青山から原宿へ・・・CHANEL 表参道店の君

青山から原宿を目指して表参道を歩くのが好きだった頃。銀座線表参道駅A5出口を出て、まずは根津美術館方面へ向かう。起点となるのはマンションの一角に店を構える、朱赤の内装が印象的なマニアックな古本屋さん・日月堂。初めて行った時、30年ぐらい前に訪れた京都の古書店・アスタルテ書房を思い出した。四谷シモンの人形が飾られた異次元の世界に怪奇・幻想文学の著作が所狭しと並んでいた店内は今も忘れられない。澁澤龍彦、生田耕作といった、フランス文学愛好家にはたまらない御大諸氏の作品群に熱狂したものだ。その時対応いただいたご店主は亡くなられ、廃業する旨を伝え聞いたが、どうやら存続されているようで嬉しい。日月堂にも、オーナーの趣味を反映した格調高い芸術作品や印刷物が並ぶ。紙のメディアが知性の聖域に君臨していた時代にしばし思いを馳せ、次の目的地へ。

フロムファーストの地下一階、今はない個性的な帽子屋さん・アナスタシア。ネックウォーマーになる帽子とか、何通りもの被り方を楽しめる帽子など、カスタマイズできるデザインの数々が新鮮だった。プードル、シュークリーム、ミシェルー帽子につけた名前も素敵で、スタッフの方たちの熱い帽子愛を感じた。それらを大きな木にハンギングするディスプレイがまたおしゃれ。それも決して取り澄ました感じではなく、温かみのある空間だった。忘れてはならないのは猫をモチーフにしたユーモラスな小物たち。猫好きならではの作品だろう、可愛らしかった。今は販路を拡大したようで、デパートでアナスタシアの帽子を見かけるようになった。そのたびにあの青山の店舗に足繁く通った日々を懐かしく思い出す。アナスタシアを出てしばらく歩き、白亜の宮殿と見まがうイタリアの高級ランジェリーブランド・ラ・ぺルラのフラッグシップショップへ。プロデュースするフレグランスの香りが店の外にも漂う贅沢な空間。女性もののゴージャスなインナーや部屋着は言うまでもなく、ジローラモがお得意さんとかで、彼に似合いそうなメンズのラインナップも充実していて目を見張る。私は男性の顧客氏を見ているのが好きだ。雑誌・レオンの世界を体現しているいかにもって人々が多いのだ。

ラ・ぺルラを出るころにはもうかなり疲れているものの、246を渡ると足が向いてしまうバーバリー。私はトレンチコート命でもある。できることなら一年中トレンチを着て過ごしたいほどだ。高温多湿の日本の夏にそれは叶わないものの、トレンチ愛に憑かれた私にはバーバリーは素通りできない聖地である。そのすぐ近くのLVも長年の愛好者とあっては素通りできない。村上隆とのコラボ時、Kaikaikikiを用いた夢の如しのkawaiiパフォーマンスに酔い痴れ、草間彌生とコラボ時の草間女史の等身大人形には度肝を抜かれた。本当に草間女史が立っているのかと思ったくらい迫真の出来だった。そんな調子でその辺でもう疲労困憊、表参道ヒルズを含め、その先の表参道にはそれほどの思い入れもなかったのに・・・ある年の年末、華やぐシャネルに吸い寄せられた。相変わらずのツーリストの群れ。彼らに負けるまいとスタッフに声をかけたら・・・それに反応してやってきた男性スタッフを見て息を呑んだ。細身の長身。長い手脚。180センチは優に超える。漆黒の黒髪に黒々と濡れたような瞳。久しぶりに黒目がちという言葉を思い出した。背中に薔薇の花束とキラキラお星さまを連れて少女漫画から抜け出してきた王子様のよう。最も美しいものは見る者に喜びだけでなく、悲哀や不安も感じさせずにはいられないものだろうとのヘルマン・ヘッセの名言通り、彼を見て私は不安になった。時間よ止まれ!この人が年を取るのを見たくない、と思ったのである。

名札を見ると中国の名前。中国の麗人!北京に住んでいた頃、彼の地で見た麗人たちを思い出した。天安門広場で毎日日昇・日没に行われる国旗掲揚・降納のセレモニー。それを執り行うのはみな20代と思しき国旗護衛隊の若者たちで、見目麗しく身長は184センチだかに統一された人選だ。まっすぐ前を向いて行進する制服姿が眩しく、何度も見物しに行った。当時、タイタニックのヒットでディカプリオが人気を博していたが、もしタイタニックの船上でディカプリオと国旗護衛隊の青年に出会ったら、迷わず後者と恋に落ちたいなどと思ったものだ。さすが中国、首都・北京には全国から美男美女を集めるのである。高級ホテルの従業員なども然りで、まさに全体主義的。そこは日本とは違い圧倒的母数を誇る中国、美貌の逸材を多く擁しているのは羨望に値する。シャネルの彼を見て、その国旗護衛隊の青年たちの姿が頭をよぎった。きちんとした応対、言葉遣い、美しい所作。聞けば確かに中国出身で、幼少時に日本に移住したのだという。どのハイブランドも表参道には特に容姿端麗・眉目秀麗なスタッフを配している中で(なぜか銀座よりもその傾向は強い)、その彼は抜けて美しかった。ああいう人を見て詩人は詩を詠むのだろう。それ以来、表参道ツアーの最終目的地はシャネル表参道店となり、彼に会うたび私は眼福を得た。不思議なもので、すっかり忘れていた北京語も彼と話すときは自然に口をついて出た。しかしその幸せも束の間・・・数か月後、彼は退職してしまったのである。今まで数えきれないほど言ってきた再見の中で、彼に言った再見ほど悲しいものはなく、人生で一番胸を抉った再見となった。(大袈裟か”(-“”-)”もう会えないのは淋しい限りだが、一方で、この人が年老いていくのを見たくないという最初の願いが期せずして叶ったわけで、それはそれで幸せなことなのか。王子様は記憶の中で永遠に王子様でいてほしいーなどと勝手に思っている。

エゴン・シーレ 妄執に憑かれた淫らなエピキュリアン

没後100周年を迎えようとしているエゴン・シーレ。それにちなんで撮影されたのか?今年公開された”エゴン・シーレ 死と乙女”を観た。モデル出身の白皙の美男子・ノア・サーベトラがシーレ役。35年ぐらい前にもシーレの映画は制作されており、その副題は愛欲と陶酔の日々(この邦題もすごい(+o+) 別れの朝で女性たちを虜にしたドイツの美青年・マチュー・カリエールがシーレを演じていた。実際のシーレの写真を見ると美青年というよりちょっとコミカルな風貌でひょうきん者というか、ルパン三世とか竹中直人を連想させる。しかし彼を演じる俳優が二人とも抜けて美青年なのが解せない。それも縦長で繊細な王子様系。マチュー・カリエール版は、マチュー=シーレの他に、愛人ヴァリ役のジェーン・バーキン目当てで観に行った。これが19世紀末の頽廃ムード色濃い耽美的な作品で、10代の自分には刺激的で痺れた。もともとクリムトのモデルだったヴァリが強烈なファムファタルとして描かれ、コスチュームもヌードも過激でスキャンダラス。クリムトやシーレの絵画の世界観を彷彿とさせる。

シーレはクリムトから譲り受ける形でヴァリと暮らし始め、ヴァリはシーレのためにポーズをとるようになる。バーキン=ヴァリはシーレにぞっこんで、とにかく尽くす。カリエール=シーレがあまりに格好よく、また女心をくすぐる甘えん坊なので観る方も納得。幼女を性的虐待したかどで逮捕されたシーレの独房に、ヴァリが窓からオレンジを投げ入れ、闇の中にオレンジだけが明るく浮かび上がる絵画的なシーンが特に印象深いが、全体を通して映像がきれい。陰に日向にシーレを支えたヴァリなのに、シーレは中産階級の娘・エディート(クリスチーネ・カウフマン)と出会って恋に落ち、ヴァリを捨てて結婚してしまう。捨てられるヴァリが痛ましい。バーキンの悲しみの表現、胸に迫る。”誰も愛したことありません。私はただのモデルです”と書き捨てて去っていくヴァリ。シーレは薄情で残酷な男。でもマチュー・カリエールの容姿だと許したい気もする。

エディート役のクリスチーネ・カウフマンは、清楚で可憐な美少女ぶりが人気で活躍を期待されていた矢先に、共演した20歳も年上のトニー・カーチスと18歳にして結婚、多くの男性ファンを落胆させたという伝説の女優。まさかこの映画に出演しているとは思わなかった。10代の美少女時代とは随分イメージが違うーとはいえ成熟した30代の彼女もやはり美しかった。その後バグダッド・カフェでも再会できたのはうれしい限り。映画では、エディートはシーレの子を身ごもるが、妊娠中にスペイン風邪で死亡。シーレも彼女の後を追うように死亡。第一次大戦に看護師として従軍したヴァリは梅毒で死亡。みな若くして命を落としてしまう。カリエール=シーレは知的で上品過ぎてシーレの持つ野卑な魅力は感じられないものの、美男美女に加え美しい映像、衝撃的な絵を堪能できたので個人的にはすごく好きな映画。

副題”死と乙女”版はシーレの人生を少年時代から忠実に再現している。実の妹を裸にして絵を描いたり、変態的な性癖は早くから萌していたようだ。上の写真がサーベトラ=シーレ。美しすぎる。モデル出身だけあり容姿端麗、眉目秀麗だけど、残念ながら演技力が乏しい。自分の芸術を模索するシーレの苦悩が全然伝わって来なかったーただ、シーレが苦悩していたのかは不明。倒錯のエロスにどっぷり浸かりきっていたのかも知れないし。あっさりヴァリを捨てる酷薄さ、結婚してもヴァリとは関係を続けたいと望む無責任さから結構能天気だったのではとも思う。ヴァリを演じた女優は、バーキンとは打って変わって地味~な人。若き日のロミー・シュナイダーとシャーロット・ランプリングの面影があり、その二人を思いっきり野暮ったくした感じで、出稼ぎ労働でモデルをやっている女といった描かれ方か。ファムファタルを期待すると裏切られる。20世紀初頭のオーストリアの現実に照らすとこちらの方がリアルなのだろうか。でもシーレの作品として残っているヴァリは思いっきりドラマチックなのでどちらが本物に近いのだろう。

先輩のクリムトと並び称されるシーレ。二人の作品は共に頽廃の香りに満ち、死への誘惑が漂うが、甘美で妖艶、絢爛豪華で官能的なクリムトの絵が観る者を陶然とさせるなら、シーレの絵は陰惨でグロテスク、観る者を慄然とさせる。クリムトの絵に見られた華やぎはシーレの絵では姿を消し、負のオーラに取って代わる。年長のクリムトが世紀末の頽廃文化の陰と陽を描いたとすれば、遅れてきたシーレはその陰の遺産を偏愛していたように見える。シーレには自画像が多いのも特徴で、ほとんどみな上目遣いの自分を描いている。かなりのナルシシストぶり。ショッキングな人体画だけではなく、実際は多くの風景画も残しており、それらも色調は概して暗く、陰鬱な雰囲気。猥褻な裸体画ばかり描いているようでは社会に受容されないものの、そうせずにはいられなかったシーレは自身の業を感じていただろうか。陰気にならざるを得ないのもわかる。二作品とも早世の天才としてシーレをかなり美化しているが、彼の本質的な魅力は映画で描かれた姿とは離れたところにあるのではないかと思う。自分の妄執の世界で悦に入ったエピキュリアンというか・・・この表情からしてやはりなんだかお茶目で少し軽薄なお兄さん像を汲み取ってしまうのは私だけだろうか。

ノクターナル・アニマルズ 突き刺さった棘の痛みが無限に拡大していく恐怖

こ、こわい・・・ただならぬ雰囲気のポスターながら、トム・フォードの監督作品ということでおしゃれなサスペンスなのかな~ぐらいの気持ちで観に行ったらこれはもうホラーではありませんか。緊張しっ放しで身動きもできない2時間だった。主人公のスーザン(エイミー・アダムズ)はアートギャラリーを経営している設定で、冒頭から異様なアートシーンで幕を開ける。あ~トム・フォードだな、となぜかその瞬間に納得してしまったのだが。デブ専御用達のような特大肥満のおばさまたちが肉塊をぶるぶる揺らして全裸で踊る姿がモニターに映し出され(一つのモニターに一人の映像)、それぞれのモニターの前に置かれたガラス台の上にはご本人が全裸で死体のように寝そべっている。現代の前衛アート展覧会なのか。後のトラウマ化が目に見えるような怖ろしき映像の嵐。トム・フォードワールドの手荒い洗礼を受け、早くも降参ムード。

いや~な予感が漲る中、スーザンに20年前別れた前夫・エドワード(ジェィク・ギレンホール)から小包が送られてくる。その封を切ろうとして指を切ってしまうのが不吉。中身は分厚い小説で、題はノクターナル・アニマルズ、夜の獣たち。For Susanと彼女に捧げられている。もともとエドワードは作家志望で、二人が惹かれあったのもお互いアーチスト志望でシンパシィを感じたからだった。スーザンはその後、自分には表現する力はないと諦め、なかなか芽が出ないエドワードの才能にもむごい形で見切りをつけていた。送られてきた小説には、昔の作風とは違う、とエドワード自身のメッセージが添えられていた通り、彼女が知っている彼の作品とは違い、冒頭から読む者の心を鷲摑みにするような迫力に満ち・・・読み進むうちに彼女はエドワードが非凡な才能を開花させたことに気づきのめり込んでいく。映画という架空の世界の中で、小説という架空の世界が映像化されていく。思い起こせば、メリル・ストリープが印象的なフランス軍中尉の女は、映画の中で映画撮影が展開される話。マギー・チャンがベルリン国際映画祭で最優秀主演女優賞を受賞した香港映画・ロアン・リンユイも、ロアン・リンユイの人生を描きながら、登場人物を演じる俳優たちが彼女について語るという構成。もっと時代を遡れば、小説ではアンドレ・ジッドの贋金つくり。主人公が贋金つくりという小説を書く話だった・・・昔からこういう手法はあるのだろうが、入れ子細工のような凝った作りは魅力的だ。

エドワードが新境地を開いたその小説が、暴力的な内容で怖い。13日の金曜日とかペットセメタリ―とかのファンタジー系の怖さではなく、棘が突き刺さり、痛みがどんどん拡大していくような感覚の怖さ。偶然出くわしたならず者たちに幸せな家族が壊されていく。目を覆いたくなるようなシーンの連続で、途中で数人席を立つのが見えた。私も逃げたくなった。贅沢な家に住み、仕事では成功を収め、表面上は満たされているようにみえるスーザンだが、心には空洞を抱えており、実際いまの夫は破産寸前の上浮気をしている。彼女の実生活と小説中の無残に壊れていく家族が重なる。映画のフライヤーに、エドワードが彼女に小説を送ったのは愛からなのか、復讐なのかといったコピーがあった。小説は、妻子を凌辱の末殺された男が地元の刑事の力を借りて暴漢を殺害し、まさに復讐を遂げて息絶える幕切れとなっている。

かつて、二人の関係がうまくいかなくなった時、スーザンはすぐにそこから逃げようとした。そんな彼女を、誰かを愛した以上はそれなりに努力する必要がある、投げやりになってはいけないと諭したエドワードは、誠実で建設的で、復讐などという不毛な行為に執着する男性には見えなかった。また、スーザンになぜ書くの?と問われ、死にゆくものたちに命を与えたいから、消え去る運命にあるものを永遠に残したいからと答える彼からは、書くことに対する真摯で力強い姿勢が感じられ、不遇の日々を乗り越えてものした傑作が復讐のための産物とは思えない。

しかし、再会を約束したスーザンとの待ち合わせ場所にエドワードは現れない。やはり小説は復讐だったのか。エドワードは、不眠に悩まされるスーザンをかつてノクターナル・アニマルと呼んだ。小説のタイトルはまさにそれだ。ノクターナル・アニマルズによって幸せを奪われた男が復讐を遂げる物語。エドワードが彼女から受けた傷は途轍もなく深かったのだろう。彼女を愛するあまりに傷ついた自分を、小説を書くことによって殺したかったのだろうか。この小説は彼の再生への道だったのだろうか。暴力シーンも多いので後味が悪く、無条件でおすすめはできないが、色々な意味で心に残る一編となってしまった。オープニングの悪趣味な(と私には思われた)展覧会の後のパーティシーンで、トム・フォード自身のような?ゲイの男性が出てくるのもなぜか忘れがたい。パーティに集う人々は個性的で煌びやかなファッションに身を包んでおり(みな胡散臭くて下品な冗談を飛ばして喜んでいる)、エンドクレジットでは錚々たるデザイナーたちの名前が。さすがトム・フォード。そしてファッションデザイナーとしてだけではなく、映画監督としても並々ならぬ才能を発揮する変幻自在の表現者・トム・フォードがこれからどこへ向かうのか目が離せない。

半老徐娘 =姥桜?21世紀なら美魔女か熟女か

北京語を学んでいたとき、台湾の柏楊という作家の小説・一束花(もしかしたら違うタイトルだったかもしれない)を読んだ。ずいぶん昔の話なので内容は忘れてしまったものの、美しい短編だった。そこにこの半老徐娘という言葉が出てきたのである。あまりいい意味では使われていなかった。辞書には姥桜とあったが、姥桜なんて死語だし、どうも解せない。その後、日本語が堪能な同僚の中国人女性に尋ねたら、当時30代半ばだったと思しき彼女はこう答えた。”いま私が半老徐娘と言われたらいやだけど、もっと年を取ってから言われたら嬉しいかも知れない”。でも彼女もふさわしい日本語訳を探し当てられなかった。未だに気になる。年をとってはいても十分色香を残している女性を指すのだろうが、今で言うなら美魔女や熟女か。もっと正統な訳がないものか、なお模索中である。ちなみに半老徐娘でgoogleで画像を検索したところ・・・熟年のお見合い写真みたいな艶なるマ~ダムの写真がたくさん出てきた。なるほど!

ストリート・オブ・ファイヤー 愛し合いながら断腸の思いで別れる二人 ロックンロールファンタジー

映画のカテゴリーに入れたが、テーマソングの”Tonight is what it means to be young”が好きなのである。ストリートギャングに拉致された人気ロックシンガー・エレン・エイム(ダイアン・レイン)をかつての恋人・トム(マイケル・パレ)が奪還する物語。ストリートギャング・ボンバーズの首領に悪役の権化といった容貌の若き日のウィレム・デフォーが扮している。今見ると青い感じがするものの、当時から十分怖い顔をしていたデフォー、この役では卑しさもにじませる演技で真骨頂を発揮している。

♪サンセットキッス♪の歌が印象的なリトル・ロマンスのヒットで日本でも人気だったダイアン・レイン。アメリカ人の少女とフランス人の少年がパリで出会い、ベニスに行く。恋愛のエッセンスが結晶していく過程を鮮やかに描いた映画で、ジョージ・ロイ・ヒルの演出が光る。映画の重要なモチーフとなるベニスの溜め息の橋には、日が沈む時、恋人同士がゴンドラに乗ってその橋の下でキスすると永遠の愛が約束されるという伝説がある。二人が永遠の愛を誓おうとそこに向かうシーンの詩情あふれる美しさは見事だ。そのリトル・ロマンスの頃は少女だったレインが十代の後半に差し掛かり、セクシーな美しさを披露している。豊かな胸に長い脚、びっくりするほどスタイルがいい。トムを演じたマイケル・パレは当時は無名だったそうだが、王道のヒーロー役にぴったりでかっこよかった。

内容は西部劇の現代版のようでどうってことないー何と言ってもラストのライヴシーンが圧巻で、レインの歌は吹替ながら痺れるパフォーマンスを見せてくれる。海辺や森で美しい天使を見たけれど、都会には天使はいない。でも天使がいなくても男の子ならいる。男の子は天使の次にいいものかもしれない、という詩が好き。祝祭を始めよう、炎を燃やして。安らげない、傷ついた人たちのために踊ろう。青春は気が付く前に終わってしまうから・・・邦題、今夜は青春(身も蓋もない訳に思えるが、原題がその通りだから仕方ない)の通り、激しく燃え盛る若さが炸裂する歌。本当は一緒にいたいのに、エレンのステージを見守りながら去っていくトム。熱い視線を交わして、パフォーマンスの途中で出ていく彼とそれを見送るエレンの断腸の思いが曲のクライマックスと重なって最高に盛り上がる。熱いロックンロールファンタジー。しかし映画自体は本国ではこけたそうだ。このかっこよさ、アメリカ人の心には響かないのだろうか。個人的にはそれが不思議である。

他人の空似 言っていいのか悪いのか・・・でも似ている

何故か知らねど・・・誰と誰が似ているって話、みな好きではないですか?テレビの物まねは故意に似せてるわけだけど昔から定番としてあるし、女性週刊誌で似ている特集組んでいたりもするし。かくいう私も好きなのだが。みなドッペルゲンガーを見物したいのだろうか。そんなわけはないか。今日は思いつくまま、他人の空似を挙げてみたい。お笑い芸人?の有吉って人、私にはクリムゾンキングの宮殿の歌詞カードに描かれている謎の笑顔に見える。怖いんだかおかしいんだかわからない、このイラスト。クリムゾンキングの宮殿はすごく好きなアルバムなのだが、ジャケットといいこの顔といい・・・21 century schizoid manの権化だろうか。

またお笑い芸人で芥川賞作家の又吉と言う人は、17世紀スペインを代表する宮廷画家・ベラスケスの描いた青いドレスのマルガリータ(こちらは故岸田今日子さんの面影もある)とフェリペ・プロスぺロ王子が混然一体となったように見える。スペイン・ハプスブルク家の高貴な青い血の通う顔と言うべきか。

シャネルやラペルラなど世界の高級ブランドのモデルを務めるLiu Wen。非常に美しい人なのだが、光線の加減でロバートの秋山に見える。こちらはラペルラの2017SSカタログ。私の感覚ではどうしてこのショットを採用したのかと思うが、西洋人にとっては構わないのだろう。ロバートの秋山がLiu Wenに似ているとは言えず、逆も真なり、ではないが。ロバートの秋山と言えば、アーチストの村上隆ともだぶる。

まだまだ探せば色々あるだろうがとりあえず今日はこれまで。

ルートヴィヒ 最後の貴族・ヴィスコンティの絢爛豪華な歴史絵巻

バイエルン王・ルートヴィヒ2世を側近たちの証言をもとに描くヴィスコンティの豪華絢爛な歴史絵巻。何十年も前に岩波ホールで観たのは3時間版で、日本での副題は神々の黄昏。当時はそれで充分酔い痴れたものだが、最近オリジナルに近い4時間の超大作・復元版を鑑賞し、最初のヴァージョンまでの縮小を余儀なくされたヴィスコンティの無念に思いを馳せた。これこそ彼が描きたかったルートヴィヒだろう。ノイシュヴァンシュタイン城をはじめとする城の豪華な設え、王侯貴族たちのファッションを見るだけでも大満足な上、それ以上に内容が濃い。史実に忠実で、重厚な見応えのある作品である。若く美しい皇太子・ルートヴィヒ(ヘルムート・バーガー)19歳の煌びやかな戴冠式のシーンから、彼が無残な狂人に慣れ果て謎の死を遂げるまで。時の流れの残酷さを感じさせる。

女性に興味を示さなかった彼が唯一シンパシィを感じたのが従姉のオーストリア皇后・エリーザベト(ロミー・シュナイダー)だった。二人はともに芸術を愛し、気まぐれに公式行事を欠席したりする奔放さも似ていた。威厳に満ちたロミー=エリーザベトの美しいこと。エリーザベトは自分の容姿を美しく保つことに異常な執念を燃やしたと言われ、終生ウエスト51センチという驚異的なスタイルを保ったと伝えられているが、ロミーのウエストも信じがたいほど細い。若き日、プリンセス・シシィと呼ばれたエリーザベトを演じてオーストリアで国民的人気を誇ったロミーが再びエリーザベトを演じるとは、彼女は前世エリーザベトだったのではなどと思ってしまう。欧州一の美しい王と彼を称するエリーザベト。ルートヴィヒはエリーザベトと過ごす時間が一番幸せだったのだろう。彼女がいないと現実逃避するばかり。狷介不羈で他人を軽蔑し、夜一人森で馬を駆る姿は月光の恋人と呼ばれるルートヴィヒ。夫も子供も他人のようだと言い、自分の宮殿を陰気で忌まわしい牢獄と嘆くエリーザベトも孤独だ。

即位当初は偉大な芸術家を招いて王国の威信を高めると抱負を語っていたルートヴィヒはワーグナ―の庇護者としても有名だが、しかし王として最初に議会に指示したのがワーグナーを探せとは。ワーグナーの方が王族や国事よりはるかに大事だと言い張る。やはり最初から普通ではなかった。ワーグナーは浪費家の俗物として描かれている。贅沢三昧での窮状なのに、老獪な愛人コジマを従え哀れを装って王の援助を求めるワーグナー。王を翻弄して白い大型犬と戯れるシーンのワーグナー(トレヴァー・ハワード)の胡散臭さは最高だ。第三の男のキャロウェイ少佐を演じたのと同一人物とは思えない。ワーグナーに心酔するルートヴィヒは国庫から多額の援助を与える。20万グルデン。今の貨幣価値に換算するとどれくらいなのか。ワーグナーは本心では変人の家系の末裔と彼をバカにしているのに。。。コジマのシルヴァーナ・マンガーノも能面みたいな顔して欲が見え見えの策士の演技。指揮者のビューローという旦那がいながらワーグナーの子供を産んでしまうコジマ。彼女の父親はあのフランツ・リスト。音楽家の血が宿命的に二人を結びつけたのだろうか。

エリーザベトはワーグナーに傾倒するルートヴィヒを心配し、一人でいてはダメ、自分の妹のゾフィと結婚するよう諭す。エリーザベトの台詞が印象的だ。君主は歴史とは無縁、ただの飾り物。暗殺でもされない限りすぐに忘れ去られる。そう言い残した彼女が後に暗殺されてしまうとは皮肉だ。

普墺戦争が勃発し、前線に赴いた弟オットー(ジョン・モールダー・ブラウン)は戦況の不利を伝え、戦争をやめさせてくれとルートヴィヒに懇願する。しかしルートヴィヒは、できる限りの努力はしたつもりなので、自分にとってこの戦争は存在しない、王は戦争を知らないと伝えてくれと言い放つ。オットーはのち、精神に異常を来す。敗戦を告げる忠実な臣下・デュルクハイム大尉(ヘルムート・グリーム)が王の現実逃避を咎めるシーンが胸を打つ。世界は耐えがたいほど卑しく、そんな中に身を置くことを潔しとしない、自由に真実を追い求めたいと語るルートヴィヒに、本能と欲求のまま制限のない快楽に溺れることが自由なのではない、真の自由は万人のもので、誰もがそれを望む権利がある。義務を無視せず、社会の枠組みの中で存在理由を見つけることが人間の生きるべき道だと諫めるデュルクハイム大尉。反発するそぶりを見せながら静かに泣いたルートヴィヒは、彼の話を受けて結婚を決意する。信頼していたからだろう。エリーザベトの妹・ゾフィとの婚約。周囲は安心し、祝賀ムードで溢れる宮廷。しかしそれも束の間。自分の心に嘘はつけなかったのか。純粋すぎるのも問題で、王としてはまるで失格。ゾフィとの婚約は解消される。傷つくゾフィが可哀そう。

ワーグナーへの偏愛にとどまらず、ルートヴィヒは容姿端麗な俳優や侍者を寵愛する。ロミオを演じた俳優・カインツを気に入り、リンダーホーフ城に招いて延々と演技させるシーンが面白い。おりしも冬で白銀のリンダーホーフ城はため息がでるほど美しい。雪原を白馬の曳くそりで走るシーンも幻想的で。俳優との最初の対面は、神話を再現して城に作らせた白鳥が池に憩う壮大なスポットーヴィーナスの洞窟。そこにルートヴィヒは花で飾った、貝殻を模したヴィーナスの誕生を思わせる小舟に乗って登場。船首にはキューピッドの姿。俳優と食事しながら俳優の台詞回しに酔い痴れるルートヴィヒの瞳はまさにファーラウェイアイズ。夢のあわいにたゆたうよう。俗物の俳優は、ルートヴィヒがちらつかせた途方もない価値があろう宝石に目がくらみ、請われるままに朗誦を続ける。ルートヴィヒの贅を尽くした寝室でも演技を要求され、疲労困憊でもう無理だといっても、王は演技を強要する。ルートヴィヒの常軌を逸した振る舞いはかなり笑える。ヴィスコンティの格調高い大作にこんなシーンがあったとはちょっと驚き。

頽廃への傾倒は深まるばかりで、若き美男子たちとの目隠し鬼ごっことか飽くことを知らず、ツィターをバックに男性が脚を叩いて踊るバイエルン伝統のダンスのパフォーマンスの傍ら、みな放蕩の果てに疲れて雑魚寝したりする。サテリコンのオーストリア版だろうか。最後まで忠実な臣下は、何とか王を救おうと、王を愛する軍隊や民衆を動かそうと進言するがルートヴィヒは聴く耳を持たず。。。臣下の無念の涙が哀しい。終盤、精神鑑定の結果国を統治する能力はないと判断され捕らえられる、雨のノイシュヴァンシュタインの美しさも特筆すべき。そう、王はパラノイア=偏執狂と診断されたのだった。パラノイアなんて言葉、久しぶりに思い出した・・・最後、私は謎だ。他人にとってだけでなく、自分自身にも永遠の謎であり続けたい 一との言葉を残して水死体で見つかったルートヴィヒ。その死の詳細はいまだに謎である。

一国の王とはすごい存在なのだとしみじみ感じた4時間だった。最後の貴族と言った趣のヴィスコンティ、芸術を愛し終生独身を貫いた孤高の王に自身を投影したのだろうか。映画界が豪奢な芸術作品を作り出す力のあった時代に活躍し、このような贅沢な作品を残してくれたのは後世を生きる映画ファンにはありがたい限りだ。ヴィスコンティはよほど演技指導に優れた監督だったのだろう。ベニスに死す、のビヨルン・アンドレセン然り、スクリーンの外での彼を見ると本当に普通の男の子で、魔性の美少年の面影のかけらもないので愕然としたと同時にヴィスコンティマジックを思い知った。ヘルムート・バーガーの鬼気迫る演技もヴィスコンティの指導の賜物だろう。それにしても、ヴィスコンティの寵愛を受けた若き日のヘルムート・バーガー、美しかった。彼の魅力を最大限に引き出したのはヴィスコンティだが、ドリアン・グレイの肖像、悲しみの青春、の彼も忘れがたい。いいね、美青年。

アブラゼミゼラブルー蝉しぐれが静寂を呼ぶ夏の感傷

夏のわずかな期間、圧倒的な蝉しぐれを聞かせる油蝉。その姿は(私には)グロテスクで醜い。激しい蝉しぐれを浴びながら、夏の陽炎に揺らめいて旺盛な生命力に溢れる向日葵を見ていると、時間が止まったかのような静寂を感じる時がある。蝉しぐれの喧噪が呼ぶ静寂。炎暑ー生命がその頂点を極める力強い季節が静寂と結びつくのは不思議だが、それも生と死が存在の表裏一体に過ぎないせいだろうか。そんな哲学的命題を頭に過らせる夏は、なぜかいつも残酷な季節に思える。無鉄砲に飛び交い束の間の生を謳歌した後、地面に転がる油蝉の無残な死骸。生と死の荒々しい対比。見るたびにアブラゼミゼラブルと言いたくなる。夏の感傷。

サビーヌ マンディアルグが言葉の贅を尽くして描く少女の孤独

10代、20代、背伸びしたい盛りの頃大好きだったピエール・ド・マンディアルグ。初めて読んだのは海の百合だっただろうか。めくるめく官能の世界にのめり込み、夢中で彼の作品を読み漁った。邦訳が出ているものはほとんど読み尽くし、その後難解で泣かせる原文にも挑んだものの、やはり難攻不落の観があり苦戦した。他に例を見ない特異な持ち味に惹かれずっと畏敬の念を抱き続けてきた作家。中でもこのサビーヌは、短編で最も好きな作品の一つである。ほとんど行きずりの相手にホテルの一室で身を任せ、その部屋で2回目の密会の前に命を絶とうとする10代の女の子・サビーヌの話。少年の孤独はよく小説のテーマになるが、こちらは少女の孤独を描いていて珍しい。

森の県道沿いにあるそのホテルの部屋は内装が真っ白で、川獺の剥製が壁に釘付けにされている。別名川獺の間。純白の空間に無力な犠牲者。サビーヌの姿に重なる。川獺の間の白さを”雪と氷と銀とからできているかのよう”って表現する感性に痺れる。そもそもマンディアルグの場合、煌く感性が随所で炸裂しているので、最初から最後まで痺れっぱなしと言っても過言ではないのだが。その輝く白さが血しぶきで汚されるーぞっとするような血溜まりの中にタオルが浸かっているーこの対比の美しさ。おまけにバスタブに張った熱湯の湯気のために、湿った紙に描かれた淡彩画の絵の具のように血があちこちで滲んでいる。眩暈がしそうである。サビーヌは破瓜を体験したその部屋で、同じように流血によって死のうと思う。最後に鏡に自分の姿を映してみようとするが、相手の男・リュック中尉の面影が浮かんできて通せん坊をし、うまくいかないーこれも痺れる表現である。

リュックはある夕暮れ、森のベンチで暇をつぶしていた彼女を偶然見つけ、いきなり抱き寄せてキスした。サビーヌはいたく感動した。それまで彼女にキスした男は一人もいなかったからである。ただそれだけの理由で彼女は彼についていった。リュックはホテルの庭でつかみ取ったまだ青く硬いすぐりの実を無理やりサビーヌに食べさせる。涙が出るような代物。一度きりの乱暴な行為のあと、欲望を満たしてしまえば男は彼女に用はなく、機嫌を損ねては彼女を殴り、ホテルに置き去りにさえする。リュックは度々そのホテルで相手を変えては情事を楽しんでいたのだった。二度目の約束の日を迎え、明日が来る前に死んでしまおうとそのホテルを目指して歩く彼女を車のライトが照らし、彼女の影は突然素早く遥か前方に投げ出される。それは彼女が深部までずたずたにされた記憶の残る浴室で血管を断ち切ることによって自分の肉体から引き離そうとしている生命の姿でもあるかのようー慄然とするイメージだ。続いて彼女の流血の歴史が語られる。サーカスの綱渡り芸人を真似て月明かりを浴びて塀の上で飛び跳ねようとして失敗し、鉄柵に落ちたとき。ボクサー犬に噛みつかれたとき。彼女の母親は彼女を産み落とす際に亡くなった。まさに流血で命を落としたのだ。流血の歴史は女人の業の歴史でもある。

サビーヌが白銀の部屋のバスルームでおそらく命を失おうとしている頃、ホテルの前の砂利道が暗闇から浮かび上がる。月を覆っていた雲が、まるで自分と同じ背丈の灯台のガラスをゆっくり拭いている巨人の手に握られたスポンジのように、だんだん遠のいていったからだ。そしてホテルの庭はむごいばかりの黄色い月明かりで満たされるーこの描写には陶然となる。雲はサビーヌの意識のように徐々に遠ざかり、代わりに隠れていた月が凄まじい失血の如き鮮烈な色彩を与える。小さな狐が羊歯や木賊を踏んで灌木の下へ走り去り、毒茸が苔の上に顔をのぞかせている。最後、マンディアルグは、今の季節が終わるまでには、庭のすぐりの実は胸がむかつくぐらい酸っぱくなっていることだろう、と結ぶ。初めて読んだのは10代も終わりに近い頃で、頭に血が上って動けなくなるような衝撃を覚えた。学校で推奨される小説にはない悪魔的な魅力に圧倒された。特にこの最後のパラグラフが好きだ。月の光で煌々と照らされる道。小動物の姿。毒々しい茸。爛熟の果てに腐敗していくすぐりの実。寂寥とした光景。孤独な少女が破瓜から死に誘惑されていく様子と相俟って、戦慄を覚えるほど美しい。

マンディアルグはよく(その活動時期から時代的に)遅れてきたシュルレアリストと称された。燦然と輝くイメージ描写は確かにシュルレアリストチック。彫心鏤骨の作業を重ねる創作過程は自動記述から出発したシュルレアリスムの作家とは一線を画しているようだが。特に視覚から得た情報を言葉の贅を尽くして語るのが特徴的なマンディアルグ。そこには心理描写などなく、一切の倫理的解釈を拒否している。読者にとっては彼の作り上げた極上の架空庭園に遊ぶことが何よりの幸せである。ちなみに私はマンディアルグと誕生日が一緒なのが思いっきり嬉しかったりする。

マリンのシャツ 異郷の妖精・イザベル・アジャーニの歌う悲しみ

美しかった・・・イザベル・アジャーニ💛フランス女優ながらアルジェリア移民とドイツ人の血を引く彼女、異郷の妖精・神秘と狂気のヒロインといったイメージで日本のフレンチシネマファンの間で大人気だった。そんな彼女がセルジュ・ゲンズブールの歌を歌ったのがこちら。もう30年以上前のアルバムなのか。マリンのシャツってタイトルが素敵。♪プールの底に触ったの 小さなマリンのシャツを着て ほつれっぱなしにしておいたあなたからのプレゼント 私は見捨てられているみたい 私の目がマリンブルーなのはプールの底にいる時だけじゃない あなたはその目を見つけて私のところにやってきた 底に触れるまでの間 私は後ろ向きで沈んでいく 底で起こることに気づかないまま プールの底で溺れて 誰もあなたを見つけない 小さなマリンのシャツ 絡みついてあなたを抱いた もう引き返せないところで いわば私たちの愛の限界で♪恋人から贈られたマリンブルーのシャツを着て、プールの底に沈んでいくってヴィジュアルがまた素敵。去っていった恋人を思う切ないバラードだが、私は内容よりも濡れた髪のアジャーニがマリンブルーのVネックのセーターを着て遠くを見つめているアルバムジャケットが何より好き。

他には彼女をスターダムに押し上げた”アデルの恋の物語”の主人公を思わせる、恋に取り憑かれた女性が絶望的に放浪する姿を歌った”Ohio”、ディビット・ボウィへのオマージュ”Beau oui comme Bowie”(ウィが韻を踏んでいるところがゲンズブールっぽくっておしゃれ。ボウィのことを、少しオスカー・ワイルド、少しドリアン・グレイ、冷たい閃光と氷のようと歌う)などが好き。女優の歌って台詞っぽいと言おうか独特だ。歌唱力より表現力。ゲンズブールは声量のあるいかにも歌手って感じの歌い方が嫌いで、だから女優と仕事をするのが好きだったそうだ。女優に慣れていないことをやらせると不思議な魅力が出て、それが彼の審美眼に適っていたのだとか。先日ルイ・ヴィトンに行ったら店内にBeau oui comme Bowieが流れていたので驚いた。おそらくデザイナーの二コラ・ジェスキエールのミューズであるシャルロット・ゲンズブールからのゲンズブール繋がりだろう。ちなみにこのマリンのシャツ、リュック・ベッソンによるビデオクリップもおしゃれで話題になった。アジャーニっていつも今にも泣き出しそうな顔をしていて、それが何とも魅力的。