トリコロール 青の愛

クシシュトフ・キェシロフスキという舌を噛みそうな名前のポーランドの監督を知ったのは、二人のベロニカでだった。それぞれポーランドとフランスに生まれた、同じ名前と容姿を持つ二人のベロニカの物語。カンヌで主演女優賞を受賞したイレーヌ・ジャコブの凛とした美しさが光った。ドッペルゲンガーをテーマとした怪異な物語ではなく、静謐な雰囲気に満ちた不思議な物語だった。その監督がフランス国旗の三色をモチーフに、それぞれが象徴する自由、平等、博愛をテーマに撮った三部作の第一部がこちら。交通事故で夫と娘を失った女性の物語である。高名な音楽家の夫・パトリスと可愛いさかりの娘と共に、何不自由ない生活を送っていたジュリーは突然の出来事で不幸のどん底に突き落とされる。自身も重傷を負い、満身創痍の上、夫には数年来の愛人がいたことを知る。まして愛人は妊娠中で・・・辛い展開。ジュリーを演じるのは、この演技でヴェネツィア国際映画祭の女優賞を得たジュリエット・ビノシュで、悲しみと絶望の表現が見事だ。

パトリスにはオリヴィエという新進作曲家のパートナーがおり、二人はフランス政府からヨーロッパ統合祭のために演奏する曲の作曲の依頼を受け、制作にいそしんでいた。オリヴィエはパトリスとの共同作業の過程で知り合ったジュリーをひそかに愛するようになっていた。このパトリス役、なんとジュテームで嫉妬に狂うゲイ青年を演じたユーグ・ケステルで、数十年ぶりの再会にびっくり。彼はジェラール・フィリップ賞を受賞したこともある生粋の演劇青年なのだそうだ。

ジュリーもかねてからオリヴィエが自分を愛していることに気づいていた。絶望の中で彼を求め一夜を過ごすものの、すぐに悔恨の念にとりつかれ自分を責めるジュリー。自らを罰するように、泣きながら掌を石塀にこすりつけて歩き、血がにじみ出るシーンが忘れがたい。オリヴィエとのことは忘れようと努め、その後誰にも告げずに新天地で暮らし始めるジュリー。オリヴィエは行方知れずになった彼女を探し当て、パトリスの死で頓挫した欧州統合の協奏曲”自由、そして愛”を一緒に完成させようとする。この、自由、そして愛が感動の名曲。ギリシャ語でコリント人への手紙が合唱される。もちろんギリシャ語はわからないが、このコリント人への手紙は、今までに読んだ愛に関する文書の中で最も感動したもののうちの一つ。

たとえ私が天使たちの言葉を話しても 愛がなければ虚しい限り ただ鳴り響く鐘に過ぎない

たとえ私に予言する力があっても たとえ私が奥義に通じていても あらゆる知識に通じていても 山を動かすほどの信仰があっても 愛がなければ無に等しい 無に等しい

愛は寛容なり 愛は善意に満ちる 愛は決して妬むことなく 決して高ぶらない

愛は耐え忍び、全てを信じる 全てを望み ひたすら耐える 愛は決して滅びることがない

予言はいつしか終わりを告げる 言葉はいつしか沈黙する 知識もいつしか消滅するだろう

残り続けるのは信仰と希望と愛 この三つの中で最も尊いのは愛 最も尊いのは愛

曲を完成させ、ジュリーはオリヴィエの愛を受け入れる。この合唱が鳴り響くラストシーンでは涙が止まらなかった。一人の女性が絶望の淵から再生し、悲しみから解き放たれる姿に、トリコロールの青のテーマ・自由を重ねたところが心憎い。ブルーを基調とした映像も美しかった。自己を回復する過程で、夫の愛人を許し、財産を彼女とその子供に譲ろうとまで考えるジュリー。死んだ夫の残した曲を仕上げながら、彼女は夫を理解し、無限の愛情をもって彼を讃える。いわば崇高な精神を身に着けていく。ただ演じるジュリエット・ビノシュはそんな寛大で心の美しい女性には見えなかった。絶望の底で慟哭する演技は素晴らしいけれど、彼女の真骨頂はやはり無邪気な顔した悪女だと思う。夫・パトリスは二人の女を同時に愛した罪な男。しかしそれだけ心が豊かだったともいえるのか。彼が残した壮大な協奏曲の世界観は、愛はあらゆる既成概念を超え、それだけで価値があるものだと訴える。彼の言葉として引用される”人間は天使ではない。だから愛が必要なのだ。そして愛が生まれた時には力を尽くして育て、守らねばならない”は印象的。

 

 

ジャック・サマーズビー 愛に殉じた男

羊たちの沈黙で二度目のアカデミー主演女優賞を受賞し、乗りに乗っていたジョディ・フォスターの美しさが輝く。16世紀フランス、失踪した男になりすましてその男の家庭に入り込み、詐欺罪で訴えられ処刑されたマルタン・ゲール事件を下敷きに、舞台を南北戦争終結後のアメリカ南部に置いた映画。ご当地フランスではジェラール・ドパルデューとナタリー・バイ主演で映画化されている(たまたま聴いたミシェル・ポルタルによるテーマ音楽がドラマチックでよかった!セザール賞音楽賞を受賞している。)南北戦争に出征し、生死不明となっていた農園経営者のジャック・サマーズビー(リチャード・ギア)が6年ぶりに帰還する。死んだものと諦めていた妻のローレル(ジョデイ・フォスター)や周囲は困惑するが、以前は冷たい性格で嫌われ者だった彼が別人のように村人と協調し、ローレルに愛情を注ぎ、打ち解けていく。煙草を栽培して村を活性化しようと新機軸を打ち出したり、リーダーシップをとれるジャックをいつしか周囲は尊敬するようになる。しかし、ジャックのいない間にローレルと親しくなっていたオーリンは最初からジャックが偽物ではないかと疑っている。

子供も生まれ幸せな日々を送るジャックとローレル。しかし好事魔多し。ジャックは過去に喧嘩で人を殺した容疑で逮捕され、裁判にかけられる。ローレルには初めからジャックが偽物だとわかっていた。それが証明されれば(偽)ジャックの容疑は晴れる。法廷でローレルは、彼はジャック・サマーズビーではない、妻である私が一番よくわかる、なぜなら私は夫のジャック・サマーズビーをこんな風に愛したことはなかったからと切々と訴える。何者だかわからない愛する男を救いたい一心だ。このシーンのジョディ・フォスター忘れられない。知的でクールなイメージの彼女には珍しく平凡な主婦役でもさすがの演技。彼女の長いキャリアの中で、女性的な美しさが遺憾なく発揮されたという点ではこの作品が最高だったと思っている。しかし、(偽)ジャックはローレルに語る。南北戦争でジャック・サマーズビーと行動を共にし、多くのことを語り合った。その後ジャックは戦死する。それをきっかけに、今までの人生に嫌気がさしていた彼は、ジャックに成りすまして別の人生を生きてみようと思い立った。ジャックの情報はいやというほど頭に叩き込んでいる。幼い頃のエピソード、テネシー州の小さな村で農園を経営していたこと、妻と子供・・・意を決してジャックの語った村に行ってみると、美しい妻のローレルがいた。彼も最初からローレルに惹かれた。そんな彼の人生で、一番価値があったのはローレルを愛し、共に幸せな日々を送ったこと。だからその誇りを胸に、このままジャック・サマーズビーとして死にたいと。このリチャード・ギアも泣かせる。ジャックの罪は確定し、衆人環視の中、もちろんローレルも見守る中、絞首刑に処される。涙ぐんでしまった。

リチャード・ギアは若い頃のアメリカン・ジゴロの高級ジゴロ役もかっこよかったけれど、年を重ねて断然よくなった人。最近ではオランジーナのCMでアメリカ人寅さんを演じていい味出していたし (このCM、フランスの飲料の宣伝にアメリカ人俳優を起用して日本の国民的ヒーロー?を演じさせるって不思議なコンセプトだった。)数年前他界したやしきたかじんとその妻を小説化した”殉愛”という作品が物議を醸した話を聞いた時、真っ先にこの映画を思い出した。愛に殉じるとはまさにこの映画のリチャード・ギア。自分はジャック・サマーズビーではないと証明できれば、詐欺罪には問われても死刑は免れたはず。愛するローレルと子供のために生きることが真っ当だとは思うが、男の自負とは厄介なものでもあるのか。

火の接吻 ロミオとジュリエットの物語を運命のように引き受ける二人

この美しい邦題!観ずにはいられない。原題はLes amants de Verone、ヴェローナの恋人たち、ロミオとジュリエットの翻案である。20世紀末、フランスで恐るべき子供と称され、その才能を絶賛された映画監督・レオス・カラックスもこの映画に傾倒している。彼のアレックス三部作の最終作・ポンヌフの恋人の原題はLes amants du pont-neufと火の接吻の原題にそっくり。ポンヌフの恋人でのアレックスは口から火を噴く大道芸人だが、こちらの映画の主人公・アンジェロはムラノのガラス職人で、ガラスを吹く時に火が赤々と燃え上がる。そしてそのアンジェロに扮したセルジュ・レジアニをカラックスは汚れた血で起用している。汚れた血の最後、手負いのアレックスがそれを隠して愛しいアンナの許にたどり着くのはまさにアンジェロの最期と一緒。カラックスがオマージュを捧げたくなるのもよくわかる、魅力的な悲劇なのである。

カンヌ映画祭でグランプリに輝いたクロード・ルルーシュの”男と女”の印象が強いアヌーク・エーメ。冬のドーヴィルを舞台に、ムートンを上品に着こなす大人の女っぷりが素敵だった彼女、火の接吻ではその若き日の瑞々しい美貌を堪能できる。水の都・べニスの没落した名家の令嬢・ジョルジアが彼女の役。ロミオとジュリエットの映画を撮るために街を訪れたプロデューサーと女優が、撮影で使う年代ものの調度品を探してジョルジアの屋敷にやってくる。当主のエットーレは家名を誇り過去の栄華に執着し続け、その徒弟アメデオは戦傷により精神に異常を来しており、機関銃を撃つポーズを絶えず繰り返す。これがのちの悲劇の伏線となっている。エットーレの妻も家政婦もみな風変わり。変人ばかりの中でジョルジアだけが清純な美しさを放っている。一家はラファエレという男に経済的援助を受け、ラファエレはジョルジアの婚約者になっているが、ジョルジアは彼を嫌っている。ジョルジアは女優に職を紹介してくれと頼み、女優は撮影所に来るように言う。ちょうどロミオとジュリエットで一番有名なシーンと思しきバルコニーでの逢瀬を撮るところで、ジョルジアは女優のスタンドインの仕事を得る。ムラノのガラス職人・アンジェロは女優のファンで、彼女見たさに撮影所を訪れると、なぜかエキストラと間違えられて衣裳を着せられる。いざ撮影が始まると、ロミオを演じる役者が高所恐怖症で高い縄梯子を登れない。後ろ姿の撮影なので、急遽アンジェロが代役を務めることになり、縄梯子を登ってバルコニーにたどり着くと、そこにはジュリエットに扮したジョルジアがいて・・・二人は一目で恋に落ちる。運命に引き寄せられるように全くの偶然からロミオとジュリエットを演じた二人が、現実の恋人同士になってしまうなんて、なんてロマンチック!

監督のアンドレ・カイヤットの書下ろしのストーリーを枯れ葉で有名な詩人のジャック・プレヴェールが脚色した作品で、詩人の感性が随所に煌く名作である。カイヤットは社会派の作品で広く知られていたのが、こんなに甘美な映画も撮っていたのかと驚いた。ベニスでのロマンスというと当時はキャサリン・ヘップバーンの”旅情”が有名だった。それが火の接吻で恋する二人が薔薇の花で飾られたゴンドラに乗るシーンを見て以来、ベニスと言えば断然こちら!と思うようになった。映画では、撮影隊がロミオとジュリエットゆかりの地、ヴェローナを訪れることになり、二人も同行して夢のような日々を過ごす。しかしムラノのガラス職人に名家の令嬢はやれないということで、ジョルジアの家人は与太者に頼んでアンジェロを殺そうとするが失敗する。ジョルジアの父は自らアンジェロを手にかけようとし、アンジェロはそれを逃れながらも、気のふれたアメデオの乱射した銃に撃たれる。命からがら撮影所のジョルジアの許にたどり着いたアンジェロだが、ジョルジアの腕の中で息絶え、絶望したジョルジアは動脈を切って後を追う。まさにロミオとジュリエットを地で行ってしまった二人なのである。

上のゴンドラの二人幸せそう。激しい恋のさなかにいて、もうお互いしか見えない状態の二人。羨ましい。セルジュ・レジアニはやんちゃでコミカルな顔立ちながら、若い頃はそれなりにかっこいい。赤々と燃え盛る火をバックに仕事するガラス職人は頼もしく、レジアニの野卑な魅力が炸裂する。私がジョルジアだったらやはりこの人に恋してしまっただろうと思わせる演出はさすが。

モンパルナスの灯然り、ローラ然り、81/2然り、愛よもう一度然り・・・改めて思い出すと、私が観てきたアヌーク・エーメの主演作はそれこそ女ざかりの彼女の魅力がいっぱいだが、若き日の彼女と言えばこちらの他にもう一つ、フランスのダンディズムの極み、悪魔的嗜好と頽廃趣味で有名なバルベー・ドールヴィリー原作の真紅のカーテンを映画化した邦題”恋ざんげ”も忘れがたい。ナラタージュで進行するパントマイム劇で、エーメの美しさが物語の悪魔的な魅力によっていっそう輝く。一見の価値あり。それにしても火の接吻も恋ざんげも、ともに邦題が素敵だ。恋ざんげって、原作を読んだ身には唸らせるようなタイトル。何か出所があるのかと検索したら、伍代夏子の同名の歌が出てきた。歌のタイトルはおそらくこの映画からとったのだろう。そういえば宇野千代に色ざんげという小説があった。映画の公開は小説より後。宇野千代作品にインスパイアされたのだろうか。

ストリート・オブ・クロコダイル 不毛な袋小路の悪夢の人形劇

アメリカ出身の双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの監督作品。双子の共同作業というだけで興味を持った。特殊なシンパシィが通い、シンクロニシティを共有することも多いという双子。神秘的な絆で結ばれているのだろう。志同じくした双子の彼らによる作品が凡庸なものであるはずはない!との期待にたがわなかった悪夢のような映画・ストリート・オブ・クロコダイル。かなりエキセントリックな世界だが、その陰鬱ながら幻想的な頽廃美は唯一無二。

ストリート・オブ・クロコダイルの地図が大写しになる。物淋しい口笛が響き渡る。くたびれかけた初老の男が劇場に入っていくと、舞台の奥は博物館になっており、中は古色蒼然、古びたねじや拡大鏡、キネトスコープが雑然と置かれている。キネトスコープを覗くと、積もり積もった埃と錆に埋もれたストリート・オブ・クロコダイルの機械仕掛けの模型が見える。ドラマチックで哀切なヴァイオリンの音。長らく止まっていた模型に男がつばを垂らすと、模型は動き始める。男は、模型の中にいたやせこけたパペットの男をつなぐひもを鋏で切る。自由になったパペットはストリート・オブ・クロコダイルを彷徨い、ある仕立て屋に吸い寄せられていく。

薄汚れたガラスに映る埃、ねじ、ひも。可愛いアウグスティンのメロディが流れる。機械仕掛けの猿がシンバルを鳴らすとそれが合図のようにニット帽をかぶった子供の人形が地面に落ちたねじを拾う。迷宮のような仕立て屋の奥にはマネキン人形が並んでいる。さらに進むと、頭の上部と眼球がない人形がパペットを待っている。人形の合図で、同様のマネキン人形が一斉に動き出し、パペットをとらえて頭部を自分たちと同じマネキンに挿げ替え、中に綿を詰め込む。剥製状態。人形が作業台に敷いたポーランドの地図の上にマジックのように取り出したのは生々しい肝臓。それを紙で包み、きれいにピン打ちし、挿げ替えたパペットの頭部につなげる。再びおびただしい埃にまみれたねじとマネキン人形が映し出され、新しい肉体を得たパペットは仕立て屋を後にする・・・って不思議な話でしょう。全体を通して無彩色で暗澹たるムードが漂い、人形の頭を挿げ替えたり生の肝臓が登場するなど不気味なシーンの連続なのに、全く不快感を覚えないどころか、ブラザーズクエイの卓越した審美眼に圧倒される。錆びたねじ、埃で汚れた調度品が俄然魅力的に見えるのが凄い。冒頭のくたびれかけた男や古色蒼然とした博物館と同じく、ストリート・オブ・クロコダイルは過去の遺物。その模型が再現する世界を支配しているのは脳をくりぬかれた人形たちで、何の意志も感情もないまま、訪れる者におそらく同じ仕打ちを繰り返しているのだろう。全くつかみどころのない話なのでかえって好奇心をそそられ、原作を読んだ。

原作者は19世紀末ポーランドに生まれたブルーノ・シュルツ。小説だけでなく、絵画にも才能を発揮した。上は彼の自画像である。ストリート・オブ・クロコダイルは”肉桂色の店”に収録された短編で、工藤幸雄氏により大鰐通りの名で訳されている。これがまた、不思議な話なのである。ある町の美しい地図に空白として描かれている大鰐通り。そこは人間の屑が住み着く腐敗した場所で、地図の製作者はその界隈を町の一部として認めるのを憚ったために空白としているかのようだ。色彩のない、全てが灰色の大鰐通りにまともな人間は近づこうとはしないが、例えば自暴自棄になったり、安い誘惑に縋りたくなったりすると、人々はそこに吸い寄せられる。街娼がたむろし、列車の発着時刻も定められていない無秩序な町で、人々は束の間の快楽をむさぼろうとする。しかし欲望は満たされないまま大鰐通りを後にするのが常だ。

シュルツが愛した生まれ故郷・ドロホビチの不健全な一画を描いたこの小説にはプロットが全くない。何度読んでも何の話だったのかわからないほど難解で、私も随分戸惑った。小都市ドロホビチを侵食した資本主義経済への批判の書とも言われているが、私は、劣等な人間が住む劣悪な地域の風紀を独特の筆致で描いているところに魅力を感じる。また、順風満帆な時はそんな地域を馬鹿にしている人間も、魔がさせばたやすく入り込んでいけると、人間の弱さに言及しているところも忘れがたい。何もかもが冴えない大鰐通りなのに、自分の立場を忘れ放逸を尽くしたい人間にはパラダイスになってしまうのだ。魔界の陥穽。

原作に仕立て屋で服をあつらえるエピソードは登場するものの、マネキン人形たちによる肝臓移植の話は完全にブラザーズ・クエイのオリジナルである。シュルツは50歳でゲシュタポに殺されている。ポーランドの地図の上で肝臓を移植するイメージは、ナチスの洗脳・侵略を象徴しているのだろうか。登場するマネキン人形たちの風貌が、ナチスの将校と捕虜のユダヤ人女性との倒錯の愛を描いた”愛の嵐”に出てくる、パーティーシーンで扮装したナチスの将校に似ているのが印象的だ。映画の最後に、”安っぽい人間が素材となっているこの町では、どんな才能も花ひらくことなく、暗く、異常な情熱が刺激されることもない。大鰐通りは、私たちが現代と大都会の腐敗の言い訳として作った租界だった。その不幸は、そこでは何も成功せず、確かな結論にたどり着けないことであった。もちろんそこについて私たちは去年の古新聞から切り抜いた不自然なコピーや合成写真ぐらいしか提供することができない。”との原作からの引用が示される。そんな不毛な袋小路で、人形たちはまた誰かが模型につばを垂らすのを待っているのだろう。ちなみに、シュルツの小説はタイトルが何とも魅力的。この大鰐通りも然り、肉桂色の店、砂時計サナトリウム、マネキン人形論、などなど。読みたいのはやまやまだが、難解過ぎてなかなか挑戦できずにいる。

汚れた血 永遠に疾走する愛に憑かれた孤独な青年

もう30年も前、当時流行っていたミニシアターは満席で、立ち見したのを覚えている。若さゆえの体力。3本立てで3時間なんてシネママラソンやオールナイトも平気だったあの頃が懐かしい。若き鬼才、ゴダールの再来ともてはやされていたカラックスは、時代の閉塞感を打破しようとする若者を描き、若年層に熱狂的な歓迎を受けた。カラックスのブランド力は絶大で、カラックスを知っていると言うとちょっとした映画通のような印象を与えた。ドリカムの歌にもカラックスがどうのって歌詞があったっけ。配給会社がうまくプロモーションしたのだろう。時代の先端を行くカリスマ、完全主義の謎めいた監督といった売り方。難解で斬新な映像という触れ込みはまさに若者ターゲットの惹句だ。その作戦に乗せられた私もカラックスに憧れた。まず早熟の天才ぶりを示すエピソードの数々が眩しかった。16歳で高校を中退し、18歳で批評家として活動を始め、20歳で初めての監督作品を撮るとか、凡人には想像もつかない華々しさ。汚れた血はカラックスが自身を投影したアレックス三部作(カラックスの本名はアレックス・デュポン)の第二部で、第一部であるボーイミーツガールを撮ったのが23歳の時。そして汚れた血は26歳の時の作品である。

愛のないセックスによって感染するSTBO (フランス版エイズ?)が蔓延する世紀末のパリ。今思えばこの設定だけで笑ってしまうが若者はノックダウンされた(少なくとも私は)。ハレー彗星の接近で異常な暑さの夏。(実際は厳寒の中撮影が行われたそうだ。)街頭でのトランプ賭博で日銭を稼ぐいわば与太者のアレックス(ド二・ラヴァン)は孤独な青年。手先がマジシャンの如く器用で、腹話術もものす。このドニ・ラヴァン、不気味で不吉な雰囲気を醸し出す強烈な個性の持ち主。カラックスはよくあんな顔の俳優を主役に選んだものだと思う。野卑な魅力漂うと言えば聞こえはいいものの美形にはほど遠いセルジュ・レジアニも好きみたいだし、アレックスと後述のマルクがけんかの末ガラスに顔を押し付け合い、その醜くゆがんだ顔を映し出すシーンもあったりで、カラックスはいわば変顔趣味?アレックスは子供のころから異常に無口な子で、親は皮肉をこめてお喋り(langue pendue:フランス語で宙吊りの舌。おしゃべりは常に舌を動かしているから)と呼ぶ。私はこれでlangue pendueというフランス語を覚えた。彼にはリーズ(ジュリー・デルピー)という美しい恋人がいる。森で裸でくつろいだり、バイクで疾走したりするアレックスとリーズ、煙草の吸い方までそっくりな微笑ましさ。しかしアレックスは満たされず、何とかして生活を立て直したいと思っている。バブルが崩壊した日本でこのアレックスの姿に共感する人は多かったのではないか。

アレックスの父親もよからぬ人物で多額の借金を残して死に、それが友人のマルク(ミシェル・ピコリ)の肩にのしかかる。マルクはSTBOの血清を盗んで密売し、窮地をしのごうと画策する。その相棒としてアレックスに白羽の矢が立つ。生活の基盤を築きたかったアレックスはリーズに別れを告げ、金欲しさに犯罪に加担する。その過程でマルクの年若い恋人・アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に惹かれ・・・30年前はこの物語に痺れた。でも今となっては愛のないセックスで感染するSTBOって設定が青すぎる。例えば一世風靡したリングもホラーの伏線の張り方は見事だが、呪いで人は殺せない。出発点そのものが突っ込みどころ満載だと観る方は萎える。とはいえ汚れた血は、こうして書き残したいと思わせる魅力に満ちた作品である。ジャン=イヴ・エスコフィエが彫琢を重ねた職人技を発揮して撮影した夜のパリの景色を始め、カラックスの美学を反映したシーンの数々とともに、珠玉のようなセリフが散りばめられているのも忘れがたい。

リーズがアレックスに贈った絵に添えられてあった、娘が脚を開くとそこから秘密の蝶が飛び立つという謎めいたセリフ。泣き虫のアンナは自分を涙が止まらない血友病みたいと例える。アレックスが見た夢の中でアンナが語る、私の目に二つの黄色い月が見えたらオルガスムなの。また、公開時のキャッチコピー”愛は疾走する”はキーワードであり、アレックスがアンナに尋ねる、永遠に疾走する愛を信じるか?のセリフも決まっていた。ボウイのモダン・ラヴに乗って、アレックスが走って走って走りまくるシーン、アンナへの迸り出る恋心が切なくも力強く描かれていた。汚れた血といえばあのシーンが圧巻だろう。ワクチンを盗み出すことに成功しながら、裏切り者の密告により追手に撃たれたアレックス。もう一度人生を生きたいと強く願うアレックスが息絶えるラストシーンでは涙が出た。強がってはいても天涯孤独の身だったアレックスの淋しさははかり知れない。ともに生きる人との幸せを求めたのに叶えられなかった彼の悲痛な姿が胸を打つ。息絶えたアレックスを見て感極まったアンナが走り出し、それを追ってマルクも走り出す。疾走がやはりキーワード。青春の只中にいる者の不安、孤独、夢といった混沌とした内面描写に共感する。プロコフィエフやベンジャミン・ブリテンの音楽も効果的に使われていた。

カラックスは当時恋人同士でもあったジュリエット・ビノシュを神秘の麗人といった筆致で描いている。暑さに耐えきれず上目遣いで髪を吹き上げるビノシュ、日本でもカラックスの意図通りに紹介されていた。二人の男を翻弄する謎の女ーでも私にはいかにも田舎のお姉さんに見えた。無邪気な顔して田舎者の図々しさを発揮する悪女って感じ。昔誰かが彼女をフランスの大竹しのぶと呼んでバッシングを受けたそうだが、私には的を得た指摘だと思われる。その悪女ぶりは以後、存在の耐えられない軽さやダメージなどで遺憾なく発揮され、イングリッシュペイシェントではアカデミー助演女優賞も受賞、堂々の演技派女優である。キェシロフスキのトリコロール・青の愛でも交通事故で夫と娘を失った女性の悲しみの表現が見事だった。個人的には確信犯的ぶりっ子ぶりが鼻について好きになれないが。それにこの人ー笑うとよくない。ただ、アレックス三部作の最終作、完成するまでもめにもめたポンヌフの恋人で、汚れ切ったホームレスの女性を演じ、美しかったのには驚いた。ビノシュの演技力とカラックスマジックのなせる技だろう。全てを失った、社会の敗残者同士の間に生まれた愛を通して、飾りをはぎ取った、人間の本質的な美しさに迫ろうとしたカラックスは只者ではない。

バイクに乗った天使・リーズを演じるジュリー・デルピー。広い額に離れた目、金髪の彼女、美人ではないところが魅力的。キェシロフスキの”トリコロール・白の愛”の盲目的に愛される妻役でも天使のような愛らしさだった。ご本人はカラックスとの仕事を楽しまなかったようで、バイクに乗った天使、妖精のイメージにこだわったカラックスから絶対太るなと言われ、毎日体重計に乗ったとあるインタビューで不満気に語っていた。ポンヌフの恋人のことも、甘やかされた映画と痛烈に批判していた。時は過ぎ、40近い彼女を久しぶりに見たらなんだか怖いような大女になっていて、リーズのイメージが全くなかったのはショックだった。

本を読みすぎて早熟になったアレックスは、すぐに年老いると友人に言われているーその言葉通り、実際のカラックスが一気に年老いてしまったのか、アレックス三部作を撮り終えると長い長い沈黙の時代に突入する。ポンヌフの恋人が最後の作品と本人も公言してはいたが。その後話題になったのは1999年のポーラX。未見なのが残念なので機会があったら観てみたい。カラックスはもともと大の映画好きで、映画評論家としての活動歴も長いので、映画に関する知識は驚くほど豊富である。バイクや鏡といった小道具、運命の女が街頭を歩く姿を追うシーンはコクトー作品からの引用だろうし、瀕死のアレックスがアンナに会おうとやっとの思いでアジトにたどり着くシーンはアンドレ・カイヤット”火の接吻”のラストを思わせる(カラックスはこの作品に相当思い入れがあるようだ。火の接吻の原題は”Les amants de Verone”で、ポンヌフの恋人の原題は”Les amants du pont-neuf”とよく似ている。口から火を噴く大道芸人アレックスの造形にも火の接吻の影響がみられる。火の接吻の主人公はムラノのガラス職人で、彼がガラスを吹くときに火が赤々と燃え上がるシーンは、そのままアレックスにより再現されている。おまけにその主人公を演じているのがセルジュ・レジアニなのだ!)オールドシネマファンにはこういったディテールを楽しめるのもカラックス作品の魅力である。

最近デジタルリマスター版を見返して、アレックスの晴れ着なのか、黄色い地にトランプのダイヤのような黒いマークがついたジャケットと、彼がいつも履いているカンフーシューズみたいなフラットな靴が心に残った。喫煙のシーンが多いのも時代を感じさせる。誰もがひっきりなしに煙草を喫っており、くわえ煙草がまたサマになっている。近未来を設定しているが、まさか近い将来喫煙がこれほど糾弾されることになろうとは思いも寄らなかったのだろう。それに今見ると・・・若き日のカラックス(覗き屋役で一瞬出演している)ってインパルスの板倉に似ている。これは新しい発見だった。

死への逃避行 イザベル・アジャーニ七変化とヨーロッパの名所巡りの陰で

かつては鷹の目と呼ばれ敏腕を誇った初老の探偵(ミシェル・セロー)。一人娘のマリーを亡くし、その悲しみから立ち直れないでいる。マリーがごく幼い頃に妻と別れた探偵には、成長したマリーの顔がわからない。毎年マリーの誕生日、別れた妻に電話し、大切に持っているマリーの小学校の集合写真からどれがマリーか当てようとする。一回で当てることが妻の条件。今年も外れ。妻はまた一年後ね、と言う。今はマダム・ブーランジェ(ジュヌヴィエーヴ・パージュ。昼顔で娼館のマダムを演じていた)が経営する探偵事務所に籍を置く鷹の目に、ベルギーの富豪から息子・ポールの身辺調査の依頼が入る。ポールの新しいガールフレンドについて調べてくれと。銀行で大金をおろしてデートに向かうポールを追い、二人が待ち合わせする遊園地に辿り着く鷹の目。メリーゴーラウンドの前で偶然出会った男の子に遊びでポラロイド写真を撮らせる。その写真に写っていたのは見知らぬ美女で・・・鷹の目にぶつかり、pardon! これが鷹の目とアジャーニ扮する美貌の殺人鬼との出会い。遊園地に響く無邪気な音楽をバックに物語の始まり始まり~という感じで魅力的な幕開けだ。

リュシー(アジャーニ)は恋人を見つけると大きな旅行鞄を投げ出して抱きつく。幸せそのもののカップル。鷹の目は湖畔のホテルに投宿した二人を見届けると車に忍び込み、女が残した所持品から身元を確認する。リュシー・ブレンタノ、学生、特記事項なしとある。二人の部屋の明かりが消えるのを待って鷹の目も眠りに落ちる。夜が明け、静かな湖を見やると、リュシーらしき女が一人でボートを漕いでいる。望遠鏡で覗くと、リュシーは人体のようなものを湖に投げ捨てる。愕然とした鷹の目が二人の部屋に急ぐと、そこは血の海。あっけにとられる鷹の目。ポールの金を奪い、涼しい顔で車でパリに向かうリュシー。ハムレットの講義が催される大学に入っていったかと思うと、全く違う出で立ちで現れる。常宿に奪った金を預けるリュシー。ホテルの常連に尋ねると、モデルのイヴ・グランジェだという。女子大生リュシーは長い黒髪にカチューシャをつけた清楚な女の子だったが、イヴ・グランジェはファッショナブルなパンツスーツに身を包んだハスキーボイスの女性。鷹の目は混乱しながらも、南仏へ行くという彼女を追って空港に急ぐ。空港で悠然と梨を食べ、星占いを読むイヴ。イヴは山羊座のようだ。

しかし搭乗ゲートに現れたのはショートカットに日焼けした肌もセクシーなドロテ・オルティス、モンテカルロで婚約のお披露目パーティを開くのだった。大勢の参加者に祝福された盛大な婚約パーティ。婚約者・ミシェルに甘えるミニスカートのアジャーニ可愛かった。ところがパーティのあと鷹の目が二人の部屋を覗くと、血だらけのミシェルの死体が。ドロテに死んだ娘・マリーの面影を見る鷹の目は、あろうことかミシェルの死体を海に投げ込んで彼女を庇おうとする。ホテルの部屋で胸をはだけ、またも梨を食べくつろぐドロテ。

一旦モデルのイヴ・グランジェの姿でパリに戻るが、何者かの脅迫を受け、身の危険を感じた彼女は今度はバーデンバーデンを目指す。ウェーヴのかかった長い髪をなびかせ、黒い水着姿で温泉保養地を闊歩するのはアリアーヌ。レズビアンのコーラに誘われ、官能の夜を過ごす。コーラはアジア系で、黒髪の二人の裸のシーンは妙になまめかしかった。二人でバーデンバーデンを発つ夜、コーラは自分のネックレスがないことに気づき、プールまで探しに行く。おりしも激しい雷雨。稲光が閃くプールで彼女の後ろに立つアリアーヌの首には、コーラがなくしたネックレスが光っていた。有無を言わせずコーラの顔を切り付け、最後は首を切ってプールに沈めるアリアーヌ。物凄い早業だ。最初から彼女に目をつけていた男が自分の車に誘い、ブリュッセルに向けて出発する。追いかける鷹の目の不安は的中、案の定途中で男は殺されていた。

カフェで優雅にハムレットを読むブロンドの女、シャルロット・ヴァンサン。彼女=一連の殺人鬼の愛読書はハムレットである。傍に座る盲目の男ラルフ(サミー・フレィ)。どうやら富豪であるらしい彼と意気投合し、共に列車でローマに向かう。インテリのラルフとはハムレットや、彼女が大好きなラ・パロマの話も楽しめる。このブロンドのアジャーニが一番意外だった。モンロー、バルドードヌーヴ・・・ブロンドで売った女優はほとんどが地毛ではない。演技派のアジャーニは最初からそんなセックスアピールは必要ないとばかりに髪の色は変えなかった。ブロンドのアジャーニ、新鮮。

ローマでは黒髪のシャルロット、やっと運命の相手とめぐり逢い、彼との結婚を選ぶ。ラルフの豪勢な暮しぶりは彼女が求めていたものだった。アーチストと称し、ラルフのサポートで個展を開くシャルロット。そこに彼女の正体を知る謎の男女二人組が迫ってくるのが不気味だ。この”灰色の女”に思いっきり汚いメイクで扮しているのがステファーヌ・オードラン。ゴージャスな役が多かった往年の彼女を知る身には驚きだった。鷹の目は、娘のマリーと重なるシャルロットをあっさり奪おうとするラルフが許せない。鷹の目にすればラルフは気障な盲人だ。憎しみのあまり公道でラルフを突き飛ばすと、ラルフは車にひかれて死んでしまう。鷹の目は満足するが、幸せを夢見たシャルロットの絶望たるやいかに。

季節は冬。星占いでは山羊座の運は傾きかけている。国境を越え、車でビアリッツを目指すシャルロット。ヒッチハイクで乗せた女・ベティに刃物で脅されると、隠し持っていた拳銃で逆にやりこめる抜け目なさ。そんなシャルロットに魅せられたベティは子分にしてくれと言う。ベティは幼い頃、母親に騙されて連れていかれた部屋で、裸で遊ぶ姿を男たちに覗かれていた暗い過去がある。シャルロットの本名はカトリーヌ・レリス。こちらも貧しく不幸な生い立ちだ。幼い日、クリスマスに父に連れられていったデパート、明るく華やぐショーウィンドウも眩しく、ラ・パロマがかかっていた。憧れの世界。父はそこで盗みを働いて逮捕される。何も食べるもののない彼女に、近所の人が梨をくれた。ベティの哀しい打ち明け話を聞いて自分の過去を思い出したのか、一人夜の海辺に立ち絶叫してかつらを脱ぎ捨てるアジャーニ、迫力の演技。二人は遊び半分のように強盗を繰り返す。鷹の目はマリー、もうやめなさいと言いながら二人を追う。

ビアリッツで悪事を繰り返したカトリーヌが、もう面が割れてるから無理だとベティに話すと、ベティはお面を二つ取り出す。それを見たときのアジャーニの表情、何とも言えずよかった。微苦笑をもらすような。二人でおそろいの服を着、同じお面をかぶって歌を歌いながら海辺をドライブするシーン、可愛い。しかし、押し入った銀行に警官が突入し、一人は射殺される。鷹の目はお面をつけた遺体に恐る恐る近づく・・・お面をとると、それはベティだった。悪運尽きたのか、カトリーヌは生まれ故郷の田舎町に帰る。金も尽き、近所のダイナーで働くカトリーヌに、鷹の目は接触しようと試みる。カトリーヌを助けようと金まで工面して・・・リュシー、イヴ、ドロテ、アリアーヌ、シャルロットと万華鏡のような魅力を振りまいた輝きはなく、平凡なウエイトレスの顔になっているアジャーニがまた凄い。案の定カトリーヌは鷹の目を殺して金を奪おうとする。そこへカトリーヌを追う警察が現れて、彼女は万事休す。車で非常線を突破して立体駐車場まで逃げた後、そこから落下して死を選ぶ。時が経ち、やがて鷹の目も死へと旅立っていく。

アジャーニはエキセントリックな役でこそ本領発揮する女優だ。彼女をスターダムに押し上げたアデルの恋の物語を始め、ポゼッション、殺意の夏、個人的にはアジャーニの真骨頂と思えるカミーユ・クローデルなどなど、狂気に囚われていく女を演じて輝く。平凡な女の役をやると思いっきり拍子抜けするので驚く。この映画を初めて観たときは、転々とする観光地に合わせるようなアジャーニ七変化に圧倒されるばかりだった。年を重ねて観返し、今度は娘を亡くした鷹の目に感情移入した。子供に先立たれるのは人間にとって一番つらいことなのではないかと思う。荒唐無稽にも見える物語も、亡き娘の面影を追う鷹の目の演技で受け入れられてしまう。殺人鬼=アジャーニは、出会う男ごとに違う父親像を語っていた。彼女は彼女で、犯罪者となった父の面影を追っていたのだろう。アジャーニと観光地の華やかさの陰に、娘を、父を求めるさまよえる孤独な心の軌跡が描かれていて味わい深い。カトリーヌの思い出の曲、ラ・パロマが全編を通じて流れていたのも心に残る。ラ・パロマ、梨、ハムレット、のキーアイテムがおしゃれ。

五社英雄が描く極彩色の苦界 吉原炎上

明治40年の東京・吉原。誰も教えてくれない歴史。昔、川崎競馬場に行った帰り、ショートカットの歓楽街を通ってJR川崎駅まで歩いたことがある。女だとまず足を踏み入れる機会のないエリア、怖いもの見たさである。おりしも極寒の季節、毛皮のコートを着ていた私はそこで働く者と勘違いされたのか、好奇の視線を感じながら社会科見学気分で歩いた。あるショーウィンドウの中に女性が数名座っていたのに驚いたーこの映画を観てまさに昔の吉原のシステムだったことを知った。

吉原で働く女郎は、貧しい出自か、親の借金のカタに売られてきた女の子ばかり。でもここにいれば三度の食事にありつけると健気だ。冒頭の岸田今日子によるナレーションが印象的。吉原への道は二つあったといえましょう。男が通る極楽への道。女が通る地獄への道。名取裕子演じる主人公・ひさのも親の借金のカタに売られた身。先輩の花魁や女将から花魁道の手ほどきを受ける。殺し文句が大事。床上手で泣きのうまい子がお得意さんを作る。とにかくリピーターになってもらうこと。今のマーケティングと同じだ。美人はそれだけで傲慢だからダメ。なるほど。ふのりを局部に塗り、辛い行為に耐える女郎たち。ふのりとは、昔障子を張り替えるのに使ったのりだと聞いたことがあるが、そんな用途もあったのだ。今の世も代替物こそあれ同じか。ひさのは一生懸命学び、お披露目に臨む。客はガラス越しに女郎たちを値踏みする。川崎の歓楽街の光景がよみがえる。しかしいざ客を取る段になると激しい嫌悪を示し、脱走するひさの。その道中で根津甚八演じる救世軍に身を投じた財閥の御曹司・古島と偶然出会う。古島はひさのを救おうとして果たせず、しかしお互い忘れ得ぬ存在となる。昨年亡くなった根津甚八、味のある演技だった。

連れ戻され、折檻を受けたひさのに女郎の心得を教える先輩花魁・九重(二宮さよ子)。このレズビアンシーン官能的で迫力満点、生々しすぎて怖いくらい。二宮さよ子の色っぽさは格が違う。人気女優二人がこんなシーンを演じているのにちょっとびっくり。続いて藤真利子、西川峰子、かたせ梨乃演じる花魁&女郎のエピソードが綴られる。藤真利子演じる花魁・吉里は、本気で愛した男に去られて絶望して自殺する。西川峰子・小花は、没落した名家の出と吹聴しているがすべては嘘。最後結核で果てる姿がものすごい。かたせ梨乃・菊川は要領が悪いと下級の置屋に追いやられてもたくましく生き、結婚して幸せをつかむ。と思いきや旦那はとんだ食わせもので、最下層の女郎屋に身を落とす。最後、最高級の御職に上り詰め、紫太夫と名乗るひさのが唯一愛したのは古島だった。登楼しても決してひさのと床を共にすることはなかった古島。商品としてのひさのを買いたくはなかったのだろう。二人の気持ちは一つだった。しかしひさのは身請けしたいと古島が出した金を花魁道中に使いたいと言う。そして豪華な花魁道中が実現する。花魁道中と言う言葉、寡聞にして知らなかった。花魁がお供を連れて店屋まで練り歩く、いわばファッションショーのようなものだったらしい。黒塗りの高下駄を履いて外八文字と呼ばれる独特の歩き方を披露する。よくあんな歩き方を考え出したものだー当時のモンローウォークだろうか。

古島への思いは捨てきれないが、一度袖にした相手に縋るのは筋ではないと菊川に諭され、身請けしようといった別の男との結婚を決めるひさの。吉原を去るその日に吉原は大火に見舞われ・・・というラスト。重くて熱い2時間だった。五社英雄監督が描く極彩色の吉原絵巻。五社作品は、夏目雅子のなめたらいかんぜよで有名な鬼龍院花子の生涯にせよ、高知の遊郭を描いた陽暉楼にせよ、どろどろした重いトーンが特徴的だ。登場人物はみな暗澹たる人生の中でもがいている。その宿命的な暗がりに一瞬、生の歓び、艶が閃く。小花の壮絶な断末魔のシーンを含め、出血シーンが多いのは吉原と言う苦界に生きた女人の業を物語っているのだろうか。映画を観ていて、俳優から最高の演技を引き出す名手だったヴィスコンティを思い出した。五社監督もそうだったのでは。特に女優陣は演技指導の賜物と思わせるいい演技をしていた。花魁は遊郭の大黒柱。そこに携わるすべての人間の糧となる存在で高位の称号だからか、みな名前でなくおいらん、おいらんと呼んでいたのが印象的だった。花魁・・・美しい漢字だ。

エゴン・シーレ 妄執に憑かれた淫らなエピキュリアン

没後100周年を迎えようとしているエゴン・シーレ。それにちなんで撮影されたのか?今年公開された”エゴン・シーレ 死と乙女”を観た。モデル出身の白皙の美男子・ノア・サーベトラがシーレ役。35年ぐらい前にもシーレの映画は制作されており、その副題は愛欲と陶酔の日々(この邦題もすごい(+o+) 別れの朝で女性たちを虜にしたドイツの美青年・マチュー・カリエールがシーレを演じていた。実際のシーレの写真を見ると美青年というよりちょっとコミカルな風貌でひょうきん者というか、ルパン三世とか竹中直人を連想させる。しかし彼を演じる俳優が二人とも抜けて美青年なのが解せない。それも縦長で繊細な王子様系。マチュー・カリエール版は、マチュー=シーレの他に、愛人ヴァリ役のジェーン・バーキン目当てで観に行った。これが19世紀末の頽廃ムード色濃い耽美的な作品で、10代の自分には刺激的で痺れた。もともとクリムトのモデルだったヴァリが強烈なファムファタルとして描かれ、コスチュームもヌードも過激でスキャンダラス。クリムトやシーレの絵画の世界観を彷彿とさせる。

シーレはクリムトから譲り受ける形でヴァリと暮らし始め、ヴァリはシーレのためにポーズをとるようになる。バーキン=ヴァリはシーレにぞっこんで、とにかく尽くす。カリエール=シーレがあまりに格好よく、また女心をくすぐる甘えん坊なので観る方も納得。幼女を性的虐待したかどで逮捕されたシーレの独房に、ヴァリが窓からオレンジを投げ入れ、闇の中にオレンジだけが明るく浮かび上がる絵画的なシーンが特に印象深いが、全体を通して映像がきれい。陰に日向にシーレを支えたヴァリなのに、シーレは中産階級の娘・エディート(クリスチーネ・カウフマン)と出会って恋に落ち、ヴァリを捨てて結婚してしまう。捨てられるヴァリが痛ましい。バーキンの悲しみの表現、胸に迫る。”誰も愛したことありません。私はただのモデルです”と書き捨てて去っていくヴァリ。シーレは薄情で残酷な男。でもマチュー・カリエールの容姿だと許したい気もする。

エディート役のクリスチーネ・カウフマンは、清楚で可憐な美少女ぶりが人気で活躍を期待されていた矢先に、共演した20歳も年上のトニー・カーチスと18歳にして結婚、多くの男性ファンを落胆させたという伝説の女優。まさかこの映画に出演しているとは思わなかった。10代の美少女時代とは随分イメージが違うーとはいえ成熟した30代の彼女もやはり美しかった。その後バグダッド・カフェでも再会できたのはうれしい限り。映画では、エディートはシーレの子を身ごもるが、妊娠中にスペイン風邪で死亡。シーレも彼女の後を追うように死亡。第一次大戦に看護師として従軍したヴァリは梅毒で死亡。みな若くして命を落としてしまう。カリエール=シーレは知的で上品過ぎてシーレの持つ野卑な魅力は感じられないものの、美男美女に加え美しい映像、衝撃的な絵を堪能できたので個人的にはすごく好きな映画。

副題”死と乙女”版はシーレの人生を少年時代から忠実に再現している。実の妹を裸にして絵を描いたり、変態的な性癖は早くから萌していたようだ。上の写真がサーベトラ=シーレ。美しすぎる。モデル出身だけあり容姿端麗、眉目秀麗だけど、残念ながら演技力が乏しい。自分の芸術を模索するシーレの苦悩が全然伝わって来なかったーただ、シーレが苦悩していたのかは不明。倒錯のエロスにどっぷり浸かりきっていたのかも知れないし。あっさりヴァリを捨てる酷薄さ、結婚してもヴァリとは関係を続けたいと望む無責任さから結構能天気だったのではとも思う。ヴァリを演じた女優は、バーキンとは打って変わって地味~な人。若き日のロミー・シュナイダーとシャーロット・ランプリングの面影があり、その二人を思いっきり野暮ったくした感じで、出稼ぎ労働でモデルをやっている女といった描かれ方か。ファムファタルを期待すると裏切られる。20世紀初頭のオーストリアの現実に照らすとこちらの方がリアルなのだろうか。でもシーレの作品として残っているヴァリは思いっきりドラマチックなのでどちらが本物に近いのだろう。

先輩のクリムトと並び称されるシーレ。二人の作品は共に頽廃の香りに満ち、死への誘惑が漂うが、甘美で妖艶、絢爛豪華で官能的なクリムトの絵が観る者を陶然とさせるなら、シーレの絵は陰惨でグロテスク、観る者を慄然とさせる。クリムトの絵に見られた華やぎはシーレの絵では姿を消し、負のオーラに取って代わる。年長のクリムトが世紀末の頽廃文化の陰と陽を描いたとすれば、遅れてきたシーレはその陰の遺産を偏愛していたように見える。シーレには自画像が多いのも特徴で、ほとんどみな上目遣いの自分を描いている。かなりのナルシシストぶり。ショッキングな人体画だけではなく、実際は多くの風景画も残しており、それらも色調は概して暗く、陰鬱な雰囲気。猥褻な裸体画ばかり描いているようでは社会に受容されないものの、そうせずにはいられなかったシーレは自身の業を感じていただろうか。陰気にならざるを得ないのもわかる。二作品とも早世の天才としてシーレをかなり美化しているが、彼の本質的な魅力は映画で描かれた姿とは離れたところにあるのではないかと思う。自分の妄執の世界で悦に入ったエピキュリアンというか・・・この表情からしてやはりなんだかお茶目で少し軽薄なお兄さん像を汲み取ってしまうのは私だけだろうか。

ノクターナル・アニマルズ 突き刺さった棘の痛みが無限に拡大していく恐怖

こ、こわい・・・ただならぬ雰囲気のポスターながら、トム・フォードの監督作品ということでおしゃれなサスペンスなのかな~ぐらいの気持ちで観に行ったらこれはもうホラーではありませんか。緊張しっ放しで身動きもできない2時間だった。主人公のスーザン(エイミー・アダムズ)はアートギャラリーを経営している設定で、冒頭から異様なアートシーンで幕を開ける。あ~トム・フォードだな、となぜかその瞬間に納得してしまったのだが。デブ専御用達のような特大肥満のおばさまたちが肉塊をぶるぶる揺らして全裸で踊る姿がモニターに映し出され(一つのモニターに一人の映像)、それぞれのモニターの前に置かれたガラス台の上にはご本人が全裸で死体のように寝そべっている。現代の前衛アート展覧会なのか。後のトラウマ化が目に見えるような怖ろしき映像の嵐。トム・フォードワールドの手荒い洗礼を受け、早くも降参ムード。

いや~な予感が漲る中、スーザンに20年前別れた前夫・エドワード(ジェィク・ギレンホール)から小包が送られてくる。その封を切ろうとして指を切ってしまうのが不吉。中身は分厚い小説で、題はノクターナル・アニマルズ、夜の獣たち。For Susanと彼女に捧げられている。もともとエドワードは作家志望で、二人が惹かれあったのもお互いアーチスト志望でシンパシィを感じたからだった。スーザンはその後、自分には表現する力はないと諦め、なかなか芽が出ないエドワードの才能にもむごい形で見切りをつけていた。送られてきた小説には、昔の作風とは違う、とエドワード自身のメッセージが添えられていた通り、彼女が知っている彼の作品とは違い、冒頭から読む者の心を鷲摑みにするような迫力に満ち・・・読み進むうちに彼女はエドワードが非凡な才能を開花させたことに気づきのめり込んでいく。映画という架空の世界の中で、小説という架空の世界が映像化されていく。思い起こせば、メリル・ストリープが印象的なフランス軍中尉の女は、映画の中で映画撮影が展開される話。マギー・チャンがベルリン国際映画祭で最優秀主演女優賞を受賞した香港映画・ロアン・リンユイも、ロアン・リンユイの人生を描きながら、登場人物を演じる俳優たちが彼女について語るという構成。もっと時代を遡れば、小説ではアンドレ・ジッドの贋金つくり。主人公が贋金つくりという小説を書く話だった・・・昔からこういう手法はあるのだろうが、入れ子細工のような凝った作りは魅力的だ。

エドワードが新境地を開いたその小説が、暴力的な内容で怖い。13日の金曜日とかペットセメタリ―とかのファンタジー系の怖さではなく、棘が突き刺さり、痛みがどんどん拡大していくような感覚の怖さ。偶然出くわしたならず者たちに幸せな家族が壊されていく。目を覆いたくなるようなシーンの連続で、途中で数人席を立つのが見えた。私も逃げたくなった。贅沢な家に住み、仕事では成功を収め、表面上は満たされているようにみえるスーザンだが、心には空洞を抱えており、実際いまの夫は破産寸前の上浮気をしている。彼女の実生活と小説中の無残に壊れていく家族が重なる。映画のフライヤーに、エドワードが彼女に小説を送ったのは愛からなのか、復讐なのかといったコピーがあった。小説は、妻子を凌辱の末殺された男が地元の刑事の力を借りて暴漢を殺害し、まさに復讐を遂げて息絶える幕切れとなっている。

かつて、二人の関係がうまくいかなくなった時、スーザンはすぐにそこから逃げようとした。そんな彼女を、誰かを愛した以上はそれなりに努力する必要がある、投げやりになってはいけないと諭したエドワードは、誠実で建設的で、復讐などという不毛な行為に執着する男性には見えなかった。また、スーザンになぜ書くの?と問われ、死にゆくものたちに命を与えたいから、消え去る運命にあるものを永遠に残したいからと答える彼からは、書くことに対する真摯で力強い姿勢が感じられ、不遇の日々を乗り越えてものした傑作が復讐のための産物とは思えない。

しかし、再会を約束したスーザンとの待ち合わせ場所にエドワードは現れない。やはり小説は復讐だったのか。エドワードは、不眠に悩まされるスーザンをかつてノクターナル・アニマルと呼んだ。小説のタイトルはまさにそれだ。ノクターナル・アニマルズによって幸せを奪われた男が復讐を遂げる物語。エドワードが彼女から受けた傷は途轍もなく深かったのだろう。彼女を愛するあまりに傷ついた自分を、小説を書くことによって殺したかったのだろうか。この小説は彼の再生への道だったのだろうか。暴力シーンも多いので後味が悪く、無条件でおすすめはできないが、色々な意味で心に残る一編となってしまった。オープニングの悪趣味な(と私には思われた)展覧会の後のパーティシーンで、トム・フォード自身のような?ゲイの男性が出てくるのもなぜか忘れがたい。パーティに集う人々は個性的で煌びやかなファッションに身を包んでおり(みな胡散臭くて下品な冗談を飛ばして喜んでいる)、エンドクレジットでは錚々たるデザイナーたちの名前が。さすがトム・フォード。そしてファッションデザイナーとしてだけではなく、映画監督としても並々ならぬ才能を発揮する変幻自在の表現者・トム・フォードがこれからどこへ向かうのか目が離せない。

ストリート・オブ・ファイヤー 愛し合いながら断腸の思いで別れる二人 ロックンロールファンタジー

映画のカテゴリーに入れたが、テーマソングの”Tonight is what it means to be young”が好きなのである。ストリートギャングに拉致された人気ロックシンガー・エレン・エイム(ダイアン・レイン)をかつての恋人・トム(マイケル・パレ)が奪還する物語。ストリートギャング・ボンバーズの首領に悪役の権化といった容貌の若き日のウィレム・デフォーが扮している。今見ると青い感じがするものの、当時から十分怖い顔をしていたデフォー、この役では卑しさもにじませる演技で真骨頂を発揮している。

♪サンセットキッス♪の歌が印象的なリトル・ロマンスのヒットで日本でも人気だったダイアン・レイン。アメリカ人の少女とフランス人の少年がパリで出会い、ベニスに行く。恋愛のエッセンスが結晶していく過程を鮮やかに描いた映画で、ジョージ・ロイ・ヒルの演出が光る。映画の重要なモチーフとなるベニスの溜め息の橋には、日が沈む時、恋人同士がゴンドラに乗ってその橋の下でキスすると永遠の愛が約束されるという伝説がある。二人が永遠の愛を誓おうとそこに向かうシーンの詩情あふれる美しさは見事だ。そのリトル・ロマンスの頃は少女だったレインが十代の後半に差し掛かり、セクシーな美しさを披露している。豊かな胸に長い脚、びっくりするほどスタイルがいい。トムを演じたマイケル・パレは当時は無名だったそうだが、王道のヒーロー役にぴったりでかっこよかった。

内容は西部劇の現代版のようでどうってことないー何と言ってもラストのライヴシーンが圧巻で、レインの歌は吹替ながら痺れるパフォーマンスを見せてくれる。海辺や森で美しい天使を見たけれど、都会には天使はいない。でも天使がいなくても男の子ならいる。男の子は天使の次にいいものかもしれない、という詩が好き。祝祭を始めよう、炎を燃やして。安らげない、傷ついた人たちのために踊ろう。青春は気が付く前に終わってしまうから・・・邦題、今夜は青春(身も蓋もない訳に思えるが、原題がその通りだから仕方ない)の通り、激しく燃え盛る若さが炸裂する歌。本当は一緒にいたいのに、エレンのステージを見守りながら去っていくトム。熱い視線を交わして、パフォーマンスの途中で出ていく彼とそれを見送るエレンの断腸の思いが曲のクライマックスと重なって最高に盛り上がる。熱いロックンロールファンタジー。しかし映画自体は本国ではこけたそうだ。このかっこよさ、アメリカ人の心には響かないのだろうか。個人的にはそれが不思議である。