馬鹿の一つ覚えー読み書きそろばんができても馬鹿は馬鹿

この言葉の重みを痛感したのは割と最近のことー身近に馬鹿を見たので。それが馬鹿と言っても、名門大学を出た上、就職先は高収入で有名な一流企業、海外駐在も経験し、輝けるエリートといった半生を送ってきた人です。しかしその正体は自己愛性人格障害と多重人格障害を患う出来損ないー50を超えて会社に居場所がなくなり、順風満帆に見えた人生が狂い出すと、本性を隠しきれなくなった。メッキが剥げ、情けない小心者が馬脚を現したのです。

とにかく同じことを意味なく繰り返す。納豆が体にいいと聞けばそればかりをパックのまま立ち食い。異常に食い意地が張っており、運動嫌いなのででぶでぶに太っていますが、ダイエットにいいと聞けば鶏の胸肉、きのこを毎日食する。その一方で休みの日ともなれば一日中PCで映画を観ながらお菓子を食べ続ける。もちろんその他に三食はきっちり。どんぶり鉢に山盛りのスパゲティを食べて何がダイエットなのだか。そしてその矛盾にも気づかない。

子供のころ、勉強さえしていれば親に褒められたのでしょう。未だに意味もない英語の勉強に精を出す。中学生時代の参考書も捨てられない。この人はいわゆる捨てられない病でもあり、不要なものは捨てるのではなく全て納戸に収納する。注意すると別人格が出現し、激昂して相手を罵るのだそうです。そんな時は表情も言葉遣いもまるで別人だとか。外では常に仮面をかぶり温厚な人柄を装っているので、私も含め、他人にはそんな姿を想像すらできません。昔、24人のビリーミリガンという本を読み、それで初めて多重人格と言う言葉を知りましたが、身近にそんな人がいたとは夢にも思いませんでした。

試験でいい点数がとれる人が人間として聡明かというと必ずしもそうとは限りません。この人は生涯成熟することなどないでしょう。馬鹿は死ななきゃ治らないという名言もありますが、まさにその通り。

諺って長きに亘って言い伝えられるだけのことありますね。

事実は小説より奇なり-奇を衒うに及ばない現実の不思議

事実は小説より奇なりーTruth is stranger than fictionとは19世紀イギリスの詩人・バイロンの言葉ですが、年を重ねるにつれ、しみじみその通りだと味わい深く感じます。

2020年は世界中が疫病に苦しんだ災厄の年でした。しかし皮肉なことに、負の異常ともいうべき事象に相対するように、一方で正の異常ーというか奇跡のような出来事も同時に起こっていたのです。

愛してやまない競馬の世界。特に、3歳の競走馬にとって重要な三大競走を制した馬を三冠馬と言いますが、三冠馬誕生の確率は0.0017パーセントだそう(*_*)それがなんと今年は牡馬と牝馬がそれぞれ無敗のまま、その偉業を成し遂げたのです。更に牝馬での無敗三冠戴冠は史上初、また牡馬による無敗三冠を達成したコントレイルは、その父ディープインパクトも無敗で三冠を達成しており、親子での無敗三冠達成は史上初。そして同年に牡馬・牝馬が三冠を達成したのも史上初。

これだけでもう出来過ぎた話なのに、二頭が三冠の先で相まみえることとなったジャパンカップには、2つ上の、やはり三冠馬で天皇賞・秋で史上初のG18勝を成し遂げた牝馬アーモンドアイまでもがラストランで参戦((+_+))三頭の三冠馬が対決するのも史上初。全てのファンが固唾をのんで見守ったであろうその決戦の舞台では、アーモンドアイが後輩の三冠馬二頭を従えてG19勝目を挙げて有終の美を飾るなんて、こんな話を小説家が書いたら笑われるのではないかと思うほど-でも実際に起こった、お伽話も遠く及ばない奇跡の如き現実なんですね。・・・そのもう二度とないであろう奇跡が、コロナ禍で無観客あるいはかなり制限された入場者の前で繰り広げられたこともまた皮肉に思えますが、それも運命のいたずらなのでしょうか。

全く次元の違う話で恐縮ですが、“事実は小説より奇なり”の例として忘れられないエピソードがあります。友人の御年76歳の男性は、若かりし日、自宅での法事の宴のあと、隣の部屋で妻と娘が眠っているという状況で、義姉に全裸で誘惑されたのだそうです。彼が言うには、彼女は夫が10年前に失踪していて欲求不満だったのだろうと。。。そんな事情を理解してやるとは彼も優しい(*’▽’)必死に宥めてピンチを切り抜けたそうですが、“俺は本当にどうしようかと思った・・・”と語っていた表情が未だに忘れられません。

生きている以上よくも悪くも想像しえない出来事がたくさん起こります。嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、楽しいこと・・・泣いたり笑ったりできることがそもそも生きている証なのですね。“命あっての物種”これも名言ですね。

 

 

愛と哀しみのボレロー冒頭の引用句が印象的で

もうずいぶん昔、ジョルジュ・ドンのバレエシーンが話題をさらったこの映画を観ました。数組の家族の数世代に亘る物語を描いた壮大なドラマで、複雑な人間関係がよくわからなかったのが残念でしたが、それはさて置き、この映画でどうしても忘れられないのが、冒頭の引用句なのです。

“人間の物語なんて、ほんの二つか三つしかない。それが、まるで今まで一度も起きたことがないかのような激しさで繰り返されていくのだ。ウィラ・キャザー”

(Original Caption) Willa Sibert Cather (1876-1947), American novelist.

はっとするような慧眼ではありませんか。生れ落ちて、成長し、やがて誰かと愛し合い、子孫を残して死んでいく-確かに人間の物語ってそういう意味では似たり寄ったりなのかも知れません。この名言は、20世紀のアメリカ南部を代表する女性作家の一人、ウィラ・キャザーが、開拓者の苛酷な生活を描いた“O Pioneers!”で残したものです。その前後を補うと、“古い物語がまた繰り返されていくのよー奇妙なものよね。人間の物語なんて、ほんの二つか三つしかない。それが、まるで今まで一度も起きたことがないかのような激しさで繰り返されていくのよ。数千年もの間、同じ5つの音を歌い続けるこの国のひばりのように。”と続きます。これは人生に置き換えてみても当てはまる気がします。人生の物語も、同じようなことが残酷にも何度も何度も繰り返されるように思えるのです。年を重ねるにつれ、身に沁みる言葉になっています。

ボレロを踊るドン、息を呑む美しさですね。シルヴィ・ギエムのボレロは全てを支配する女王のように美しく、ドンのボレロは神に捧げる生贄のように美しいといつも思います。恋人だったモーリス・ベジャールが、その手記で、ドンは常々舞台で死にたいと言っていた。そのドンが病院で死んだ、と書いていたのもなぜか忘れられません。

禍福は糾える縄の如し・一寸先は闇

梅雨明けを迎え、太陽が陽炎を作り、蝉が鳴く。タチアオイや向日葵が生き生きと咲き、生命を謳歌する風景はいつもの夏と同じなのに、今年は災厄の年となってしまいましたね。東京が2020年のオリンピック開催地に選出された時、日本中が歓喜して五輪特需を期待したけれど、この暗転を誰が予想しえたでしょう。禍福は糾える縄の如しとは本当だとつくづく思います。幸運と信じたことがそうではなかったのですからね。まさに一寸先は闇。いっそ選出されない方がよかったと、苛酷な運命を恨みたくもなります。でも!だからこそピンチをチャンスに!ですよね。未来のことは誰にも分かりません。言うは易しですが、いつも希望をもって、前向きに、って大切なことだとこのご時世に痛感します。パンドラが禁断の箱を開け、そこからあらゆる災厄が飛び出して人類に襲い掛かかりましたが、それでも箱の一番下には希望が残されていたのですからね。この寓話好きです。

A chacun son enfer…誰にもそれぞれの地獄がある

中森明菜、松田聖子、山口百恵の歌姫たち三者三様の生き方に触れたインターネットの記事にコメント欄がついていて、どこの家庭でも一つや二つはそれなりの悩みがあるはず、とコメントしていた人がいた。それでこの映画を思い出した。社会派映画監督として知られるアンドレ・カイヤットの1977年の作品で、それはそれは怖~い映画だった。一見幸せそうに見える家庭に潜んでいた地獄・・・吐き気を催すような恐怖を覚えた。話は逸れるが主演した当時のフランスきっての人気女優アニー・ジラルド、何とも汚いおばさんといった雰囲気で、フランス人の好みを不思議に思った。日本で人気があったフランスの俳優と言えば容姿端麗で清潔感のあるカトリーヌ・ドヌーヴやアラン・ドロンだったが、フランス人はいわば腐る寸前の、よく言えば味のある人がお好きなようだ。爛熟期の魅力に敏感なのだろう。素材のよさだけではダメで、人生経験を重ねた大人の風格が求められるのか。確かに、まさに爛熟した、汚れた雑巾の如きアニー・ジラルドの演技は素晴らしかった。とはいえ、セルジュ・ゲンズブールジェーン・バーキン、ロジェ・バディム&カトリーヌ・ドヌーヴ、クリスチャン・マルカン&ドミニク・サンダ、などなど、おじさまと若い女の子のカップルが多いのもフランスである。昔、フランス人歌手のフランソワーズ・アルディが、誰だったか日本の有名人女性との対談で、”フランスの男性は大人の女の魅力がわかるから、若い女ばかりちやほやされる日本とは違って羨ましい”などと言われ、”あらフランス人男性だって若い女の子が好きですよ”とあっさり答えていたのを思い出す。大人の魅力がわかる大人の世界といったフランス観が昭和の日本では喧伝されていたが、若い女が好きなのは男の性、その傾向に国境はない。フランス人女性に学ぶ・・・とか鵜呑みにしないほうがいい。

閑話休題。邦題は愛の地獄。原題がこの、誰にもそれぞれの地獄がある、である。その後、北京語を勉強して、北京語にも”家家都有本難念的経”という諺があるのを知った。”どんな家にも一つは唱えるのが難しいお経がある”、どんな家にも必ず一つは問題があるという意味である。人間が考えることはみな同じ、洋の東西を問わないのだろう。どちらも年を重ねるにつれて心に沁みる。名言だと思う。完全無欠な人間はいない。誰でも自分の中に不完全なもの、満ち足りないものを抱えて生きている。自分の中にある地獄ーそれに気づかないで生きていけたら幸せだろうが、そんな幸運な人は少ないのではないか。人間の一生は自分の中の地獄との闘いでもある。それに侵食されずに生きていくのは大変なことだ。自死を選ぶ人を見ると、恐らく己の地獄に呑み込まれてしまったのだろうと痛ましく思う。ニーチェも、深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いているのだと言った。童話の、王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしました、めでたし、めでたしというエンディングに何の疑問も感じなかった子供時代が懐かしい。人生は重く、苦い。