レンチドール 20世紀トリノの贅沢な逸品

耽美的・頽廃的な作風で知られた中井英夫の作品に”人形たちの夜”という短編集がある。悪夢のような物語が人形を軸に展開され、読む者を魔界に誘う魅惑の書。その中の一編、母娘二代に亘る業を描いた”真夜中の鶏”のタイトルページに、乗馬パンツに革靴を履き、手に鞭を持って何かを睨みつけている男の子の人形の写真が載っていた。可愛らしく上品な男の子ながら、いわば邪眼の持ち主である。見たことのない独特の表情に心を奪われ調べてみると、20世紀初頭にイタリアのトリノに創設された人形工房・レンチの作品だった。

当時のトリノは布地の生産地として名高かったそうで、レンチドールはほとんどがフェルト製である。他のドールメーカーと一線を画していたのはその芸術性の高さ。子供のおもちゃとしてではなく、多くが装飾品としてデザインされていた。創設者のエンリコ・スカヴィーニとその妻エレナは創作のインスピレーションを演劇やオペラ、バレエリュスやコメディフランセーズなどに求めており、とりわけ顕著なのは当時の傑出したファッションイラストレーターの影響で、レンチドールにはジョルジュ・バルビエの描いた薔薇やレオン・バクストの幾何学模様がモチーフとして生かされているという。ジュモ―やブリュなどのビスクドールとは一味違う、フェルトの素材を生かした柔らかい表情のレンチドールに私は夢中になった。レンチドールの特徴はまずその眼差し。目が前方を直視している人形はまれで、大体左右どちらかを見ている。またその表情の豊かさも特筆すべきだろう。驚いた表情だったりふくれっ面だったり澄まし顔だったり、どれもリアルでチャーミングだ。

南青山にあった嶋田洋書でレンチドールの写真集を見つけた時は飛びあがるほどうれしく、早速購入した。双子の女の子、19世紀にヨーロッパを席巻したシノワズリー趣味の再燃を反映した、チャイナ服姿で阿片を喫う人々、日本の芸者、ラプンツェルやパンの神といった童話や神話に材をとったもの、ガラスの目をしたレアもの(なぜかこのタイプは、ペットの犬を連れた裕福な未亡人姿のものが多いという)などなど、ため息が出るような人形たち。実物を見てみたいと恋焦がれていたある日、全くの偶然で本物に会った。お茶の水は湯島の坂を少し上がった東大の竜岡門の近くのアンティークショップ・パニポートでのめぐり逢いである。雰囲気のある素敵な店に吸い寄せられるように入ると、店主の坂本さんに出迎えていただき、コーヒーをごちそうになりながら興味深い話を色々伺った。その日ちょうどレンチドールの持ち込みがあったようで、坂本さんが憧れのレンチドールを抱きかかえて査定していらしたのを覚えている。店内には何体もレンチドールが飾られていた。一体欲しかったが・・・当時の私には高価すぎて買えなかった。それから何年経っただろうー坂本さんが鬼籍に入られたことを知った時、胸の中を風が吹き抜けるような淋しさが走った。いつか坂本さんの店で買いたいとの願いは叶わなかった。今でもレンチドールというと、中井英夫の作品と坂本さんと素敵なお店を思い出す。下はレンチの入魂の傑作と言われるゴージャスなポンパドゥール夫人。