フェリーニのカサノバ

GyaoでHDニューマスター版の放映が始まり、懐かしくなって思わず観てしまいました。長いのでまだ途中ですが、絢爛豪華なフェリーニの夢絵巻を堪能中です。昭和の日本ではドンファンと並んでプレイボーイの代名詞だったカサノバ。尾崎亜美が杏里に提供したコルドバの踊り子という歌にも♪あなたカサノバ 恋の手管と知っていながら騙される♪と歌われています。女性との恋愛遍歴で有名な18世紀のイタリア人ですが、文学、政治学、哲学などなどを修め、錬金術にも通じた才人だったのですね。

水中から巨大な女神が顔を表すカーニヴァルのシーンから圧倒されてしまいますが、この映画のセット凄いですね。カサノバが海を彷徨うシーンの波までビニール状のもので表現していて、虚構の世界ならでこそのリアリティが漂うというか・・・額を剃り上げてかつらを被り、つけ鼻でカサノバを演じるのはカナダ出身の名優ドナルド・サザーランド。この人、ベルトルッチの1900年で演じた残忍なアッチラ?役の印象が私には強いのですが、色々な役をこなす万華鏡のような俳優ですね。それにしてもよくこのキワモノすれすれのカサノバの役を引き受けたものだなと思います。全編艶なるシーンが続きますが、愛の営みの際にカサノバが携帯する、黄金細工の鶏のオルゴールはいったい何なのでしょう?妖しいというか胡散臭い、時にテクノポップを連想させるメロディが流れ、鶏が羽を動かす様子など可愛らしくてふし~ぎな感じ。そしてカサノバについて書きたくなったのはまさにその音楽を忘れられないからなのです。もう30年も前?タモリ倶楽部の名物コーナー・空耳アワーに、なんとカサノバの音楽の空耳投書があったのです。空耳アワーは内容に合わせたムービーも面白く、男性が歩いてきて、ふと小林幸子のポスターの前で立ち止まり、そこに♪結婚する前のさっちゃんがいい~♪とイタリア語がかぶさる-確かにそう聞こえて、あの空耳を発見した人はまさに天才だと思いました。その後、カサノバのサウンドトラックを探してあの歌を聴こうとしたものの、私が見たバージョンにはその歌は含まれていませんでした。今回ニューマスター版で果たして聴けるだろうか?とわくわくしているところです。

トリコロール 青の愛

クシシュトフ・キェシロフスキという舌を噛みそうな名前のポーランドの監督を知ったのは、二人のベロニカででした。それぞれポーランドとフランスに生まれた、同じ名前と容姿を持つ二人のベロニカの物語。カンヌで主演女優賞を受賞したイレーヌ・ジャコブの凛とした美しさが光ります。ドッペルゲンガーをテーマとしていますが怪異な物語ではなく、静謐な雰囲気に満ちた不思議な映画でした。その監督がフランス国旗の三色をモチーフに、それぞれが象徴する自由、平等、博愛をテーマに撮った三部作の第一部がこちら。交通事故で夫と娘を失った女性の物語です。高名な音楽家の夫・パトリスと可愛いさかりの娘と共に、何不自由ない生活を送っていたジュリーは、3人でのドライブ中に不慮の事故で不幸のどん底に突き落とされます。自身も重傷を負い、満身創痍の上、愛してやまない夫には数年来の愛人がいたことを知り、まして愛人は妊娠中で・・・辛い展開。ジュリーを演じるのは、この演技でヴェネツィア国際映画祭の女優賞を得たジュリエット・ビノシュで、悲しみと絶望の表現が見事です。

パトリスにはオリヴィエという新進作曲家のパートナーがおり、二人はフランス政府からヨーロッパ統合祭のために演奏する曲の作曲依頼を受け、制作にいそしんでいました。このパトリス役、なんとジュテームで嫉妬に狂うゲイ青年を演じたユーグ・ケステルで、数十年ぶりの再会にびっくり。彼はジェラール・フィリップ賞を受賞したこともある生粋の演劇青年なのだそうです。

オリヴィエはパトリスとの共同作業の過程で知り合ったジュリーをひそかに愛するようになっていましたが、ジュリーもかねてからオリヴィエが自分を愛していることに気づいていました。絶望の中で彼を求め一夜を過ごすものの、すぐに悔恨の念にとりつかれ自分を責めるジュリー。自らを罰するように、泣きながら掌を石塀にこすりつけて歩き、血がにじみ出るシーンが忘れられません。オリヴィエとのことは忘れようと努め、その後誰にも告げずに新天地で暮らし始めるジュリーですが、オリヴィエは行方知れずになった彼女を探し当て、パトリスの死で頓挫した欧州統合の協奏曲”自由、そして愛”を一緒に完成させようとします。この、自由、そして愛が感動の名曲。ギリシャ語でコリント人への手紙が合唱されます。もちろんギリシャ語はわからないのですが、このコリント人への手紙は、今までに読んだ愛に関する文書の中で最も感動したもののうちの一つです。

たとえ私が天使たちの言葉を話しても 愛がなければ虚しい限り ただ鳴り響く鐘に過ぎない

たとえ私に予言する力があっても たとえ私が奥義に通じていても あらゆる知識に通じていても 山を動かすほどの信仰があっても 愛がなければ無に等しい 無に等しい

愛は寛容なり 愛は善意に満ちる 愛は決して妬むことなく 決して高ぶらない

愛は耐え忍び、全てを信じる 全てを望み ひたすら耐える 愛は決して滅びることがない

予言はいつしか終わりを告げる 言葉はいつしか沈黙する 知識もいつしか消滅するだろう

残り続けるのは信仰と希望と愛 この三つの中で最も尊いのは愛 最も尊いのは愛

曲を完成させ、ジュリーはオリヴィエの愛を受け入れます。この合唱が鳴り響くラストシーンでは涙が止まりませんでした。一人の女性が絶望の淵から再生し、悲しみから解き放たれる姿に、トリコロールの青のテーマ・自由を重ねたところが心憎いばかりです。ブルーを基調とした映像も綺麗でした。自己を回復する過程で、夫の愛人を許し、財産を彼女とその子供に譲ろうとまで考えるジュリー。死んだ夫の残した曲を仕上げながら、彼女は夫を理解し、無限の愛情をもって彼を讃え、いわば崇高な精神を身に着けていきます。ただ演じるジュリエット・ビノシュはそんな寛大な女性には見えませんでした。絶望の底で慟哭する演技は素晴らしいけれど、彼女の真骨頂はやはり無邪気な顔した悪女だと思います。夫・パトリスは二人の女を同時に愛した罪な男。しかしそれだけ心が豊かだったともいえるのでしょうか。彼が残した壮大な協奏曲の世界観は、愛はあらゆる既成概念を超え、それだけで価値があるものだと訴えます。彼の言葉として引用される”人間は天使ではない。だから愛が必要なのだ。そして愛が生まれた時には力を尽くして育て、守らねばならない”は印象的でした。

火の接吻 ロミオとジュリエットの物語を運命のように引き受ける二人

なんて美しい邦題!原題はLes amants de Verone、ヴェローナの恋人たち、ロミオとジュリエットの翻案です。20世紀末、フランスで恐るべき子供と称され、その才能を絶賛された映画監督・レオス・カラックスもこの映画に傾倒しています。彼のアレックス三部作の最終作・ポンヌフの恋人の原題はLes amants du pont-neufと火の接吻の原題にそっくり。ポンヌフの恋人でのアレックスは口から火を噴く大道芸人ですが、こちらの映画の主人公・アンジェロはムラノのガラス職人で、ガラスを吹く時に火が赤々と燃え上がります。そしてそのアンジェロに扮したセルジュ・レジアニをカラックスは汚れた血で起用しています。汚れた血の最後、手負いのアレックスがそれを隠して愛しいアンナの許にたどり着くのはまさにアンジェロの最期と一緒。カラックスがオマージュを捧げたくなるのもよくわかる、魅力的な悲劇なのです。

カンヌ映画祭でグランプリに輝いたクロード・ルルーシュの”男と女”の印象が強いアヌーク・エーメ。冬のドーヴィルを舞台に、ムートンを上品に着こなす大人の女っぷりが素敵だった彼女、火の接吻ではその若き日の瑞々しい美貌を堪能できます。水の都・べニスの没落した名家の令嬢・ジョルジアが彼女の役。ロミオとジュリエットの映画を撮るために街を訪れたプロデューサーと女優が、撮影で使う年代ものの調度品を探してジョルジアの屋敷にやってきます。当主のエットーレは家名を誇り過去の栄華に執着し続け、その徒弟アメデオは戦傷により精神に異常を来しており、機関銃を撃つポーズを絶えず繰り返します。これがのちの悲劇の伏線となっています。エットーレの妻も家政婦もみな風変わり。変人ばかりの中でジョルジアだけが清純な美しさを放っています。一家はラファエレという男に経済的援助を受け、ラファエレはジョルジアの婚約者になっていますが、当のジョルジアは彼を嫌っています。ジョルジアは女優に職を紹介してくれと頼み、女優は撮影所に来るように言います。ちょうどロミオとジュリエットで一番有名なシーンと思しきバルコニーでの逢瀬を撮るところで、ジョルジアは女優のスタンドインの仕事を得ることに。ムラノのガラス職人・アンジェロは女優のファンで、彼女見たさに撮影所を訪れると、なぜかエキストラと間違えられて衣裳を着せられます。いざ撮影が始まると、ロミオを演じる役者が高所恐怖症で高い縄梯子を登れない。後ろ姿の撮影なので、急遽アンジェロが代役を務めることになり、縄梯子を登ってバルコニーにたどり着くと、そこにはジュリエットに扮したジョルジアがいて・・・二人は一目で恋に落ちます。運命に引き寄せられるように全くの偶然からロミオとジュリエットを演じた二人が、現実の恋人同士になってしまうなんてロマンチック!

監督のアンドレ・カイヤットの書下ろしのストーリーを枯れ葉で有名な詩人のジャック・プレヴェールが脚色した作品で、詩人の感性が随所に煌く名作です。カイヤットは社会派の作品で広く知られていたのが、こんなに甘美な映画も撮っていたのかと驚きました。ベニスでのロマンスというと当時はキャサリン・ヘップバーンの”旅情”が有名でした。それが火の接吻で恋する二人が薔薇の花で飾られたゴンドラに乗るシーンを見て以来、ベニスと言えば断然こちら!と思うようになりました。映画では、撮影隊がロミオとジュリエットゆかりの地、ヴェローナを訪れることになり、二人も同行して夢のような日々を過ごします。しかしムラノのガラス職人に名家の令嬢はやれないということで、ジョルジアの家人は与太者に頼んでアンジェロを殺そうとしますが失敗に終わります。ジョルジアの父は自らアンジェロを手にかけようとし、アンジェロはそれを逃れながらも、気のふれたアメデオの乱射した銃に撃たれます。命からがら撮影所のジョルジアの許にたどり着いたアンジェロですが、ジョルジアの腕の中で息絶え、絶望したジョルジアは動脈を切って後を追います。まさにロミオとジュリエットを地で行ってしまった二人なのです。

上のゴンドラの二人幸せそう。激しい恋のさなかにいて、もうお互いしか見えない状態の二人。セルジュ・レジアニはやんちゃでコミカルな顔立ちながら、若い頃はそれなりにかっこいいですね。赤々と燃え盛る火をバックに仕事するガラス職人は頼もしく、レジアニの野卑な魅力が炸裂します。私がジョルジアだったらやはりこの人に恋してしまっただろうと思わせる演出はさすが。

モンパルナスの灯然り、ローラ然り、81/2然り、愛よもう一度然り・・・改めて思い出すと、私が観てきたアヌーク・エーメの主演作はそれこそ女ざかりの彼女の魅力がいっぱいですが、若き日の彼女と言えばこちらの他にもう一つ、フランスのダンディズムの極み、悪魔的嗜好と頽廃趣味で有名なバルベー・ドールヴィリー原作の真紅のカーテンを映画化した邦題”恋ざんげ”も忘れがたい作品です。ナラタージュで進行するパントマイム劇で、エーメの美しさが物語の悪魔的な魅力によっていっそう輝きます。一見の価値あり。それにしても火の接吻も恋ざんげも、ともに邦題が素敵。恋ざんげって、原作を読んだ身には唸らせるようなタイトル。何か出所があるのかと検索したら、伍代夏子の同名の歌が出てきました。歌のタイトルはこの映画からとったのでしょうか。そういえば宇野千代に色ざんげという小説がありました。映画の公開は小説より後。宇野千代作品にインスパイアされたタイトルだったのでしょうか。

ストリート・オブ・クロコダイル 不毛な袋小路の悪夢の人形劇

アメリカ出身の双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの監督作品。双子の共同作業というだけで興味を持ちました。特殊なシンパシィが通い、シンクロニシティを共有することも多いという双子。神秘的な絆で結ばれているのでしょう。志同じくした双子の彼らによる作品が凡庸なはずはない!との期待にたがわなかった悪夢のような映画・ストリート・オブ・クロコダイル。かなりエキセントリックな世界ですが、その陰鬱ながら幻想的な頽廃美は唯一無二。

ストリート・オブ・クロコダイルの地図が大写しになる。物淋しい口笛が響き渡る。くたびれかけた初老の男が劇場に入っていくと、舞台の奥は博物館になっており、中は古色蒼然、古びたねじや拡大鏡、キネトスコープが雑然と置かれている。キネトスコープを覗くと、積もり積もった埃と錆に埋もれたストリート・オブ・クロコダイルの機械仕掛けの模型が見える。ドラマチックで哀切なヴァイオリンの音。長らく止まっていた模型に男がつばを垂らすと、模型は動き始める。男は、模型の中にいたやせこけたパペットの男をつなぐひもを鋏で切る。自由になったパペットはストリート・オブ・クロコダイルを彷徨い、ある仕立て屋に吸い寄せられていく。

薄汚れたガラスに映る埃、ねじ、ひも。可愛いアウグスティンのメロディが流れる。機械仕掛けの猿がシンバルを鳴らすとそれが合図のようにニット帽をかぶった子供の人形が地面に落ちたねじを拾う。迷宮のような仕立て屋の奥にはマネキン人形が並んでいる。さらに進むと、頭の上部と眼球がない人形がパペットを待っている。人形の合図で、同様のマネキン人形が一斉に動き出し、パペットをとらえて頭部を自分たちと同じマネキンに挿げ替え、中に綿を詰め込む。剥製状態。人形が作業台に敷いたポーランドの地図の上にマジックのように取り出したのは生々しい肝臓。それを紙で包み、きれいにピン打ちし、挿げ替えたパペットの頭部につなげる。再びおびただしい埃にまみれたねじとマネキン人形が映し出され、新しい肉体を得たパペットは仕立て屋を後にする・・・って不思議な話でしょう。全体を通して無彩色で暗澹たるムードが漂い、人形の頭を挿げ替えたり生の肝臓が登場するなど不気味なシーンの連続なのに、全く不快感を覚えないどころか、ブラザーズクエイの審美眼に圧倒されます。錆びたねじ、埃で汚れた調度品が俄然魅力的に見えるのが凄い。冒頭のくたびれかけた男や古色蒼然とした博物館と同じく、ストリート・オブ・クロコダイルは過去の遺物。その模型が再現する世界を支配しているのは脳をくりぬかれた人形たちで、何の意志も感情もないまま、訪れる者におそらく同じ仕打ちを繰り返しているのでしょう。全くつかみどころのない話なのでかえって好奇心をそそられ、原作を読んでみました。

原作者は19世紀末ポーランドに生まれたブルーノ・シュルツ。小説だけでなく、絵画にも才能を発揮したのだそうです。上は彼の自画像です。ストリート・オブ・クロコダイルは”肉桂色の店”に収録された短編で、工藤幸雄氏により大鰐通りの名で訳されています。これがまた不思議な話なのです。ある町の美しい地図に空白として描かれている大鰐通り。そこは人間の屑が住み着く腐敗した場所で、地図の製作者はその界隈を町の一部として認めるのを憚ったために空白としているかのようです。色彩のない、全てが灰色の大鰐通りにまともな人間は近づこうとはしませんが、例えば自暴自棄になったり、安い誘惑に縋りたくなったりすると、人々はそこに吸い寄せられます。街娼がたむろし、列車の発着時刻も定められていない無秩序な町で、人々は束の間の快楽をむさぼろうとします。しかし欲望は満たされないまま大鰐通りを後にするのが常。

シュルツが愛した生まれ故郷・ドロホビチの不健全な一画を描いたこの小説にはプロットが全くありません。何度読んでも何の話だったのかわからないほど難解で、随分戸惑いました。小都市ドロホビチを侵食した資本主義経済への批判の書とも言われていますが、私は、劣等な人間が住む劣悪な地域の風紀を独特の筆致で描いているところに魅力を感じます。また、順風満帆な時はそんな地域を馬鹿にしている人間も、魔がさせばたやすく入り込んでいけると、人間の弱さに言及しているところも忘れられません。何もかもが冴えない大鰐通りなのに、自分の立場を忘れ放逸を尽くしたい人間にはパラダイスになってしまうのです。魔界の陥穽。

原作に仕立て屋で服をあつらえるエピソードは登場するものの、マネキン人形たちによる肝臓移植の話は完全にブラザーズ・クエイのオリジナルです。シュルツは50歳でゲシュタポに殺されています。ポーランドの地図の上で肝臓を移植するイメージは、ナチスの洗脳・侵略を象徴しているのでしょうか。登場するマネキン人形たちの風貌が、ナチスの将校と捕虜のユダヤ人女性との倒錯の愛を描いた”愛の嵐”に出てくる、パーティーシーンで扮装したナチスの将校に似ているのも印象的です。映画の最後に、”安っぽい人間が素材となっているこの町では、どんな才能も花ひらくことなく、暗く、異常な情熱が刺激されることもない。大鰐通りは、私たちが現代と大都会の腐敗の言い訳として作った租界だった。その不幸は、そこでは何も成功せず、確かな結論にたどり着けないことであった。もちろんそこについて私たちは去年の古新聞から切り抜いた不自然なコピーや合成写真ぐらいしか提供することができない。”との原作からの引用が示されます。そんな不毛な袋小路で、人形たちはまた誰かが模型につばを垂らすのを待っているのでしょう。ちなみに、シュルツの小説はタイトルが何とも魅力的。この大鰐通りも然り、肉桂色の店、砂時計サナトリウム、マネキン人形論、などなど。読みたいのはやまやまですが、難解過ぎてなかなか挑戦できずにいます。

汚れた血 永遠に疾走する愛に憑かれた孤独な青年

もう30年も前、当時流行っていたミニシアターは満席で、立ち見したのを覚えています。若さゆえの体力。3本立てで3時間なんてシネママラソンやオールナイトも平気だったあの頃が懐かしい。若き鬼才、ゴダールの再来ともてはやされていたカラックスは、時代の閉塞感を打破しようとする若者を描き、若年層に熱狂的な歓迎を受けた映画監督です。カラックスのブランド力は絶大で、カラックスを知っていると言うとちょっとした映画通のような印象を与えたものです。ドリカムの歌にもカラックスがどうのって歌詞がありましたね。時代の先端を行くカリスマ、完全主義の謎めいた監督といった売り方で、配給会社がうまくプロモーションしましたね。難解で斬新な映像という触れ込みもまさに若者ターゲットの惹句。その作戦に乗せられた私もカラックスに憧れました。まず早熟の天才ぶりを示すエピソードの数々が眩しい。16歳で高校を中退し、18歳で批評家として活動を始め、20歳で初めての監督作品を撮るとか、凡人には想像もつかない華々しさ。汚れた血はカラックスが自身を投影したアレックス三部作(カラックスの本名はアレックス・デュポン)の第二部で、第一部であるボーイミーツガールを撮ったのが23歳の時。そして汚れた血は26歳の時の作品です。

愛のないセックスによって感染するSTBO (フランス版エイズ?)が蔓延する世紀末のパリ。今思えばこの設定だけで笑ってしまいますが若者はノックダウンされました(少なくとも私は)。ハレー彗星の接近で異常な暑さの夏。(実際は厳寒の中撮影が行われたそうです。)街頭でのトランプ賭博で日銭を稼ぐいわば与太者のアレックス(ド二・ラヴァン)は孤独な青年。手先がマジシャンの如く器用で、腹話術もものします。このドニ・ラヴァン、不気味で不吉な雰囲気を醸し出す強烈な個性の持ち主。カラックスはよくあんな顔の俳優を主役に選んだものだと思います。野卑な魅力漂うと言えば聞こえはいいものの美形にはほど遠いセルジュ・レジアニも好きみたいだし、アレックスと後述のマルクがけんかの末ガラスに顔を押し付け合い、その醜くゆがんだ顔を映し出すシーンもあったりで、カラックスはいわば変顔趣味なのでしょうか?アレックスは子供のころから異常に無口な子で、親は皮肉をこめてお喋り(langue pendue:フランス語で宙吊りの舌。おしゃべりは常に舌を動かしているから)と呼びます。私はこれでlangue pendueというフランス語を覚えました。彼にはリーズ(ジュリー・デルピー)という美しい恋人がいます。森で裸でくつろいだり、バイクで疾走したりするアレックスとリーズ、煙草の吸い方までそっくりな微笑ましさ。しかしアレックスは満たされず、何とかして生活を立て直したいと思っています。バブルが崩壊した日本でこのアレックスの姿に共感する人も多かったのではないでしょうか。

アレックスの父親もよからぬ人物で多額の借金を残して死に、それが友人のマルク(ミシェル・ピコリ)の肩にのしかかります。マルクはSTBOの血清を盗んで密売し、窮地をしのごうと画策し、その相棒としてアレックスに白羽の矢が立つことに。生活の基盤を築きたかったアレックスはリーズに別れを告げ、金欲しさに犯罪に加担します。その過程でマルクの年若い恋人・アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に惹かれ・・・30年前はこの物語に痺れました。でも今となっては愛のないセックスで感染するSTBOって設定が青すぎて・・・例えばかつて一世風靡したリングもホラーの伏線の張り方は見事ですが、呪いで人は殺せません。出発点そのものが突っ込みどころ満載だと観る方は萎えてしまいます。とはいえ汚れた血は、こうして書き残したいと思わせる魅力に満ちた作品です。ジャン=イヴ・エスコフィエが彫琢を重ねた職人技を発揮して撮影した夜のパリの景色を始め、カラックスの美学を反映したシーンの数々とともに、珠玉のようなセリフが散りばめられているのも忘れがたい。

リーズがアレックスに贈った絵に添えられてあった、娘が脚を開くとそこから秘密の蝶が飛び立つという謎めいたセリフ。泣き虫のアンナは自分を涙が止まらない血友病みたいと例えます。アレックスが見た夢の中でアンナが語る、私の目に二つの黄色い月が見えたらオルガスムなの。また、公開時のキャッチコピー”愛は疾走する”はキーワードであり、アレックスがアンナに尋ねる、永遠に疾走する愛を信じるか?のセリフも決まっていました。ボウイのモダン・ラヴに乗って、アレックスが走って走って走りまくるシーン、アンナへの迸り出る恋心が切なくも力強く描き出されていて、圧巻のシーンですね。ワクチンを盗み出すことに成功しながら、裏切り者の密告により追手に撃たれたアレックス。もう一度人生を生きたいと強く願うアレックスが息絶えるラストシーンでは涙が出ました。強がってはいても天涯孤独の身だったアレックスの淋しさははかり知れません。ともに生きる人との幸せを求めたのに叶えられなかった彼の悲痛な姿が胸を打ちます。息絶えたアレックスを見て感極まったアンナが走り出し、それを追ってマルクも走り出す。疾走がやはりキーワード。青春の只中にいる者の不安、孤独、夢といった混沌とした内面描写に共感します。プロコフィエフやベンジャミン・ブリテンの音楽も効果的に使われていました。

カラックスは当時恋人同士でもあったジュリエット・ビノシュを神秘の麗人といった筆致で描いています。暑さに耐えきれず上目遣いで髪を吹き上げるビノシュ、日本でもカラックスの意図通りに紹介されていました。二人の男を翻弄する謎の女ーでも私にはいかにも田舎のお姉さんに見えました。無邪気な顔して田舎者の図々しさを発揮する悪女って感じ。昔誰かが彼女をフランスの大竹しのぶと呼んでバッシングを受けたそうですが、私には的を得た指摘に思えます。その悪女ぶりは以後、存在の耐えられない軽さやダメージなどで遺憾なく発揮され、イングリッシュペイシェントではアカデミー助演女優賞も受賞、堂々の演技派女優になりましたね。キェシロフスキのトリコロール・青の愛でも交通事故で夫と娘を失った女性の悲しみの表現が見事でした。個人的には確信犯的ぶりっ子ぶりが鼻について好きになれないのですが。ただ、アレックス三部作の最終作、完成するまでもめにもめたポンヌフの恋人で、汚れ切ったホームレスの女性を演じ、美しかったのには驚きました。ビノシュの演技力とカラックスマジックのなせる技でしょう。全てを失った、社会の敗残者同士の間に生まれた愛を通して、飾りをはぎ取った、人間の本質的な美しさに迫ろうとしたカラックスは只者ではない。

バイクに乗った天使・リーズを演じるジュリー・デルピー。広い額に離れた目、金髪の彼女、美人ではないところが魅力的。キェシロフスキの”トリコロール・白の愛”の盲目的に愛される妻役でも天使のような愛らしさでした。ご本人はカラックスとの仕事を楽しまなかったようで、バイクに乗った天使、妖精のイメージにこだわったカラックスから絶対太るなと言われ、毎日体重計に乗ったとあるインタビューで不満気に語っていました。ポンヌフの恋人のことも、甘やかされた映画と痛烈に批判していたものです。

本を読みすぎて早熟になったアレックスは、すぐに年老いると友人に言われているーその言葉通り、実際のカラックスが一気に年老いてしまったのか、アレックス三部作を撮り終えると長い長い沈黙の時代に突入します。ポンヌフの恋人が最後の作品と本人も公言してはいましたが。その後話題になったのは1999年のポーラX。未見なのが残念なので機会があったら観てみたい。カラックスはもともと大の映画好きで、映画評論家としての活動歴も長いので、映画に関する知識は驚くほど豊富です。バイクや鏡といった小道具、運命の女が街頭を歩く姿を追うシーンはコクトー作品からの引用でしょうし、瀕死のアレックスがアンナに会おうとやっとの思いでアジトにたどり着くシーンはアンドレ・カイヤット”火の接吻”のラストを思わせます(カラックスはこの作品に相当思い入れがあるようです。火の接吻の原題は”Les amants de Verone”で、ポンヌフの恋人の原題は”Les amants du pont-neuf”とよく似ています。口から火を噴く大道芸人アレックスの造形にも火の接吻の影響がみられ、火の接吻の主人公はムラノのガラス職人で、彼がガラスを吹くときに火が赤々と燃え上がるシーンは、そのままアレックスにより再現されています。おまけにその主人公を演じているのがセルジュ・レジアニなのです!)オールドシネマファンにはこういったディテールを楽しめるのもカラックス作品の魅力ですね。

最近デジタルリマスター版を見返して、アレックスの晴れ着なのか、黄色い地にトランプのダイヤのような黒いマークがついたジャケットと、彼がいつも履いているカンフーシューズみたいなフラットな靴が心に残りました。喫煙のシーンが多いのも時代を感じさせます。誰もがひっきりなしに煙草を喫っており、くわえ煙草がまたサマになっています。近未来を設定していますが、まさか近い将来喫煙がこれほど糾弾されることになろうとは思いも寄らなかったのでしょう。それに今見ると・・・若き日のカラックス(覗き屋役で一瞬出演している)ってインパルスの板倉に似ています。これは新しい発見でした。

五社英雄が描く極彩色の苦界 吉原炎上

明治40年の東京・吉原。誰も教えてくれない歴史。昔、川崎競馬場に行った帰り、ショートカットの歓楽街を通ってJR川崎駅まで歩いたことがあります。女だとまず足を踏み入れる機会のないエリア、怖いもの見たさの社会科見学気分です。川崎競馬場から帰途につく人々の群れは男性ばかり。おりしも極寒の季節、紫色のムートンのコートを着ていた私はかなり場違いでした。そこで働く者と勘違いされたのか、好奇の視線を感じながら歩いていると、あるショーウィンドウに女性が数名座っていたのに驚いたのですが、この映画を観てまさにそれが昔の吉原のシステムだったことを知りました。

吉原で働く女郎は、貧しい出自か、親の借金のカタに売られてきた女の子ばかり。でもここにいれば三度の食事にありつけると健気です。冒頭の岸田今日子によるナレーションが印象的。吉原への道は二つあったといえましょう。男が通る極楽への道。女が通る地獄への道。名取裕子演じる主人公・ひさのも親の借金のカタに売られた身。先輩の花魁や女将から花魁道の手ほどきを受けます。殺し文句が大事。床上手で泣きのうまい子がお得意さんを作る。とにかくリピーターになってもらうこと。今のマーケティング戦略と同じですね。美人はそれだけで傲慢だからダメ。なるほど。ふのりを局部に塗り、辛い行為に耐える女郎たち。ふのりとは、昔障子を張り替えるのに使ったのりだと聞いたことがありますが、そんな用途もあったのですね。ひさのは一生懸命学び、お披露目に臨みます。客はガラス越しに女郎たちを値踏みする。川崎の歓楽街の光景がよみがえります。しかしいざ客を取る段になると激しい嫌悪を示し、脱走するひさの。その道中で根津甚八演じる救世軍に身を投じた財閥の御曹司・古島と偶然出会う。古島はひさのを救おうとして果たせず、しかしお互い忘れ得ぬ存在となります。根津甚八、味のある演技でした。

連れ戻され、折檻を受けたひさのに女郎の心得を教える先輩花魁・九重(二宮さよ子)。このレズビアンシーン官能的で迫力満点、生々しすぎて怖いくらいです。二宮さよ子の色っぽさは格が違います。人気女優二人がこんなシーンを演じているのにちょっとびっくり。続いて藤真利子、西川峰子、かたせ梨乃演じる花魁&女郎のエピソードが綴られます。藤真利子演じる花魁・吉里は、本気で愛した男に去られて絶望して自殺する。西川峰子・小花は、没落した名家の出と吹聴しているがすべては嘘。最後結核で果てる姿が凄惨です。かたせ梨乃・菊川は要領が悪いと下級の置屋に追いやられてもたくましく生き、結婚して幸せをつかむ。と思いきや旦那はとんだ食わせもので、最下層の女郎屋に身を落とす。最後、最高級の御職に上り詰め、紫太夫と名乗るひさのが唯一愛したのは古島でした。登楼しても決してひさのと床を共にすることはなかった古島。商品としてのひさのを買いたくはなかったのでしょう。二人の気持ちは一つでした。でもひさのは身請けしたいと古島が出した金を花魁道中に使いたいと言いだします。そして豪華な花魁道中が実現する。花魁道中と言う言葉、寡聞にして知りませんでした。花魁がお供を連れて店屋まで練り歩く、いわばファッションショーのようなものだったようですね。黒塗りの高下駄を履いて外八文字と呼ばれる独特の歩き方を披露する。よくあんな歩き方を考え出したものですー当時のモンローウォークでしょうか。

古島への思いは捨てきれないけれど、一度袖にした相手に縋るのは筋ではないと菊川に諭され、身請けしようといった別の男との結婚を決めるひさの。吉原を去るその日に吉原は大火に見舞われ・・・というラスト。重くて熱い2時間でした。五社英雄監督が描く極彩色の吉原絵巻。五社作品は、夏目雅子のなめたらいかんぜよで有名な鬼龍院花子の生涯にせよ、高知の遊郭を描いた陽暉楼にせよ、どろどろした重いトーンが特徴的です。登場人物はみな暗澹たる人生の中でもがいています。その宿命的な暗がりに一瞬、生の歓び、艶が閃く。小花の壮絶な断末魔のシーンを含め、出血シーンが多いのは吉原と言う苦界に生きた女人の業を物語っているのでしょうか。映画を観ていて、俳優から最高の演技を引き出す名手だったヴィスコンティを思い出しました。五社監督もそうだったのでは。花魁は遊郭の大黒柱。そこに携わるすべての人間の糧となる存在で高位の称号だからでしょうか、みな名前でなくおいらん、おいらんと呼んでいたのが印象的でした。花魁・・・美しい漢字ですね。

エゴン・シーレ 妄執に憑かれた淫らなエピキュリアン

数年前、エゴン・シーレの没後100周年を記念して撮影された“エゴン・シーレ 死と乙女”を観ました。モデル出身の白皙の美男子・ノア・サーベトラがシーレ役。35年ぐらい前にもシーレの映画は制作されていますが、その副題は愛欲と陶酔の日々(この邦題もすごいですね(+o+) 別れの朝で女性たちを虜にしたドイツの美青年・マチュー・カリエールがシーレを演じていました。実際のシーレの写真を見ると美青年というよりちょっとコミカルな風貌でひょうきん者というか、ルパン三世とか竹中直人を連想させます。でも彼を演じる俳優が二人とも抜けて美青年なのが解せません。それも縦長で繊細な王子様系。マチュー・カリエール版は、マチュー=シーレの他に、愛人ヴァリ役のジェーン・バーキン目当てで観に行きました。これが19世紀末の頽廃ムード色濃い耽美的な作品で、刺激的で痺れました。もともとクリムトのモデルだったヴァリが強烈なファムファタルとして描かれ、コスチュームもヌードも過激でスキャンダラス。クリムトやシーレの絵画の世界観を彷彿とさせます。

シーレはクリムトから譲り受ける形でヴァリと暮らし始め、ヴァリはシーレのためにポーズをとるようになります。バーキン=ヴァリはシーレにぞっこんで、とにかく尽くす。カリエール=シーレがあまりに格好よく、また女心をくすぐる甘えん坊なので観る方も納得。幼女を性的虐待したかどで逮捕されたシーレの独房に、ヴァリが窓からオレンジを投げ入れ、闇の中にオレンジだけが明るく浮かび上がる絵画的なシーンをはじめ、全体を通して映像がきれい。陰に日向にシーレを支えたヴァリなのに、シーレは中産階級の娘・エディート(クリスチーネ・カウフマン)と出会って恋に落ち、ヴァリを捨てて結婚してしまいます。捨てられるヴァリが痛ましい。バーキンの悲しみの表現が胸に迫ります。”誰も愛したことありません。私はただのモデルです”と書き捨てて去っていくヴァリ。シーレは薄情で残酷な男。でもマチュー・カリエールの容姿だと許したい気もします。

エディート役のクリスチーネ・カウフマンは、清楚で可憐な美少女ぶりが人気で活躍を期待されていた矢先に、共演した20歳も年上のトニー・カーチスと18歳にして結婚、多くの男性ファンを落胆させたという伝説の女優。まさかこの映画に出演しているとは思いませんでした。10代の美少女時代とは随分イメージが違いますが、成熟した30代の彼女もやはり美しい。その後バグダッド・カフェでも再会できたのはうれしい限りです。映画では、エディートはシーレの子を身ごもり、妊娠中にスペイン風邪で死亡。シーレも彼女の後を追うように死亡。第一次大戦に看護師として従軍したヴァリは梅毒で死亡。みな若くして命を落としてしまいます。カリエール=シーレは知的で上品過ぎてシーレの持つ野卑な魅力は感じられないものの、美男美女に加え美しい映像、衝撃的な絵を堪能できたので個人的にはすごく好きな映画です。

副題“死と乙女”版はシーレの人生を少年時代から忠実に再現しています。実の妹を裸にして絵を描いたり、変態的な性癖は早くから萌していたようです。上の写真がサーベトラ=シーレ。美しすぎます。モデル出身だけに容姿端麗、眉目秀麗ですが、残念ながら演技力が乏しい。自分の芸術を模索するシーレの苦悩が全然伝わってきませんでしたーただ、シーレが苦悩していたのかは不明です。倒錯のエロスにどっぷり浸かりきっていたのかも知れないし。あっさりヴァリを捨てる酷薄さ、結婚してもヴァリとは関係を続けたいと望む無責任さから結構能天気だったのではとも思います。ヴァリを演じた女優は、バーキンとは打って変わって地味~な人。若き日のロミー・シュナイダーとシャーロット・ランプリングの面影があり、その二人を思いっきり野暮ったくした感じで、出稼ぎ労働でモデルをやっている女といった描かれ方です。バーキン版をイメージしてファムファタルを期待すると裏切られます。20世紀初頭のオーストリアの現実に照らすとこちらの方がリアルなのでしょうか。でもシーレの作品として残っているヴァリは思いっきりドラマチックなのでどちらが本物に近いのでしょうか。

先輩のクリムトと並び称されるシーレ。二人の作品は共に頽廃の香りに満ち、死への誘惑が漂いますが、甘美で妖艶、絢爛豪華で官能的なクリムトの絵が観る者を陶然とさせるなら、シーレの絵は陰惨でグロテスク、観る者を慄然とさせます。クリムトの絵に見られた華やぎはシーレの絵では姿を消し、負のオーラに取って代わります。年長のクリムトが世紀末の頽廃文化の陰と陽を描いたとすれば、遅れてきたシーレはその陰の遺産を偏愛していたように見えます。シーレには自画像が多いのも特徴で、ほとんどみな上目遣いの自分を描いています。かなりのナルシシストぶり。ショッキングな人体画だけではなく、実際は多くの風景画も残しており、それらも色調は概して暗く、陰鬱な雰囲気。猥褻な裸体画ばかり描いているようでは社会に受容されないものの、そうせずにはいられなかったシーレは自身の業を感じていたのでしょうか。陰気にならざるを得ないのもわかります。二作品とも早世の天才としてシーレをかなり美化していますが、彼の本質的な魅力は映画で描かれた姿とは離れたところにあるのではないかと思います。自分の妄執の世界で悦に入ったエピキュリアンというか・・・この表情からしてやはりなんだかお茶目で少し軽薄なお兄さん像を汲み取ってしまうのは私だけでしょうか。

ストリート・オブ・ファイヤー 愛し合いながら断腸の思いで別れる二人 ロックンロールファンタジー

テーマソングの”Tonight is what it means to be young”が好きなのです。ストリートギャングに拉致された人気ロックシンガー・エレン・エイム(ダイアン・レイン)をかつての恋人・トム(マイケル・パレ)が奪還する物語。ストリートギャング・ボンバーズの首領に悪役の権化といった容貌の若き日のウィレム・デフォーが扮しています。今見ると青い感じがするものの、当時から十分怖い顔をしていたデフォー、この役では卑しさもにじませる演技で真骨頂を発揮しています。

♪サンセットキッス♪の歌が印象的なリトル・ロマンスのヒットで日本でも人気だったダイアン・レイン。アメリカ人の少女とフランス人の少年がパリで出会い、ベニスに行く。恋愛のエッセンスが結晶していく過程を鮮やかに描いた映画でした。重要なモチーフとなるベニスの溜め息の橋には、日が沈む時、恋人同士がゴンドラに乗ってその橋の下でキスすると永遠の愛が約束されるという伝説があります。二人が永遠の愛を誓おうとそこに向かうシーンの詩情あふれる美しさはたまりません。そのリトル・ロマンスの頃は少女だったレインが十代の後半に差し掛かり、セクシーな美しさを披露しています。豊かな胸に長い脚、びっくりするほどスタイルがいい。トムを演じたマイケル・パレは当時は無名だったそうですが、王道のヒーロー役にぴったりでかっこよかった。

内容は西部劇の現代版のようでどうってことないー何と言ってもラストのライヴシーンが圧巻で、レインの歌は吹替ながら痺れるパフォーマンスを見せてくれます。海辺や森で美しい天使を見たけれど、都会には天使はいない。でも天使がいなくても男の子ならいる。男の子は天使の次にいいものかもしれない、という詩が好きです。祝祭を始めよう、炎を燃やして。安らげない、傷ついた人たちのために踊ろう。青春は気が付く前に終わってしまうから・・・邦題、今夜は青春(身も蓋もない訳に思えますが、原題がその通りだから仕方ですね)の通り、激しく燃え盛る若さが炸裂する歌。本当は一緒にいたいのに、エレンのステージを見守りながら去っていくトム。熱い視線を交わして、パフォーマンスの途中で出ていく彼とそれを見送るエレンの断腸の思いが曲のクライマックスと重なって最高に盛り上がります。熱いロックンロールファンタジー。でも映画自体は本国ではこけたそうです。このかっこよさ、アメリカ人の心には響かないのでしょうか。個人的にはそれが不思議です。

ラストタンゴインパリ ミッドライフクライシスの痛み

芸術か猥褻か、論争があったことを思い出します。チャタレイ夫人の恋人然り、サド然り。10代の頃ラストタンゴインパリのポスターを見て、それこそ猥褻感たっぷりなので嫌悪と恐怖さえ覚えました。当時はポルノグラフィの規制もゆるく、今では信じられないような画像が街中にあふれていたものです。暗殺の森ですっかり魅了され、ベルトルッチは畏敬の念を抱かざるを得ない映像作家なのに、おそらくそのポスターのせいでラストタンゴインパリはいやらしい映画との先入観ができあがってしまい、若い頃は怖くて観る気がしませんでした。それが数年前、あるバーでアルゼンチンタンゴのアルバムを聴いて大層気に入り、タンゴの名曲が使われているこの映画を観ようと思い立ったのです。フランシス・ベーコンの絵が映し出される導入部から観入ってしまいました。男女の爛れた関係を描いた映画と言われもしますが、私にはミッドライフクライシスが痛いほど感じられて身に染みました。年を取ってから観てよかったのかも知れません。

ブルジョワの若い娘(マリア・シュナイダー)が、妻に自殺された中年男(マーロン・ブランド)と偶然出会い、関係を持つ。二人はお互いの素性を何も知らないままアパートの一室で密会を重ね・・・と男性にとってはたまらないようなストーリー。宣伝のためにせよ性愛描写ばかりが独り歩きしてしまい、いい映画なのに勿体ない。妻の無残な死をきっかけに、それまで男が抱えていた苦悩が一気に噴き出して彼を蝕んでいく。棺に納められた妻の遺体を前に、彼は自分たちの奇妙な結婚生活(妻には愛人がいた)を振り返り、そんな関係に苦しみながらもどんなに彼女に恋い焦がれていたかを語る。深い悲しみに満ちた心に残るシーンなのですが、裏話によるとブランドは一切セリフを暗記して来ず、カンペを部屋中に貼り巡らしてそれを頼って切り抜けたそうで、カンペを見る様子が歴然だとか。それでもあんな演技をするブランドが凄い。劇中の彼はもし若かったらあのような末路は辿らなかったでしょう。もう人生を軌道修正するには遅い年齢に達してしまい、堕ちていく辛さ。過激な性描写は、あの男が壊れていく様子を物語るのに必要だったのかとも思えます。

特に好きなのが、ビルアケム橋で二人がすれ違う冒頭のシーン(妻の死を受けてブランドは泣いている)とラスト近く、ブランドがタンゴを踊るシーン。裸体のラブシーンより断然いい。やはり名優は着衣で勝負です。当初ブランドの役にはジャン=ルイ・トランティニャンが、シュナイダーの役にはドミニク・サンダが予定されていたのが、サンダの妊娠によって叶わなかったのだそうです。暗殺の森のコンビーもしその二人を配していたらどんな映画になったのか想像がつきません。マリア・シュナイダーのいかにもいわくありげな胡散臭い雰囲気とブランドのうらぶれた中年男ぶりがぴったりだっただけに・・・途中、マリア・シュナイダーと恋人の話も語られるものの妙にミスマッチだった記憶があります。恋人役は頼りなさそうなジャン=ピエール・レオで、強烈な個性を持つマリア・シュナイダーにはどうにもそぐわない。

全編を通して流れるガトー・バルビエリのタンゴ、いいですね!官能的ながら不安を誘う孤独感もあり、彷徨える魂を象徴しているようで・・・小田和正の”ラブストーリーは突然に”のサビの部分がこれに似ていると思うのは私だけ?

ブランドは生前、これはベルトルッチによる精神分析の映画だと語ったそうです。しかし自分でも本当は何の映画なのかわからないと。多様な解釈が許される芸術作品ほど奥行きがあるのでしょう。それにしても、20代で暗殺の森を、30そこそこにしてラストタンゴインパリを撮ってしまうベルトルッチとは何者なのでしょう。観終えた後、猥褻などという言葉は遥か彼方に消えていました。心に残ったのは煽情的なラブシーンではなく、すでに若さを失い、ぬぐい切れない汚点に満ちた人生の重みに耐えかね、救済を求める男の孤独で痛ましい姿でした。

コックと泥棒、その妻と愛人ーピーター・グリーナウェイ 悪趣味の美学

1990年の日本公開当時、衣裳がジャン=ポール・ゴルチエ担当ということで舞い上がって観に行きました。ゴルチエはその才能の絶頂期だったのではないでしょうか。尼さんルックにボンデージ、衝撃のデザインを発表してはファッショニスタを魅了していたゴルチエは、若かりし自分には手は届かないものの憧れの存在でした。映画の内容は二の次、頭の中はゴルチエの衣裳でいっぱいで、胸を高鳴らせて足を運んだ映画館でまさか気分が悪くなるとは。それまでにもグリーナウェイの作品は観ていました。Zooにせよ、英国式庭園殺人事件にせよ、数に溺れてにせよ、どれもかなり異常な世界観を示しており、免疫はできていたつもりが甘かった。コックと泥棒、その妻と愛人はグリーナウェイのエッセンスを昇華させたようなエログロの極みの世界で、正視できませんでした。ニーチェの”深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ”ーではないけれど、グリーナウェイの作品に描かれる地獄絵巻を覗くとその中に引きずり込まれそうで怖い。でもなぜか見てしまいます。怖いもの見たさの人間の性なのでしょうか。

グリーナウェイはもともと画家を志していて壁画を描く勉強もしたそうで、なるほどあるインタビューで、自分は俳優を人間としては見ない、風景の一部として見ると語っていました。作品の絢爛豪華な映像美は美術の素養に裏打ちされたものでしょう。この映画では高級フレンチレストランを舞台にそこを根城として我が物顔にふるまう泥棒と、それに辟易しながらなすすべのないシェフ、泥棒に虐待されているその妻、その妻に惹かれ愛人となる学者の男を通して、欲望に溺れる人間の醜悪な姿を描いています。グリーナウェイの作品はどれも随所に偏執的なこだわりが見られます。ここでは部屋を移動したりシーンが変わったりすると、セットや俳優たちの衣裳を含めすべての色が変わるという趣向を凝らしています。赤から黄色、青、緑などへとめくるめくようにスクリーン全体の色が変わっていくのです。それを背にゴルチエデザインの前衛的な衣裳を着こなす泥棒の妻・ヘレン・ミレンの美しいこと。そこで展開されるのは悪趣味な愛憎劇なのですが。

豪勢な料理がふるまわれているレストランのテーブルを離れてトイレで密会する泥棒の妻と学者。これもグリーナウェイのこだわりなのでしょう、彼は対照を成すものを好んで取り上げます。飲食の場に排泄の場、贅沢なドレスに裸体、性的快楽とむごたらしい暴力、など。豚の頭が壁にかかっているレストランの厨房や腐敗しかけた肉に蠅が飛び交い異臭を放つ食肉運搬車の中で裸で密会するって発想がまたディヴァイン。名優たちによくあんな演出を納得させるものです。食欲と愛欲に耽溺し、身を滅ぼす話と言えばマルコ・フェレ―リの最後の晩餐などというのもありました。西洋人の生への執着って凄まじい。二人の関係は泥棒の知るところとなり、悲劇的ーというか想像を絶する結末を迎えますー泥棒の一味に無残に殺された愛人の遺体をシェフに頼んで調理?させ、泥棒に食べさせる妻ってこれはもうディヴァインどころの騒ぎではありませんけど。破局に向かって、泥棒の虐待を受けてきたレストランのスタッフ全員を従え、料理に見立てた愛人の遺体を泥棒の許へと運ばせる妻の威厳に満ちた迫力といったらありません。ヘレン・ミレンは最後のこの演技のために役を引き受けたのではと思うほどです。妻にピストルを突き付けられ人肉を食らわされた泥棒は嘔吐し、人食いと罵られて撃たれます。おぞましいシーン。確かそのあとレストランのメニューが取り澄ました様子で映し出されて終わり・・・圧巻の結末でした。

その後もベイビーオブマコン、枕草子とグリーナウェイ作品を観ました。特に前者は再びエログロ色が強い作品で、上映終了後、おそらくは衝撃のあまり俄かには立ち上がろうとしない観客が多かった。私も然り。グリーナウェイにはいつも悪趣味の美学を感じます。人を不快にさせるテーマやモチーフを独自の審美眼でスタイリッシュに描き、ワンシーンごとを一幅の絵のように仕上げる。そこには賛否両論を醸し出す芸術作品にありがちな背徳とか頽廃、倒錯などという概念は存在しないように思えます。彼自身が善悪の彼岸にいるからでしょうか。こちらも好きな映画であるジュテームモワノンプリュを撮ったセルジュ・ゲンズブールにも悪趣味の美学を感じますが、彼の場合はどこかにシャイで繊細な素顔が見え隠れします。グリーナウェイのそれはゲンズブールのとは全く違う・・・純然たる愉楽の世界に屹立し、理想の実現のために冷徹な采配を振る巨人と言ったイメージがあります。他に類を見ないアーチストです。

多くの作品でコンビを組んだマイケル・ナイマンがコックと泥棒・・・でも音楽を担当していて、これがたまらなく好きです。破滅に向かって進行し、クライマックスへと高まる物語を導いていくドラマチックなメロディ。以前、遊びに来た友人の前でこの曲をかけていたら、美しくないから止めてくれと言われました。グリーナウェイの映画に寄せたナイマンのスコアは確かに癖があってアクが強い。そこが彼の持ち味だと思っていたのが、その後ジェーン・カンピオンのThe pianoに書いたThe heart asks pleasure firstを聴いてびっくり。心はまず歓びを求める、のタイトル通り、恋した相手を求めて高まり、揺れ動く感情を切ないながらも官能的に表現していて、とても同じ人の手によるものとは思えません。さすがグリーナウェイが長年コンビを組んだパートナー、才能は才能を呼ぶのでしょう。