罪深きめんどり

このタイトルがなんだかわかる人がどれだけいるだろう。10年以上前、日本人公務員である夫が横領した10数億もの公金を貢がせ、悪女と騒がれたチリ妻アニータ。彼女がチリでリリースした歌のタイトルである。他にアニータ大統領、自称マッチョ、日本のホクロ、という歌があった。日本のホクロは確か日本人男性をバカにした歌だった。このネーミングセンス素晴らしい。チリではヒロインのように迎え入れられたのか、時の人のパワーは凄く、アニータのレコーディングシーンを放映する日本の放送局もあった。それをしっかり見て未だに覚えている自分が笑えるが、こういう話って心に残る。ユーミンも名作・”時のないホテル”で、♪堅いニュースはすぐに忘れてゴシップだけが残る♪と歌っていたっけ。2017年ももうすぐ暮れる。今年も数えきれないゴシップが世間を賑わせた。罪深きめんどりの話、私はたぶん一生忘れないだろうが、今年のゴシップでそれだけ寿命が長いものがあるかどうか。直近のホットな話題は船越・松居の離婚成立と太川陽介が夫人の密会疑惑を受けて行った記者会見。前者にはいい印象がないものの、太川陽介のは未見ながらなんか面白い。Youtubeで彼のLui Luiパフォーマンスまで見てしまった。そして気づいたこと・・・LとRの判別、日本人には難しいのに、太川陽介はしっかりLでルイルイと言っている。だから何?いえ、それだけだけど印象的。奥様、明るいルイルイで皆を幸せにする太川陽介のためにも罪深きめんどりにはならないでください。太川陽介、若い頃かっこよかったんですね。。。

ある微笑 パリからリヴィエラへ…ひと夏の恋は甘くて残酷

20世紀のフランス人作家で最も商業的に成功したフランソワーズ・サガン。18歳で書いた処女作・悲しみよこんにちはの世界的ヒットで若くして巨万の富を得、時代の寵児になった。日本でも彼女の著作は多数翻訳され、多感な文学少女たちに多大な影響を及ぼしたと思われる。私も10代の頃悲しみよこんにちわを読んで衝撃を受けた。小説の内容にーというよりは、それを書いたのが18歳の女の子だという事実にだろう。もちろん、18歳の女の子が書いたとは俄かには信じがたい完成された小説世界に驚嘆したのも事実。彼女のその後の波乱万丈の人生は有名だが、21世紀の日本では彼女を知らない人も多いだろう。もともと裕福なブルジョワ家庭に生まれ、恵まれた少女時代を過ごしたサガン。幼い頃から大変な読書好きだったという。ペンネームのサガンは、彼女が最も敬愛した作家・プルーストの小説の登場人物からとったものである。デビュー作が大変な評判を取った後で彼女は、次の作品をみなが機関銃を構えて待っているのを知ってるわと語った。プレッシャーに押しつぶされることなく、いわば精神的包囲網を突破して発表されたのがこの”ある微笑”であり、個人的にはサガン作品の中で一番好きな一篇である。

ソルボンヌ大生のドミニックにはベルトランという同級生の恋人がいる。ある日ベルトランの叔父である旅行家の男性・リュックに紹介され、ドミニックは強く惹かれていく。彼は気軽に浮気を楽しめる男で、妻のフランソワーズの存在はそれと弁え、ドミニックを誘う。二人の男性の間で揺れ動くドミニックは、慣れ親しんだパリの街が違った顔を持っていることに気づく。恋する人間がよく経験するジャメ・ヴュの世界。ドミニックにとって、パリは美しい黄金色の硬い都であり、決して人に騙されない都。そのパリの明け方、夜通し遊び疲れてベルシイ河岸から眺めるセーヌ河は、おもちゃの中に座った悲し気な子供のよう、と何とも心憎い表現をするサガン。ベルトランの別荘に招待されたドミニックはリュックとフランソワーズと共に休日を楽しむ。ドミニックは、まだ海を見たことがないと言ってみなを驚かせる。するとリュックはすかさず、見せてあげるよ、と言う。女心を知り尽くした男の手管。夕食後、リュックがドミニックを散歩に誘い、二人は初めてキスする。ベルトランの場合、キスはすぐに次の欲望に取って代わり、不要になってしまう、いわば欲望の一段階でしかないが、リュックとのキスは何か尽きることのない満たされたものだった、と成熟した男性の恋のマジックに落ちていく女性を表現するサガン。熱いキスに酔いながら、”私は自分が怖かった、彼が怖かった、その瞬間でないすべてのものが怖かった”と言うドミニックは、幸せを永遠に保存することなどできないとわかっている。幸せの絶頂にいてもただそれに浸りきるのではなく、かけがえのない時間が過ぎ去り、失われることへの恐怖を覚えてしまうのは人間の性だろう。

フランソワーズ・サガンは24歳で最初の結婚をしており、その相手はギ・シェレールと言う大手出版社アシェットの重役で、彼女より20歳近く年上だった。夜遊びが大好きな妻と早朝から乗馬に出かける夫ではライフスタイルが違いすぎ、結婚生活は長くは続かなかったものの、彼女は若いときから中年男の魅力に敏感だったのだろう。悲しみよこんにちはの男やもめの父にしろ、ある微笑のリュックにしろ、サガンの小説で魅力的に描かれているのは中年男性ばかりで、若い男は頼りなく、時に滑稽なカリカチュアとなっている。ドミニックは初めて会ったリュックを、灰色の瞳を持ち、疲れた様子をしていてほとんど悲し気だった、ある意味で彼は美しかった、と描写している。早熟な文学少女・サガンらしい感性だ。自分に置き換えてみると、若い頃は若くて見栄えのいい男の子にしか興味はなかったので、ある微笑を読んでいてもなぜこんなおじさんがいいのかと不思議でならなかった。本題からは逸れるが、実家に帰省したドミニックが川で水切りをする場面がある。水切り=ricochet。ちょうどそのころ、ボウイのアルバム・Let’s danceが流行っていて、その中にRicochetという歌が収録されていた。相乗効果でricochetがいともたやすく記憶に刻まれたのが嬉しかった。

閑話休題。夏休みを実家で過ごしていたドミニックはリュックから、今アヴィニヨンにいますとの手紙を受け取る。迷うことなくアヴィニヨンに向かうドミニック。しかし田舎の両親の家を発つ時、初めて両親の庇護の外に出る気がしたという彼女はやはり不安だったのだろう。アヴィニヨンからリュックの車でサン・ラファエルに向かう途中、ドミニックにとって初めての海が広がる。素晴らしい景色。海の美しさに驚嘆する一方で、ドミニックはリュックが得意気に海を見せて彼女の反応をうかがうのではないかと恐れた。リュックは、ただ海を指さして、ほら海だよ、と言っただけだった。そのさりげなさ。かっこよすぎるおじさんリュック。二人の傍らで夜の海は灰色になるまで褪せていく。ここはある微笑の中で一番美しいシーンだと思われる。カンヌの高級ホテルに投宿し、昼間は海を、夜はバーでの時間を楽しむ二人。休暇はいつしか終わる。二人はここが旅先だということを正視したくない。パリに戻ればお互いそれぞれの場所に帰るしかないから。そんなことには慣れっこのリュックはそれでよかった。しかしドミニックは本気で彼を愛するようになってしまう。

パリでは、何事もなかったように再びリュック、フランソワーズ、ベルトランとで昼食を共にするドミニック。リュックはカンヌでよく聴いたレコードをかける。二人の思い出が詰まったレコードだ。このメロディーが大好きだと言ってドミニックに微笑するリュックにとって二人の愛はもう過去のものだった。ドミニックの変化に薄々気づいていたベルトランは彼女を去り、ドミニックは独りぼっちになってしまう。孤独と苦しみの日々。報われない愛。しかしある時彼女は鏡に映った自分の顔に微笑みが浮かんでいるのに気づく。彼女は声に出して呟く。独り。独り。でもそれが一体なんだ?私は一人の男を愛した一人の女だった。それはごく単純な物語で、もったいぶることもないのだ。多くは語りたくはないのよ、とばかりにシンプルに一つの愛の物語を終わらせるサガン。10代の自分にはとってもおしゃれな大人の世界に思えて、悲しみよこんにちは以上にこの作品に惹かれたのだった。

数年前、サガンの人生が映画化された。とにかく女性とは思えない破天荒な生き方をした人なので、映像化するにはうってつけの素材だったと思う。彼女の書いた小説以上にドラマチックな人生なのだ。早すぎた成功がその後の人生を狂わせたのか、彼女が引き起こしたスキャンダルの数々は、若くして成功を収めた聡明な作家の仕業とはとても思えない。1954年からの4年間にサガンが手にした印税は当時の日本円にして約1億円と言われ、彼女はそれをスポーツカーに、ナイトクラブに、ギャンブルに、湯水のごとく使った。気前のいい彼女は、友人や見知らぬ人にまで大盤振る舞いをしたという。古きよき時代のお嬢様、パリジェンヌって感じ。彼女は物凄いスピード狂で、そのために自動車事故を起こし九死に一生を得ている。そんな大事故にも懲りず、その後も夜のパリを200キロで飛ばすのが好きだったってやはり普通ではない。また、無類のギャンブル狂でもあり、家を担保に入れたり、一夜で何億もすってしまったり、フランスの賭博場から出禁を食らえばロンドンにまで出かけていくという情熱の持ち主だ。”賭博”というタイトルでエッセイもものしている彼女は、21歳(当時の成年)になったその夜、意気揚々と初めてカジノの扉を叩いたと書いている。根っからのギャンブル好きだったのだろう。映画では、生前彼女が公にしてはいなかった同性愛のことも描かれていた。サガンはバイセクシュアルだったようで、より女性を愛した。ペギー・ロッシュという女性が長年に亘るパートナーで、癌で彼女を失ったときは半狂乱に陥った。晩年は莫大な借金と孤独に苛まれ、薬物中毒でもあったサガンは、準備していた自らの墓碑銘をこう結んでいた”人生と作品を手際よく片付けたが、その死は本人だけの事件だった”。2004年、心肺代謝不全で69歳で死去。

若き日、我が世の春を楽しんだ人も一生幸せに過ごせるとは限らないが、サガンが晩年、失意の底に沈んでいたとは胸が痛む。華々しい栄光とのギャップがよけい悲しい気持ちにさせるのだろう。人並み外れた才能に恵まれながらそれを計算高く使うことを知らず、人に食い物にされたところもあった人生だったのか。しかし、長い間人生を楽しみ、遊んだので何も後悔していないと言い放つ頼もしさがまたサガンの魅力でもある。写真を見ると、左右の目の大きさが少し違う。そういう人には天才が多いと聞いた。誰よりも聡明なその目で、人間を、人生を見つめて生きたサガン。衝撃のデビュー作が10代の女の子を主人公に夏のまばゆいばかりのフレンチ・リヴィエラを舞台にしていたせいか、今でもサガンというと、過ぎてからこそわかる祝福された季節・青春の輝きが蘇ってくる。

煙草との別れ 愛しい君は二度と会えない彼方へ こんな禁煙方法もある

父が病院で闘病生活を送っていた時、病の進行と共に人の手を借りずには喫煙室まで行けなくなり(当時は病院内に喫煙室が設けられていた)、一人では好きな煙草も喫えないと嘆いていた。その姿を見て、自分がもしそうなったら辛いだろうと禁煙を思い立ったのである。しかし思い立ったはいいが、どう実行するべきか迷った。金を払って禁煙外来に行く気はなかった。タバコがいかに有害かを説く文書を読んでも効き目はないだろうと思った。どちらも長期的にみたら失敗に終わりそうな気がしたのである。長い間、嬉しいときも哀しいときも片時も離れずにきた友というか恋人のような存在である。掌を返すように悪者扱いするのは心苦しい。これは意識を変えなければ無理だと思い、大好きな人と別れる気持ちで禁煙しようと決めた。さよならだけが人生だの名言もある通り、人生に別れは付きもの。自分で意志的に選ぶ別れもあれば、相手の決断でいかんともしがたい別れもあり、果ては死別という最も悲しい別れもある。いずれにしろ、深くかかわりを持った相手との別れはつらい。

コンビニで、kioskで、数百円と引き換えに手に入れられる煙草を、運命のいたずらでもう二度と会えない人と思うようにした。何かの拍子に異次元にワープした、あるいはタイムトラベルでプトレマイオス朝の彼方へ飛んでいってしまった煙草にはもう会えない。街で見かける煙草は全て偽物で私の恋人ではない。そんな風に自分自身を洗脳し、まだ中に数本残っていた煙草のパッケージを捨てた。それ以来二度と煙草に触っていない。何度かの試行錯誤を経てではなく、一回の洗脳で煙草をやめた。禁断症状や苛立ち、倦怠感もなかった。一般に指摘されている煙草の依存性を疑わしく思ったほどだ。一種の脳内革命だったと自分では思っている。それから約10年が経ったが、煙草は一度も喫っていない。強い意志の力でやめる!と意気込んだり、どうしてもやめなければと自分を追い詰めていたら無理だったと思う。発想の転換は大切だ。喫煙者には肩身の狭いご時世、この傾向は今後一層強まるだろうが、天邪鬼な自分は、誰もが煙草などやめるころ時代に逆行してまた喫ってみたいなどと周囲に吹聴している。

ストリート・オブ・クロコダイル 不毛な袋小路の悪夢の人形劇

アメリカ出身の双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの監督作品。双子の共同作業というだけで興味を持った。特殊なシンパシィが通い、シンクロニシティを共有することも多いという双子。神秘的な絆で結ばれているのだろう。志同じくした双子の彼らによる作品が凡庸なものであるはずはない!との期待にたがわなかった悪夢のような映画・ストリート・オブ・クロコダイル。かなりエキセントリックな世界だが、その陰鬱ながら幻想的な頽廃美は唯一無二。

ストリート・オブ・クロコダイルの地図が大写しになる。物淋しい口笛が響き渡る。くたびれかけた初老の男が劇場に入っていくと、舞台の奥は博物館になっており、中は古色蒼然、古びたねじや拡大鏡、キネトスコープが雑然と置かれている。キネトスコープを覗くと、積もり積もった埃と錆に埋もれたストリート・オブ・クロコダイルの機械仕掛けの模型が見える。ドラマチックで哀切なヴァイオリンの音。長らく止まっていた模型に男がつばを垂らすと、模型は動き始める。男は、模型の中にいたやせこけたパペットの男をつなぐひもを鋏で切る。自由になったパペットはストリート・オブ・クロコダイルを彷徨い、ある仕立て屋に吸い寄せられていく。

薄汚れたガラスに映る埃、ねじ、ひも。可愛いアウグスティンのメロディが流れる。機械仕掛けの猿がシンバルを鳴らすとそれが合図のようにニット帽をかぶった子供の人形が地面に落ちたねじを拾う。迷宮のような仕立て屋の奥にはマネキン人形が並んでいる。さらに進むと、頭の上部と眼球がない人形がパペットを待っている。人形の合図で、同様のマネキン人形が一斉に動き出し、パペットをとらえて頭部を自分たちと同じマネキンに挿げ替え、中に綿を詰め込む。剥製状態。人形が作業台に敷いたポーランドの地図の上にマジックのように取り出したのは生々しい肝臓。それを紙で包み、きれいにピン打ちし、挿げ替えたパペットの頭部につなげる。再びおびただしい埃にまみれたねじとマネキン人形が映し出され、新しい肉体を得たパペットは仕立て屋を後にする・・・って不思議な話でしょう。全体を通して無彩色で暗澹たるムードが漂い、人形の頭を挿げ替えたり生の肝臓が登場するなど不気味なシーンの連続なのに、全く不快感を覚えないどころか、ブラザーズクエイの卓越した審美眼に圧倒される。錆びたねじ、埃で汚れた調度品が俄然魅力的に見えるのが凄い。冒頭のくたびれかけた男や古色蒼然とした博物館と同じく、ストリート・オブ・クロコダイルは過去の遺物。その模型が再現する世界を支配しているのは脳をくりぬかれた人形たちで、何の意志も感情もないまま、訪れる者におそらく同じ仕打ちを繰り返しているのだろう。全くつかみどころのない話なのでかえって好奇心をそそられ、原作を読んだ。

原作者は19世紀末ポーランドに生まれたブルーノ・シュルツ。小説だけでなく、絵画にも才能を発揮した。上は彼の自画像である。ストリート・オブ・クロコダイルは”肉桂色の店”に収録された短編で、工藤幸雄氏により大鰐通りの名で訳されている。これがまた、不思議な話なのである。ある町の美しい地図に空白として描かれている大鰐通り。そこは人間の屑が住み着く腐敗した場所で、地図の製作者はその界隈を町の一部として認めるのを憚ったために空白としているかのようだ。色彩のない、全てが灰色の大鰐通りにまともな人間は近づこうとはしないが、例えば自暴自棄になったり、安い誘惑に縋りたくなったりすると、人々はそこに吸い寄せられる。街娼がたむろし、列車の発着時刻も定められていない無秩序な町で、人々は束の間の快楽をむさぼろうとする。しかし欲望は満たされないまま大鰐通りを後にするのが常だ。

シュルツが愛した生まれ故郷・ドロホビチの不健全な一画を描いたこの小説にはプロットが全くない。何度読んでも何の話だったのかわからないほど難解で、私も随分戸惑った。小都市ドロホビチを侵食した資本主義経済への批判の書とも言われているが、私は、劣等な人間が住む劣悪な地域の風紀を独特の筆致で描いているところに魅力を感じる。また、順風満帆な時はそんな地域を馬鹿にしている人間も、魔がさせばたやすく入り込んでいけると、人間の弱さに言及しているところも忘れがたい。何もかもが冴えない大鰐通りなのに、自分の立場を忘れ放逸を尽くしたい人間にはパラダイスになってしまうのだ。魔界の陥穽。

原作に仕立て屋で服をあつらえるエピソードは登場するものの、マネキン人形たちによる肝臓移植の話は完全にブラザーズ・クエイのオリジナルである。シュルツは50歳でゲシュタポに殺されている。ポーランドの地図の上で肝臓を移植するイメージは、ナチスの洗脳・侵略を象徴しているのだろうか。登場するマネキン人形たちの風貌が、ナチスの将校と捕虜のユダヤ人女性との倒錯の愛を描いた”愛の嵐”に出てくる、パーティーシーンで扮装したナチスの将校に似ているのが印象的だ。映画の最後に、”安っぽい人間が素材となっているこの町では、どんな才能も花ひらくことなく、暗く、異常な情熱が刺激されることもない。大鰐通りは、私たちが現代と大都会の腐敗の言い訳として作った租界だった。その不幸は、そこでは何も成功せず、確かな結論にたどり着けないことであった。もちろんそこについて私たちは去年の古新聞から切り抜いた不自然なコピーや合成写真ぐらいしか提供することができない。”との原作からの引用が示される。そんな不毛な袋小路で、人形たちはまた誰かが模型につばを垂らすのを待っているのだろう。ちなみに、シュルツの小説はタイトルが何とも魅力的。この大鰐通りも然り、肉桂色の店、砂時計サナトリウム、マネキン人形論、などなど。読みたいのはやまやまだが、難解過ぎてなかなか挑戦できずにいる。

汚れた血 永遠に疾走する愛に憑かれた孤独な青年

もう30年も前、当時流行っていたミニシアターは満席で、立ち見したのを覚えている。若さゆえの体力。3本立てで3時間なんてシネママラソンやオールナイトも平気だったあの頃が懐かしい。若き鬼才、ゴダールの再来ともてはやされていたカラックスは、時代の閉塞感を打破しようとする若者を描き、若年層に熱狂的な歓迎を受けた。カラックスのブランド力は絶大で、カラックスを知っていると言うとちょっとした映画通のような印象を与えた。ドリカムの歌にもカラックスがどうのって歌詞があったっけ。配給会社がうまくプロモーションしたのだろう。時代の先端を行くカリスマ、完全主義の謎めいた監督といった売り方。難解で斬新な映像という触れ込みはまさに若者ターゲットの惹句だ。その作戦に乗せられた私もカラックスに憧れた。まず早熟の天才ぶりを示すエピソードの数々が眩しかった。16歳で高校を中退し、18歳で批評家として活動を始め、20歳で初めての監督作品を撮るとか、凡人には想像もつかない華々しさ。汚れた血はカラックスが自身を投影したアレックス三部作(カラックスの本名はアレックス・デュポン)の第二部で、第一部であるボーイミーツガールを撮ったのが23歳の時。そして汚れた血は26歳の時の作品である。

愛のないセックスによって感染するSTBO (フランス版エイズ?)が蔓延する世紀末のパリ。今思えばこの設定だけで笑ってしまうが若者はノックダウンされた(少なくとも私は)。ハレー彗星の接近で異常な暑さの夏。(実際は厳寒の中撮影が行われたそうだ。)街頭でのトランプ賭博で日銭を稼ぐいわば与太者のアレックス(ド二・ラヴァン)は孤独な青年。手先がマジシャンの如く器用で、腹話術もものす。このドニ・ラヴァン、不気味で不吉な雰囲気を醸し出す強烈な個性の持ち主。カラックスはよくあんな顔の俳優を主役に選んだものだと思う。野卑な魅力漂うと言えば聞こえはいいものの美形にはほど遠いセルジュ・レジアニも好きみたいだし、アレックスと後述のマルクがけんかの末ガラスに顔を押し付け合い、その醜くゆがんだ顔を映し出すシーンもあったりで、カラックスはいわば変顔趣味?アレックスは子供のころから異常に無口な子で、親は皮肉をこめてお喋り(langue pendue:フランス語で宙吊りの舌。おしゃべりは常に舌を動かしているから)と呼ぶ。私はこれでlangue pendueというフランス語を覚えた。彼にはリーズ(ジュリー・デルピー)という美しい恋人がいる。森で裸でくつろいだり、バイクで疾走したりするアレックスとリーズ、煙草の吸い方までそっくりな微笑ましさ。しかしアレックスは満たされず、何とかして生活を立て直したいと思っている。バブルが崩壊した日本でこのアレックスの姿に共感する人は多かったのではないか。

アレックスの父親もよからぬ人物で多額の借金を残して死に、それが友人のマルク(ミシェル・ピコリ)の肩にのしかかる。マルクはSTBOの血清を盗んで密売し、窮地をしのごうと画策する。その相棒としてアレックスに白羽の矢が立つ。生活の基盤を築きたかったアレックスはリーズに別れを告げ、金欲しさに犯罪に加担する。その過程でマルクの年若い恋人・アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に惹かれ・・・30年前はこの物語に痺れた。でも今となっては愛のないセックスで感染するSTBOって設定が青すぎる。例えば一世風靡したリングもホラーの伏線の張り方は見事だが、呪いで人は殺せない。出発点そのものが突っ込みどころ満載だと観る方は萎える。とはいえ汚れた血は、こうして書き残したいと思わせる魅力に満ちた作品である。ジャン=イヴ・エスコフィエが彫琢を重ねた職人技を発揮して撮影した夜のパリの景色を始め、カラックスの美学を反映したシーンの数々とともに、珠玉のようなセリフが散りばめられているのも忘れがたい。

リーズがアレックスに贈った絵に添えられてあった、娘が脚を開くとそこから秘密の蝶が飛び立つという謎めいたセリフ。泣き虫のアンナは自分を涙が止まらない血友病みたいと例える。アレックスが見た夢の中でアンナが語る、私の目に二つの黄色い月が見えたらオルガスムなの。また、公開時のキャッチコピー”愛は疾走する”はキーワードであり、アレックスがアンナに尋ねる、永遠に疾走する愛を信じるか?のセリフも決まっていた。ボウイのモダン・ラヴに乗って、アレックスが走って走って走りまくるシーン、アンナへの迸り出る恋心が切なくも力強く描かれていた。汚れた血といえばあのシーンが圧巻だろう。ワクチンを盗み出すことに成功しながら、裏切り者の密告により追手に撃たれたアレックス。もう一度人生を生きたいと強く願うアレックスが息絶えるラストシーンでは涙が出た。強がってはいても天涯孤独の身だったアレックスの淋しさははかり知れない。ともに生きる人との幸せを求めたのに叶えられなかった彼の悲痛な姿が胸を打つ。息絶えたアレックスを見て感極まったアンナが走り出し、それを追ってマルクも走り出す。疾走がやはりキーワード。青春の只中にいる者の不安、孤独、夢といった混沌とした内面描写に共感する。プロコフィエフやベンジャミン・ブリテンの音楽も効果的に使われていた。

カラックスは当時恋人同士でもあったジュリエット・ビノシュを神秘の麗人といった筆致で描いている。暑さに耐えきれず上目遣いで髪を吹き上げるビノシュ、日本でもカラックスの意図通りに紹介されていた。二人の男を翻弄する謎の女ーでも私にはいかにも田舎のお姉さんに見えた。無邪気な顔して田舎者の図々しさを発揮する悪女って感じ。昔誰かが彼女をフランスの大竹しのぶと呼んでバッシングを受けたそうだが、私には的を得た指摘だと思われる。その悪女ぶりは以後、存在の耐えられない軽さやダメージなどで遺憾なく発揮され、イングリッシュペイシェントではアカデミー助演女優賞も受賞、堂々の演技派女優である。キェシロフスキのトリコロール・青の愛でも交通事故で夫と娘を失った女性の悲しみの表現が見事だった。個人的には確信犯的ぶりっ子ぶりが鼻について好きになれないが。それにこの人ー笑うとよくない。ただ、アレックス三部作の最終作、完成するまでもめにもめたポンヌフの恋人で、汚れ切ったホームレスの女性を演じ、美しかったのには驚いた。ビノシュの演技力とカラックスマジックのなせる技だろう。全てを失った、社会の敗残者同士の間に生まれた愛を通して、飾りをはぎ取った、人間の本質的な美しさに迫ろうとしたカラックスは只者ではない。

バイクに乗った天使・リーズを演じるジュリー・デルピー。広い額に離れた目、金髪の彼女、美人ではないところが魅力的。キェシロフスキの”トリコロール・白の愛”の盲目的に愛される妻役でも天使のような愛らしさだった。ご本人はカラックスとの仕事を楽しまなかったようで、バイクに乗った天使、妖精のイメージにこだわったカラックスから絶対太るなと言われ、毎日体重計に乗ったとあるインタビューで不満気に語っていた。ポンヌフの恋人のことも、甘やかされた映画と痛烈に批判していた。時は過ぎ、40近い彼女を久しぶりに見たらなんだか怖いような大女になっていて、リーズのイメージが全くなかったのはショックだった。

本を読みすぎて早熟になったアレックスは、すぐに年老いると友人に言われているーその言葉通り、実際のカラックスが一気に年老いてしまったのか、アレックス三部作を撮り終えると長い長い沈黙の時代に突入する。ポンヌフの恋人が最後の作品と本人も公言してはいたが。その後話題になったのは1999年のポーラX。未見なのが残念なので機会があったら観てみたい。カラックスはもともと大の映画好きで、映画評論家としての活動歴も長いので、映画に関する知識は驚くほど豊富である。バイクや鏡といった小道具、運命の女が街頭を歩く姿を追うシーンはコクトー作品からの引用だろうし、瀕死のアレックスがアンナに会おうとやっとの思いでアジトにたどり着くシーンはアンドレ・カイヤット”火の接吻”のラストを思わせる(カラックスはこの作品に相当思い入れがあるようだ。火の接吻の原題は”Les amants de Verone”で、ポンヌフの恋人の原題は”Les amants du pont-neuf”とよく似ている。口から火を噴く大道芸人アレックスの造形にも火の接吻の影響がみられる。火の接吻の主人公はムラノのガラス職人で、彼がガラスを吹くときに火が赤々と燃え上がるシーンは、そのままアレックスにより再現されている。おまけにその主人公を演じているのがセルジュ・レジアニなのだ!)オールドシネマファンにはこういったディテールを楽しめるのもカラックス作品の魅力である。

最近デジタルリマスター版を見返して、アレックスの晴れ着なのか、黄色い地にトランプのダイヤのような黒いマークがついたジャケットと、彼がいつも履いているカンフーシューズみたいなフラットな靴が心に残った。喫煙のシーンが多いのも時代を感じさせる。誰もがひっきりなしに煙草を喫っており、くわえ煙草がまたサマになっている。近未来を設定しているが、まさか近い将来喫煙がこれほど糾弾されることになろうとは思いも寄らなかったのだろう。それに今見ると・・・若き日のカラックス(覗き屋役で一瞬出演している)ってインパルスの板倉に似ている。これは新しい発見だった。

死への逃避行 イザベル・アジャーニ七変化とヨーロッパの名所巡りの陰で

かつては鷹の目と呼ばれ敏腕を誇った初老の探偵(ミシェル・セロー)。一人娘のマリーを亡くし、その悲しみから立ち直れないでいる。マリーがごく幼い頃に妻と別れた探偵には、成長したマリーの顔がわからない。毎年マリーの誕生日、別れた妻に電話し、大切に持っているマリーの小学校の集合写真からどれがマリーか当てようとする。一回で当てることが妻の条件。今年も外れ。妻はまた一年後ね、と言う。今はマダム・ブーランジェ(ジュヌヴィエーヴ・パージュ。昼顔で娼館のマダムを演じていた)が経営する探偵事務所に籍を置く鷹の目に、ベルギーの富豪から息子・ポールの身辺調査の依頼が入る。ポールの新しいガールフレンドについて調べてくれと。銀行で大金をおろしてデートに向かうポールを追い、二人が待ち合わせする遊園地に辿り着く鷹の目。メリーゴーラウンドの前で偶然出会った男の子に遊びでポラロイド写真を撮らせる。その写真に写っていたのは見知らぬ美女で・・・鷹の目にぶつかり、pardon! これが鷹の目とアジャーニ扮する美貌の殺人鬼との出会い。遊園地に響く無邪気な音楽をバックに物語の始まり始まり~という感じで魅力的な幕開けだ。

リュシー(アジャーニ)は恋人を見つけると大きな旅行鞄を投げ出して抱きつく。幸せそのもののカップル。鷹の目は湖畔のホテルに投宿した二人を見届けると車に忍び込み、女が残した所持品から身元を確認する。リュシー・ブレンタノ、学生、特記事項なしとある。二人の部屋の明かりが消えるのを待って鷹の目も眠りに落ちる。夜が明け、静かな湖を見やると、リュシーらしき女が一人でボートを漕いでいる。望遠鏡で覗くと、リュシーは人体のようなものを湖に投げ捨てる。愕然とした鷹の目が二人の部屋に急ぐと、そこは血の海。あっけにとられる鷹の目。ポールの金を奪い、涼しい顔で車でパリに向かうリュシー。ハムレットの講義が催される大学に入っていったかと思うと、全く違う出で立ちで現れる。常宿に奪った金を預けるリュシー。ホテルの常連に尋ねると、モデルのイヴ・グランジェだという。女子大生リュシーは長い黒髪にカチューシャをつけた清楚な女の子だったが、イヴ・グランジェはファッショナブルなパンツスーツに身を包んだハスキーボイスの女性。鷹の目は混乱しながらも、南仏へ行くという彼女を追って空港に急ぐ。空港で悠然と梨を食べ、星占いを読むイヴ。イヴは山羊座のようだ。

しかし搭乗ゲートに現れたのはショートカットに日焼けした肌もセクシーなドロテ・オルティス、モンテカルロで婚約のお披露目パーティを開くのだった。大勢の参加者に祝福された盛大な婚約パーティ。婚約者・ミシェルに甘えるミニスカートのアジャーニ可愛かった。ところがパーティのあと鷹の目が二人の部屋を覗くと、血だらけのミシェルの死体が。ドロテに死んだ娘・マリーの面影を見る鷹の目は、あろうことかミシェルの死体を海に投げ込んで彼女を庇おうとする。ホテルの部屋で胸をはだけ、またも梨を食べくつろぐドロテ。

一旦モデルのイヴ・グランジェの姿でパリに戻るが、何者かの脅迫を受け、身の危険を感じた彼女は今度はバーデンバーデンを目指す。ウェーヴのかかった長い髪をなびかせ、黒い水着姿で温泉保養地を闊歩するのはアリアーヌ。レズビアンのコーラに誘われ、官能の夜を過ごす。コーラはアジア系で、黒髪の二人の裸のシーンは妙になまめかしかった。二人でバーデンバーデンを発つ夜、コーラは自分のネックレスがないことに気づき、プールまで探しに行く。おりしも激しい雷雨。稲光が閃くプールで彼女の後ろに立つアリアーヌの首には、コーラがなくしたネックレスが光っていた。有無を言わせずコーラの顔を切り付け、最後は首を切ってプールに沈めるアリアーヌ。物凄い早業だ。最初から彼女に目をつけていた男が自分の車に誘い、ブリュッセルに向けて出発する。追いかける鷹の目の不安は的中、案の定途中で男は殺されていた。

カフェで優雅にハムレットを読むブロンドの女、シャルロット・ヴァンサン。彼女=一連の殺人鬼の愛読書はハムレットである。傍に座る盲目の男ラルフ(サミー・フレィ)。どうやら富豪であるらしい彼と意気投合し、共に列車でローマに向かう。インテリのラルフとはハムレットや、彼女が大好きなラ・パロマの話も楽しめる。このブロンドのアジャーニが一番意外だった。モンロー、バルドードヌーヴ・・・ブロンドで売った女優はほとんどが地毛ではない。演技派のアジャーニは最初からそんなセックスアピールは必要ないとばかりに髪の色は変えなかった。ブロンドのアジャーニ、新鮮。

ローマでは黒髪のシャルロット、やっと運命の相手とめぐり逢い、彼との結婚を選ぶ。ラルフの豪勢な暮しぶりは彼女が求めていたものだった。アーチストと称し、ラルフのサポートで個展を開くシャルロット。そこに彼女の正体を知る謎の男女二人組が迫ってくるのが不気味だ。この”灰色の女”に思いっきり汚いメイクで扮しているのがステファーヌ・オードラン。ゴージャスな役が多かった往年の彼女を知る身には驚きだった。鷹の目は、娘のマリーと重なるシャルロットをあっさり奪おうとするラルフが許せない。鷹の目にすればラルフは気障な盲人だ。憎しみのあまり公道でラルフを突き飛ばすと、ラルフは車にひかれて死んでしまう。鷹の目は満足するが、幸せを夢見たシャルロットの絶望たるやいかに。

季節は冬。星占いでは山羊座の運は傾きかけている。国境を越え、車でビアリッツを目指すシャルロット。ヒッチハイクで乗せた女・ベティに刃物で脅されると、隠し持っていた拳銃で逆にやりこめる抜け目なさ。そんなシャルロットに魅せられたベティは子分にしてくれと言う。ベティは幼い頃、母親に騙されて連れていかれた部屋で、裸で遊ぶ姿を男たちに覗かれていた暗い過去がある。シャルロットの本名はカトリーヌ・レリス。こちらも貧しく不幸な生い立ちだ。幼い日、クリスマスに父に連れられていったデパート、明るく華やぐショーウィンドウも眩しく、ラ・パロマがかかっていた。憧れの世界。父はそこで盗みを働いて逮捕される。何も食べるもののない彼女に、近所の人が梨をくれた。ベティの哀しい打ち明け話を聞いて自分の過去を思い出したのか、一人夜の海辺に立ち絶叫してかつらを脱ぎ捨てるアジャーニ、迫力の演技。二人は遊び半分のように強盗を繰り返す。鷹の目はマリー、もうやめなさいと言いながら二人を追う。

ビアリッツで悪事を繰り返したカトリーヌが、もう面が割れてるから無理だとベティに話すと、ベティはお面を二つ取り出す。それを見たときのアジャーニの表情、何とも言えずよかった。微苦笑をもらすような。二人でおそろいの服を着、同じお面をかぶって歌を歌いながら海辺をドライブするシーン、可愛い。しかし、押し入った銀行に警官が突入し、一人は射殺される。鷹の目はお面をつけた遺体に恐る恐る近づく・・・お面をとると、それはベティだった。悪運尽きたのか、カトリーヌは生まれ故郷の田舎町に帰る。金も尽き、近所のダイナーで働くカトリーヌに、鷹の目は接触しようと試みる。カトリーヌを助けようと金まで工面して・・・リュシー、イヴ、ドロテ、アリアーヌ、シャルロットと万華鏡のような魅力を振りまいた輝きはなく、平凡なウエイトレスの顔になっているアジャーニがまた凄い。案の定カトリーヌは鷹の目を殺して金を奪おうとする。そこへカトリーヌを追う警察が現れて、彼女は万事休す。車で非常線を突破して立体駐車場まで逃げた後、そこから落下して死を選ぶ。時が経ち、やがて鷹の目も死へと旅立っていく。

アジャーニはエキセントリックな役でこそ本領発揮する女優だ。彼女をスターダムに押し上げたアデルの恋の物語を始め、ポゼッション、殺意の夏、個人的にはアジャーニの真骨頂と思えるカミーユ・クローデルなどなど、狂気に囚われていく女を演じて輝く。平凡な女の役をやると思いっきり拍子抜けするので驚く。この映画を初めて観たときは、転々とする観光地に合わせるようなアジャーニ七変化に圧倒されるばかりだった。年を重ねて観返し、今度は娘を亡くした鷹の目に感情移入した。子供に先立たれるのは人間にとって一番つらいことなのではないかと思う。荒唐無稽にも見える物語も、亡き娘の面影を追う鷹の目の演技で受け入れられてしまう。殺人鬼=アジャーニは、出会う男ごとに違う父親像を語っていた。彼女は彼女で、犯罪者となった父の面影を追っていたのだろう。アジャーニと観光地の華やかさの陰に、娘を、父を求めるさまよえる孤独な心の軌跡が描かれていて味わい深い。カトリーヌの思い出の曲、ラ・パロマが全編を通じて流れていたのも心に残る。ラ・パロマ、梨、ハムレット、のキーアイテムがおしゃれ。

思い出のチーズケーキー20世紀のリッチテイスト

今までの人生で一番美味しかったチーズケーキ。子供のころ、母が持っていたお菓子の本に載っていた。チーズ風味のスポンジ台の上に、チーズクリームとメレンゲを混ぜた種を重ねて焼く。甘味を押さえた濃厚な味。チーズクリームは、まずカスタードクリームを作り、それをすりおろしたエダムチーズと卵の黄身を混ぜて作ったシュー種に加えて仕上げる。そこに卵の白身をもったりするまで攪拌して砂糖を加えたメレンゲを混ぜ合わせる。それをスポンジ台に乗せて焼き、焼きあがったら洋酒で溶いたあんずジャムを塗って完成。これがたまらなく美味。子供の頃、まずはこの写真に憧れた。ダイヤモンドリナーなんてチーズおろし器、当時は見たこともなく、買ってもらった時はうれしかった。エダムチーズもこの本で初めて知った。アプリコットジャムというのもおしゃれな感じで、背伸びしたい女の子の心に響いた。(杏里のデビューアルバムのタイトル・そういえばアプリコットジャムだった( ^)o(^ )10代、お菓子作りに目覚めてから何度このチーズケーキを作ったことだろう。初めて食べたのがこのレシピだったからか、どうしてもレアチーズケーキは受け付けなかった。友達はレアの方が好きという子が多かったけど。

昭和のお菓子のレシピ本って概してカロリー計算度外視というか、今見ると作らない方が身のためと思われるリッチテイスト。でもとにかく凝っていて、簡単に作れるものではないところが風格を感じさせる。チーズケーキと言えば昭和の末頃に爆発的に流行したティラミス、私はあまり好みではなかったが、知り合いのイタリア人が、名前の由来はあまりに美味しくてハイになるからだと教えてくれた。赤坂・グラナータのティラミス人気だったな~。最近もニューヨークチーズケーキを始め、チーズケーキは相変わらずの隆盛ぶりを見せている。コンビニのスイーツ売り場にも必ずあるアイテム。チーズ党の多さを物語っている。

長じてからはお酒を飲むようになり、スイーツからは遠ざかった。今ではチーズはワインのお供で、好みもシンプルテイストのサムソーやコンテから、濃厚なマンステール、エポワスまで幅広くなったが、なぜかお菓子に加工されると苦手になった。ウォッシュタイプのチーズの強烈なにおいは大丈夫なのに、ピザの上で溶けているチーズもダメである。もうチーズケーキを作ることもないだろう。でもあのチーズケーキは母と一緒に作った思い出の味であり、レシピ本の重厚な雰囲気と共に忘れられない。

 

フレンチジョーク アムールの国フランス娘に魅せられて

ある男が秘書を探していると、3人の若い女性が面接に訪れた。一人はアメリカ人。もう一人はイギリス人。最後の一人はフランス人。誰にするか迷った彼は、今からする質問に一番いい回答を出した女性を雇うことにした。”あなたは眉目秀麗で男らしい一流アスリート24人と一緒にプライベートジェットに乗っています。女性はあなた一人です。そのジェット機は故障し、砂漠の真ん中に不時着してしまいます。そこにはあなたとアスリートたちの他には誰もいません。さてあなたならどうしますか?”アメリカ人女性は即座に答えた。”私は自分の身は自分で守ります。私の祖国は開拓者精神が生き続ける国ですから。私は彼らを外に誘導してから飛行機に乗り込み、ドアを封鎖して救助隊が来るのを待ちます” ”なるほど”と男は言ってイギリス人女性の方を向き”あなたならどうしますか?”と尋ねた。イギリス人女性は”私は長きにわたる騎士道精神の伝統を持つ国の出身です。輝ける鎧に身を包んだ騎士たちの伝説はご存知でしょう。私は一番屈強な男性を見つけて、彼に私の名誉を守ってくれるように頼みます。彼はきっと私を守ってくれます”男はいかにも、といった風に頷き、”わかりました、ではあなたは?”とフランス人女性に尋ねた。フランス人女性は長いこと考えていた。あまりに長いので男はイライラして言った。”質問の意味がわからないのですか?”フランス人女性は肩をすくめて答えた。”もちろん意味はわかっていますよ。でも一体何が問題なの?”

これはブリジット・バルドーの伝記”Bardot Two lives”で紹介されていたフレンチジョーク。バルドーは20世紀のフランス女優の中で一番ぐらいに好きな女優さん。パリ16区のブルジョワ出身のお嬢様ながら、当時はタブーとされていたヌードやセックスにも実にオープンで、奔放で天衣無縫な魅力の持ち主だった。もともとバレリーナを目指していた彼女は目を見張る美しいプロポーションを誇り、とわざわざ言わなくてもこの写真でご理解いただけるだろう、ヴィーナスの如き豊かなバスト、49センチと言われる驚異的に細いウエスト(最初の夫のヴァディムが両手を回せたほどだという)や、アキレス腱が削げたような切れ味鋭い足首など全て羨ましい限りである。この美貌でこのスタイル、多くの男性を虜にし、翻弄した。ヴァディムはバルドーと別れた後、アネット・ストロイベルグ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェーン・フォンダと交際し、それぞれをスターダムに押し上げていったが、最初がバルドーっていうのが許せない、と誰かが言っていた。わかります。一番女として魅力的に思えるもの。いいね、フランス娘!

五社英雄が描く極彩色の苦界 吉原炎上

明治40年の東京・吉原。誰も教えてくれない歴史。昔、川崎競馬場に行った帰り、ショートカットの歓楽街を通ってJR川崎駅まで歩いたことがある。女だとまず足を踏み入れる機会のないエリア、怖いもの見たさである。おりしも極寒の季節、毛皮のコートを着ていた私はそこで働く者と勘違いされたのか、好奇の視線を感じながら社会科見学気分で歩いた。あるショーウィンドウの中に女性が数名座っていたのに驚いたーこの映画を観てまさに昔の吉原のシステムだったことを知った。

吉原で働く女郎は、貧しい出自か、親の借金のカタに売られてきた女の子ばかり。でもここにいれば三度の食事にありつけると健気だ。冒頭の岸田今日子によるナレーションが印象的。吉原への道は二つあったといえましょう。男が通る極楽への道。女が通る地獄への道。名取裕子演じる主人公・ひさのも親の借金のカタに売られた身。先輩の花魁や女将から花魁道の手ほどきを受ける。殺し文句が大事。床上手で泣きのうまい子がお得意さんを作る。とにかくリピーターになってもらうこと。今のマーケティングと同じだ。美人はそれだけで傲慢だからダメ。なるほど。ふのりを局部に塗り、辛い行為に耐える女郎たち。ふのりとは、昔障子を張り替えるのに使ったのりだと聞いたことがあるが、そんな用途もあったのだ。今の世も代替物こそあれ同じか。ひさのは一生懸命学び、お披露目に臨む。客はガラス越しに女郎たちを値踏みする。川崎の歓楽街の光景がよみがえる。しかしいざ客を取る段になると激しい嫌悪を示し、脱走するひさの。その道中で根津甚八演じる救世軍に身を投じた財閥の御曹司・古島と偶然出会う。古島はひさのを救おうとして果たせず、しかしお互い忘れ得ぬ存在となる。昨年亡くなった根津甚八、味のある演技だった。

連れ戻され、折檻を受けたひさのに女郎の心得を教える先輩花魁・九重(二宮さよ子)。このレズビアンシーン官能的で迫力満点、生々しすぎて怖いくらい。二宮さよ子の色っぽさは格が違う。人気女優二人がこんなシーンを演じているのにちょっとびっくり。続いて藤真利子、西川峰子、かたせ梨乃演じる花魁&女郎のエピソードが綴られる。藤真利子演じる花魁・吉里は、本気で愛した男に去られて絶望して自殺する。西川峰子・小花は、没落した名家の出と吹聴しているがすべては嘘。最後結核で果てる姿がものすごい。かたせ梨乃・菊川は要領が悪いと下級の置屋に追いやられてもたくましく生き、結婚して幸せをつかむ。と思いきや旦那はとんだ食わせもので、最下層の女郎屋に身を落とす。最後、最高級の御職に上り詰め、紫太夫と名乗るひさのが唯一愛したのは古島だった。登楼しても決してひさのと床を共にすることはなかった古島。商品としてのひさのを買いたくはなかったのだろう。二人の気持ちは一つだった。しかしひさのは身請けしたいと古島が出した金を花魁道中に使いたいと言う。そして豪華な花魁道中が実現する。花魁道中と言う言葉、寡聞にして知らなかった。花魁がお供を連れて店屋まで練り歩く、いわばファッションショーのようなものだったらしい。黒塗りの高下駄を履いて外八文字と呼ばれる独特の歩き方を披露する。よくあんな歩き方を考え出したものだー当時のモンローウォークだろうか。

古島への思いは捨てきれないが、一度袖にした相手に縋るのは筋ではないと菊川に諭され、身請けしようといった別の男との結婚を決めるひさの。吉原を去るその日に吉原は大火に見舞われ・・・というラスト。重くて熱い2時間だった。五社英雄監督が描く極彩色の吉原絵巻。五社作品は、夏目雅子のなめたらいかんぜよで有名な鬼龍院花子の生涯にせよ、高知の遊郭を描いた陽暉楼にせよ、どろどろした重いトーンが特徴的だ。登場人物はみな暗澹たる人生の中でもがいている。その宿命的な暗がりに一瞬、生の歓び、艶が閃く。小花の壮絶な断末魔のシーンを含め、出血シーンが多いのは吉原と言う苦界に生きた女人の業を物語っているのだろうか。映画を観ていて、俳優から最高の演技を引き出す名手だったヴィスコンティを思い出した。五社監督もそうだったのでは。特に女優陣は演技指導の賜物と思わせるいい演技をしていた。花魁は遊郭の大黒柱。そこに携わるすべての人間の糧となる存在で高位の称号だからか、みな名前でなくおいらん、おいらんと呼んでいたのが印象的だった。花魁・・・美しい漢字だ。

澁澤龍彦讃ー暗黒の芸術史の扉を開けた博覧強記の鬼才

1980年代、フランス文学を学んでいた私にとっては神のような存在だった博覧強記の鬼才・澁澤龍彦。当時フランス文学を専攻していながら彼の名を知らない者はいなかったのでないだろうか。フランス文学者で小説家、評論家であったと同時に、文学、絵画、映画等芸術全般に亘って文部科学省が推薦しないような作品を日本に紹介した第一人者である。当時は仏文の澁澤龍彦、独文の種村季弘がマニアックな文学者の二大巨頭だった。(双璧を成す孤高の生田耕作氏は少し毛色が違うか)澁澤龍彦の訳業として恐らく最も有名なサド作品を始め、シュルレアリスムのアーチストやマンディアルグ、バタイユを知ったのも彼を通してだった。いわば暗黒と異端の芸術史を案内してくれた彼に夢中になり、むさぼるように著作を読んだ。私は特に翻訳と評論が好きで、自宅の本棚には澁澤龍彦の名前を冠した本がずらりと並んでいた。彼が還暦を待たずして亡くなったときはショックだった。早すぎる死。もっともっと色々な知識を与えてほしかったのに。

澁澤龍彦の死後発売された追悼本で、彼の最初の妻だったやはり文学者で詩人の矢川澄子さんの追悼文を読んだ。それで矢川さんに興味を持ち、彼女について調べたら・・・澁澤ファンとしてはショッキングな事実を知った。約10年間の結婚生活の間に、澁澤は矢川さんに何度も堕胎を強いていたのだという。矢川さんが、堕胎してもすぐにまた妊娠してしまう健康な体が恨めしい、と嘆いた文を残しているのを見て胸が痛んだ。澁澤は、家庭に縦の関係を作りたくないと言ったという。また、女は母親になると堕落するという、いかにも昭和の知識人が好みそうな持論を展開していた。自著で、自分は大学で教鞭をとるようなタイプではないから著述だけで食べていくのは大変だと書いていたが、経済的事情もあったのかもしれないし、第三者には彼が実際何を考えていたのかはわからない。のちに矢川さんは70を過ぎた頃自死してしまう。縊死だったそうだ。澁澤の死以上にショックを受けた。勝手な憶測に過ぎないが、一人でも子供がいれば矢川さんは自死など選ばなかったのではないか。澁澤も罪な男だ。

それをきっかけに澁澤龍彦に対する追慕が一気に薄れ、あれだけ集めた本もほとんど手放した。”太陽”で出していた特集本など素敵だったのに・・・フランス文学を読むことも少なくなった。時は流れ、2000年を過ぎたころ。偶然、自宅に奇跡的に一冊だけ残っていた澁澤の訳本・ユイスマンスのさかしまを読み、澁澤らしい美文に圧倒された。そしてしみじみと思ったー芸術というのはおそらく何の意味もないのだろう。だがただひたすら美しく、人を救う、と。かつては神のごとく崇めた澁澤龍彦を違う目で見た時代もあったものの、彼はやはり日本のフランス文学ないし異端芸術愛好家のヒーローだと思う。彼が後生に与えた影響は計り知れない。蛇足ながら、写真を見ると若き日の澁澤龍彦と矢川さん、物凄くお似合いだ。ある意味似たもの同士だったのだろう。現世では紆余曲折を経て別れた二人だが、文学を志した同志としてその魂はどこかで結ばれているのではないかと思ってしまう。