離中心に使われていて好感を持っていた。とはいえそれより何より決め手はその名前。お気に入りの小説に登場する、悲恋伝説があるメキシコの火山の名前で、デビュー当時から気になって仕方なかった。それに和田はオペラオーのころから応援しているジョッキーで、オペラオーとアルナスラインで菊花賞2着が2回ある。

そしてもう一頭気になっていたのが藤岡佑介騎乗のクリンチャー。藤岡兄は京都コース得意だし、何より内枠で、昔超人気薄で連対したフローテーションとだぶった。素直にこの2頭プラス最初から決めていたサトノアーサー、ダンビュライトを2着に置けばよかったのに、締め切り直前なぜか日刊紙の小さいコラムを読んでしまい・・・そこで推奨していたダービー4着のマイスタイルに浮気心が騒ぎ、結果クリンチャーを3着欄に降格させてしまったのだ。3着欄には他の馬も待機していたので、全頭を2着欄に置く金銭的・精神的余裕はなかった。その前の週、PATの振り込み口座の残高21円という情けない事態に陥ったので菊花賞の前に増資したものの、あまりに外れ続ける予想にもう自信が持てず、弱気になったのだ。直線で積極的なレースをしたクリンチャーにキセキが迫り、ポポカテペトルの姿を認めたときは確勝気分。でもゴールの瞬間、肉眼でわかったー2着は4番・クリンチャーだと。ハナ差の勝負で見間違えるのは100回に1回くらいしかない。果たして私の眼は正しかった。何せクラシックだし、とりたかったー菊花賞。確定して配当を見て更なるショック。つきすぎだ~。2,30万ならあきらめもつくが、1番人気が勝って3連単50万超えるとはー魔が差して大魚を逃した。運がない、勝負弱い( ;´Д`)馬券はいつもPATで購入して、勝馬投票券には縁がないのだが、外すといつも啄木の歌を思い出すー一握の馬券ーいのちなき 馬券のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ、だ。仮想空間で、55万をかすめた馬券がはらはらと風に舞うイメージ。明日は落ちない馬券を買いたいー古馬の頂上決戦・天皇賞・秋、悔いのない予想をして楽しみたい。そう、外れても悔いなきようにね!

 

 

キャロットハルーワ 入江麻木さんのレシピが恋しい

日本人が嫌いな野菜の上位にランキングされるにんじん。私もあの甘さが苦手で、惣菜として食べるのは好きではなかった。そんな向きには打ってつけの食べ方だと思われるのがこちら。インドの伝統的なスイーツだそう。思い起こせば、小澤征爾夫人のヴェラさんのお母様である料理研究家の故・入江麻木さんのお菓子の本で紹介されていた。名前は確か本場インドのものだった気がするが、実際作ったことはなかった。恐らくにんじんのお菓子というだけで及び腰になったのだろう。いま何が残念ってその本がもう手元にはないのである。入江麻木さんは昭和のころそれはそれは素敵なお菓子の本を出していて、子供だった私にはおとぎ話の世界の案内人のように思えた。背伸びして彼女のレシピに従ってお菓子作りに挑戦したけれど、完成品は本に載っていた写真とはあまりにもかけ離れていて自信をなくした。昭和のお菓子作りの本は概して本格的で、気軽に入っていける世界ではなかった。その中でも入江麻木さんのお菓子は芸術性がものすごく高かったのである。

 

私が作ったキャロットハルーワは、すりおろしたにんじんをバターで炒め、牛乳と砂糖、カルダモンを加えて煮つめ、レーズンと好みのナッツを飾るというシンプルなもの。でも美味しさこの上なし!とてもにんじんとは思えないのだ。カルダモンって言葉の響きといい香りといいファンタスティック♥ただ普段あまり使う機会はないので、賞味期限中に使いきれないのが残念。好みでコンデンスミルクを加えるレシピもあった。入江さんのレシピでは最後に銀箔を飾ったはずで、何ともおしゃれで子供心に感激した記憶がある。大量のにんじんを消費したいときなどよく作る。冷やしても美味しいが、私は出来たてが好き。入江さんのレシピを再現してみたいと切に思う。

スワンの恋-19世紀末パリの社交界でのロマンスはロマンチックではなく

アランドロン俳優生活50周年記念の映画祭でスワンの恋を観た。ちょうどプルーストを読み返していたのでいい機会だった。フランス映画びいきなのになぜ本邦初公開時に見なかったのかと訝しく思ったが、配役を見て納得。ドロンが脇役だったのだ。おまけに彼ももう中年に達していたので、リアルタイムでないにせよ若き日の輝く美貌を知っている自分には違和感があったのだろう。昼間の東急文化村・ル・シネマ、女性ばかりかと思いきや、男性客もけっこういたのが意外だった。

“ブリキの太鼓”のシュレンドルフが描く19世紀末パリの社交界。スワンの恋のエピソードを忠実に再現していて、とても参考になった。当時の上流階級の住まい、ファッション、習慣、遊びなどなど、ビジュアルで見ると分かりやすい。オペラを見たあと優雅に夜食をとったりして、いったい何時まで遊んでいたのか。この時代の上流階級の人々は服の着脱も召使任せ。スワンは侍者と共に念入りに身なりを整えて、パウダーまではたかせて外出する。往年の名画・風と共に去りぬで、ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラが、細いラインのドレスを着るのに召使の手を借りてコルセットを締め上げるシーンを思い出した。

ドロンが演じるのは、自分の美意識に忠実に生きるゲイのシャルリュス男爵。山高帽に口ひげ、化粧した中年のドロンの姿に往年のドロンファンとしては戸惑うものの、なかなか似合っており、かつての美青年が若い男を物色する中年男を演じるまでになったのだと時の流れを感じさせて感慨深い。小説で、スワンが出入りするサロンに集まる貴族たちが下品で低俗な話題に喜ぶ様子が皮肉っぽく描かれていたが、映画でもその紳士淑女まがいの晩餐会のシーンが印象的だった。貴族とは名ばかりで知性も教養もない飾り立てたゲテモノたちが滑稽だ。プルーストの大作だけあって、これまでにヴィスコンティをはじめ多くの名匠が映画化を試みながら果たせなかったという。それがついに映画化!という期待値が高すぎたのか、この映画はあまり高い評価は受けなかったようだ。でも私には充分面白かった。面白いと言えば・・・途中から、なぜかスワン(ジェレミー・アイアンズ)が沢村一樹に、オデット(オルネラ・ムーティ)が上沼恵美子に見えてきて、19世紀末のパリから一気に21世紀の日本にワープしたような気になった。

スワンの恋というからには二人の燃え上がるような恋物語なのかと思いきや、決してそうではないところも一筋縄ではいかないプルーストらしい。オデットは当時の高級娼婦で、いわば社交界人士のアイドル。奥様方にとっては気に入らない存在だ。スワンはオデットと懇ろになった後すぐに後悔するのだが、結局結婚して娘までもうけるのだから不思議。オデットが胸に挿すカトレアの花を直すことが二人の恋の秘密の儀式で、陶然としてオデットの胸に顔を埋めるスワン。オデットを失いかけ、その甘い思い出に焦がれて呟く”カトレア・・・”の一言がまた耳に残る。この一言でスワンのオデットに対する欲望を語り尽くしている観もあり、さすがの演出、演技だと思った。実に濃厚で官能的な一言。