火の接吻 ロミオとジュリエットの物語を運命のように引き受ける二人

なんて美しい邦題!原題はLes amants de Verone、ヴェローナの恋人たち、ロミオとジュリエットの翻案です。20世紀末、フランスで恐るべき子供と称され、その才能を絶賛された映画監督・レオス・カラックスもこの映画に傾倒しています。彼のアレックス三部作の最終作・ポンヌフの恋人の原題はLes amants du pont-neufと火の接吻の原題にそっくり。ポンヌフの恋人でのアレックスは口から火を噴く大道芸人ですが、こちらの映画の主人公・アンジェロはムラノのガラス職人で、ガラスを吹く時に火が赤々と燃え上がります。そしてそのアンジェロに扮したセルジュ・レジアニをカラックスは汚れた血で起用しています。汚れた血の最後、手負いのアレックスがそれを隠して愛しいアンナの許にたどり着くのはまさにアンジェロの最期と一緒。カラックスがオマージュを捧げたくなるのもよくわかる、魅力的な悲劇なのです。

カンヌ映画祭でグランプリに輝いたクロード・ルルーシュの”男と女”の印象が強いアヌーク・エーメ。冬のドーヴィルを舞台に、ムートンを上品に着こなす大人の女っぷりが素敵だった彼女、火の接吻ではその若き日の瑞々しい美貌を堪能できます。水の都・べニスの没落した名家の令嬢・ジョルジアが彼女の役。ロミオとジュリエットの映画を撮るために街を訪れたプロデューサーと女優が、撮影で使う年代ものの調度品を探してジョルジアの屋敷にやってきます。当主のエットーレは家名を誇り過去の栄華に執着し続け、その徒弟アメデオは戦傷により精神に異常を来しており、機関銃を撃つポーズを絶えず繰り返します。これがのちの悲劇の伏線となっています。エットーレの妻も家政婦もみな風変わり。変人ばかりの中でジョルジアだけが清純な美しさを放っています。一家はラファエレという男に経済的援助を受け、ラファエレはジョルジアの婚約者になっていますが、当のジョルジアは彼を嫌っています。ジョルジアは女優に職を紹介してくれと頼み、女優は撮影所に来るように言います。ちょうどロミオとジュリエットで一番有名なシーンと思しきバルコニーでの逢瀬を撮るところで、ジョルジアは女優のスタンドインの仕事を得ることに。ムラノのガラス職人・アンジェロは女優のファンで、彼女見たさに撮影所を訪れると、なぜかエキストラと間違えられて衣裳を着せられます。いざ撮影が始まると、ロミオを演じる役者が高所恐怖症で高い縄梯子を登れない。後ろ姿の撮影なので、急遽アンジェロが代役を務めることになり、縄梯子を登ってバルコニーにたどり着くと、そこにはジュリエットに扮したジョルジアがいて・・・二人は一目で恋に落ちます。運命に引き寄せられるように全くの偶然からロミオとジュリエットを演じた二人が、現実の恋人同士になってしまうなんてロマンチック!

監督のアンドレ・カイヤットの書下ろしのストーリーを枯れ葉で有名な詩人のジャック・プレヴェールが脚色した作品で、詩人の感性が随所に煌く名作です。カイヤットは社会派の作品で広く知られていたのが、こんなに甘美な映画も撮っていたのかと驚きました。ベニスでのロマンスというと当時はキャサリン・ヘップバーンの”旅情”が有名でした。それが火の接吻で恋する二人が薔薇の花で飾られたゴンドラに乗るシーンを見て以来、ベニスと言えば断然こちら!と思うようになりました。映画では、撮影隊がロミオとジュリエットゆかりの地、ヴェローナを訪れることになり、二人も同行して夢のような日々を過ごします。しかしムラノのガラス職人に名家の令嬢はやれないということで、ジョルジアの家人は与太者に頼んでアンジェロを殺そうとしますが失敗に終わります。ジョルジアの父は自らアンジェロを手にかけようとし、アンジェロはそれを逃れながらも、気のふれたアメデオの乱射した銃に撃たれます。命からがら撮影所のジョルジアの許にたどり着いたアンジェロですが、ジョルジアの腕の中で息絶え、絶望したジョルジアは動脈を切って後を追います。まさにロミオとジュリエットを地で行ってしまった二人なのです。

上のゴンドラの二人幸せそう。激しい恋のさなかにいて、もうお互いしか見えない状態の二人。セルジュ・レジアニはやんちゃでコミカルな顔立ちながら、若い頃はそれなりにかっこいいですね。赤々と燃え盛る火をバックに仕事するガラス職人は頼もしく、レジアニの野卑な魅力が炸裂します。私がジョルジアだったらやはりこの人に恋してしまっただろうと思わせる演出はさすが。

モンパルナスの灯然り、ローラ然り、81/2然り、愛よもう一度然り・・・改めて思い出すと、私が観てきたアヌーク・エーメの主演作はそれこそ女ざかりの彼女の魅力がいっぱいですが、若き日の彼女と言えばこちらの他にもう一つ、フランスのダンディズムの極み、悪魔的嗜好と頽廃趣味で有名なバルベー・ドールヴィリー原作の真紅のカーテンを映画化した邦題”恋ざんげ”も忘れがたい作品です。ナラタージュで進行するパントマイム劇で、エーメの美しさが物語の悪魔的な魅力によっていっそう輝きます。一見の価値あり。それにしても火の接吻も恋ざんげも、ともに邦題が素敵。恋ざんげって、原作を読んだ身には唸らせるようなタイトル。何か出所があるのかと検索したら、伍代夏子の同名の歌が出てきました。歌のタイトルはこの映画からとったのでしょうか。そういえば宇野千代に色ざんげという小説がありました。映画の公開は小説より後。宇野千代作品にインスパイアされたタイトルだったのでしょうか。

海を感じる時 暗い情熱の滾る青春を持て余して

何が驚きって、記憶を辿るとこの本を初めて読んだのは小学生の時なのだ。それもお小遣いで購入して。なんておませな・・・今ほど情報が溢れていない時代でも、小学生の好奇心は休むことを知らず、精一杯触手を伸ばして面白いものを探していたに違いない。講談社の単行本の表紙、児童書とは明らかに違う大人の雰囲気で嬉しかった。恋愛という未知の世界に心ときめかせる年ごろーそれにしても子供にはあまりに重い小説だった。作者の中沢けい、18歳の処女作である。高度経済成長が終わり、学生運動に失望した無気力、無関心、無責任の三無主義、いわゆるしらけ世代の高校生の性愛体験。地方都市の高校の新聞部に所属する早熟な主人公は小学生の時に父親を亡くし、女手一つで育てられる。母親にとっては希望の星だ。高校生、背伸びしたい盛りに彼女は新聞部の先輩・高野に恋をする。同級生より一足先に大人になりたい。そんな願望が彼女を駆り立て、決して自分を恋愛対象としては見てくれない高野に身を任せる。それが母親の知るところとなり、母親は何か汚いものでも見るような目つきで彼女を見、半狂乱になる。処女でお嫁に行きなさいと言われた時代なのだろう。彼女は高野への思いを募らせるが、彼が求めるのは体だけ。母との関係の緊張、高野への一方的な愛、すべてが満たされないまま時間ばかりが過ぎてゆく。

この小説、何よりもまずタイトルがいい。今まで憚られて語られずに来た、女性の性の神秘が明かされるのでは・・・との期待通りに、生々しい性描写に衝撃を受ける。高野の子を妊娠したのではないかと不安に駆られているとき、不意に体を貫くように始まる生理。”小さな蛇が鋭く体をくねらせ、出てきた。小さな赤い蛇が水晶のような目で、静かに見つめている”って、鮮やかでリアル。折しも雨に濡れたスカートの中に手を忍ばせ、彼女は生理を確かめる。”赤茶色の血が指先で、生臭いにおいを発していた” 美化するそぶりもない中沢けいが好きだ。そしておそらくこの小説を読んだ全ての人が胸に刻んだ圧巻のシーンは、ラストの、生理の血を夜の暗い海にたとえた箇所だろう。”海の水には、ねばり気があるようだ。タールの海だ。私の下腹にもタールの海がある。うねうねと、予兆と甘美な快楽が打ち寄せる” 若い表現者の描く海は概して青春と結びつきやすい祝福された場所。それを全く違った感性で捉える斬新さ。”世界中の女たちの生理の血をあつめたらばこんな暗い海ができるだろう。呪いにみちた波音を上げるだろう。下降をしいられる意識。生理の生ぐさいにおいの中へ” ヨットで遊び、サーフィンに興じ、水着で開放的になれる海。そんなイメージを一変させ、10代で女の業を見据えてしまった中沢けいって何者なのだろう。やはり18歳で衝撃の処女作をものしたフランソワーズ・サガンは青春の光と影を描いた。中沢けいの描く青春は精神と肉体のアンバランスな成長に戸惑う暗~い世界。光など差さない。この暗さがまたたまらなくいいのだけれど。

いかにも昭和の価値観がいっぱいのこの小説が数年前に映画化されたというので驚いた。というよりそれまで映画化されなかったことの方が不思議か。この小説が発表されてからどのくらい経っていたのかわからないが、衝撃的な内容だったからだろう、コンセプトアルバムが制作された。当時はカセットテープの時代で、ラジオから流れてきた歌を母が録音してくれた。私が気に入っていたのは”あなたの下宿”という歌。小椋佳作詞・作曲、オペラ歌手の五十嵐麻利江が歌っていて、哀愁を帯びた声が素敵だった。主人公が、東京の大学に進学した高野を追って下宿を訪ねる歌。ドラマチックで未だに覚えている。♪あなたから届いた返事封筒の厚さだけ喜んで それだけにあなたの遠さ読み終えて なおさらの淋しさ♪自分も恋人を追って下宿を訪ねてみたいなどと子供心に思った。残念ながらそんな機会には一度も恵まれなかった。昨年だったか、横浜のホテルニューグランドのレストランで隣のテーブルに見覚えのある女性が座った。中沢けいだった。健啖家ぶりを発揮してエネルギッシュに友人と思しき女性と食事を楽しんでいた(ように見えた)。海を感じる時から数十年・・・暗い情熱を感じさせる風貌は健在で頼もしかった。私は勝手に、この人に土着の縄文民族のにおいを感じて魅せられている。

lust caution・・・色・戒 不倶戴天の仲なのに・・・どんな関係でも愛は愛

20世紀中国を代表する女流作家・張愛玲の作品の映画化。邦題はラスト・コーション。てっきり最後の警告かと思ったら違い。。。カタカナだとわかりませんね。日本公開時、”奥様悶絶!中国映画ラスト・コーションのやりすぎ四十八手”という煽情的な週刊誌の惹句に乗っかって観に行きました。確かにこの人たちなにやってるの?と訝るアクロバティックなラブシーンの連続で、なまめかしいことこの上ありませんでした。しかし張愛玲がそんな下りを描くとも思えず、原作はいったいどんな話なのかと読んでみたのです。

1942年、日本占領下の上海で抗日運動に身を投じる女子大生のスパイ・王佳芝は、日本の傀儡政権のボス・易に近づき、暗殺の機会をうかがいます。その過程で彼女の色仕掛けに易が乗るのですが、映画はずいぶんと想像をたくましくした展開になっています。命を狙う者とそうとは知らずに若い女に感情移入していく中年男。ましてや戦時下、死と隣り合わせの日常がもたらす緊張感から、二人の愛の営みは暴力的なまでに激しくなり・・・などとは、小説では描かれていません。易は佳芝に惹かれ、佳芝も知らず知らずのうちに易を愛してしまいます。愛の記念に易は佳芝に指輪を贈ると言い、二人は宝石店に出かけます。そこで佳芝の仲間は易を暗殺する計画です。宝石店の店主はピンクダイヤの指輪を勧めます。二人で指輪を選ぶー幸せの象徴のような行為が死出の旅の始まりとは皮肉なものです。しかし決行の直前、佳芝は彼が自分を本当に愛していることを感じ取り、あろうことか彼を逃がしてやります。暗殺を画策した学生たちは一網打尽にされ、銃殺されます。もちろん佳芝も。易は、彼女は処刑される前、自分を恨んだだろうと追想します。だが”毒なき者、男にあらず”、このような男でなければ彼女も自分を愛さなかったに違いないとも思う。易夫人と、貿易商の妻を装った佳芝が、ほかの御婦人方と共に麻雀に興じる場面から始まった小説は、佳芝の処刑を知らない易夫人たちが麻雀卓を囲むところで終わります。何ともやるせない気分にさせる幕切れです。

張愛玲の小説は愛に関しては悲観的なものが多く、読み終わると淋しいような悲しいような気持ちに捉えられます。恐らく彼女自身にあまり幸福な愛の思い出がなかったためではないでしょうか。張愛玲は1920年、上海の名門家庭に生まれました。父親は旧社会の貴族の息子で阿片を吸い放蕩三昧を繰り返し、進歩的で芸術を愛する母親とは全くそりが合わず、いさかいの絶えない夫婦だったといいます。また母親は幼い張愛玲を残してイギリスに留学してしまい、母親の留守中には芸妓上がりの女性が家に入り込んだそうで、彼女は温かい家庭を知らずに育ったそうです。ロマンチックなタイトルを冠しながらいい意味で読者を裏切る傾城の恋然り、愛し合いながらも結ばれない二人を描いた半生縁然り、彼女の小説の登場人物は、人間の手ではどうにもならない運命とでもいったものに翻弄され、そのがんじがらめの人生の中で束の間の愛に身を投じても、愛によって幸福になりはしません。張愛玲はそれが人生なのだと諦観しているきらいがあります。スパイでありながらその標的を愛してしまい、本分を投げやる佳芝は哀しい。易は易で、佳芝を殺さない選択もありえたはずです。しかし自分の保身のためにはやむを得なかったと言い聞かせ、彼女は生きていても死んで亡霊となっても自分のものだと呟きます。まさに毒なき者、男にあらず。

映画では、愛国主義の学生たちが傀儡政権のトップ暗殺を画策するなんてと荒唐無稽な印象を受けたものの、小説だと結構リアルでした。異常な状況下を借りての過激なアクロバティック・ラブ・シーンは打ってつけで、映画をヒットさせるためには必要だったのでしょう。しかし何と言っても一番心に残ったのは易役のトニー・レオン。全身から中年男の色気を発散させて、何が凄いって、ラブシーンよりスーツ姿のトニーの方が全然色っぽいこと。むかしむかし、やはりラブシーンが話題となったデュラスの”愛人”でも、ラブシーンは主演のレオン・カーフェィではなく代役を使ったといいますが、こちらもまさかトニー・レオンがあのラブシーンを演じたとは思えません。でもそんなことはどうでもいい。いい役者は脱ぐ必要などない、着衣で勝負の見本のような俳優です。ラブシーンが大変だったであろう佳芝役の女優さんも綺麗でした。色・戒。身の破滅に至るとも情欲を抑えきれない人間という業の深い生き物に、張愛玲は欲望は慎みなさいとメッセージを残したのでしょうか。思いもよらず愛し合ってしまう不倶戴天の二人が哀しい。

余談ですが・・・中国語で指輪のことを戒指と言います。それを知った時、結婚して薬指にリングをする意味が分かった気がしました。また、この小説に出てくる印象的な言葉、毒なきは男にあらず、は、原文では”無毒不丈夫”。非情になれてこそ男と言った意味だそうです。

ツバメのように

ユーミンには人の死を歌った名曲が多い。デビューアルバムのひこうき雲のみずみずしい感性は言うまでもないが、その後に発表した死にまつわる歌もみな、個人的な体験が普遍化したかの如く、感情移入できるもの。戦争で恋人を亡くし精神に異常を来した女性を描くミス・ロンリー然り、白血病で他界した彼との思い出を語る雨に消えたジョガー然り、失恋して旅路での死を選ぶコンパートメント然り。と列挙してみたらみな時のないホテルからなのか。私がなんだか淋しい時に思い出すのはいつも決まってこのツバメのように、なのだが。

ユーミン自身が語っているように、ツバメのように、はシャンソンのパリ・ソワールを下敷きにしている。投身自殺した女性の顔にハンカチがかけられていたのが、本家ではパリ・ソワールという夕刊誌。その彼女を誰かがあまり美人じゃないと言ったのも本家の通り。そんな裏話を聞いても、ユーミンの歌の魅力は全く色あせない。女性が死を選んだのは、裏切った恋人のせいじゃない、どんな言葉に託そうと淋しさはいつも人の痛みなの、と歌うユーミン。30年ぐらい前、コンパートメントってミュージックビデオにも収録されていた。今でも痛切に思う・・淋しさはいつも人の痛み。

 

 

ある微笑 パリからリヴィエラへ…ひと夏の恋は甘くて残酷

20世紀のフランス人作家で最も商業的に成功したフランソワーズ・サガン。18歳で書いた処女作・悲しみよこんにちはの世界的ヒットで若くして巨万の富を得、時代の寵児になった。日本でも彼女の著作は多数翻訳され、多感な文学少女たちに多大な影響を及ぼしたと思われる。私も10代の頃悲しみよこんにちわを読んで衝撃を受けた。小説の内容にーというよりは、それを書いたのが18歳の女の子だという事実にだろう。もちろん、18歳の女の子が書いたとは俄かには信じがたい完成された小説世界に驚嘆したのも事実。彼女のその後の波乱万丈の人生は有名だが、21世紀の日本では彼女を知らない人も多いだろう。もともと裕福なブルジョワ家庭に生まれ、恵まれた少女時代を過ごしたサガン。幼い頃から大変な読書好きだったという。ペンネームのサガンは、彼女が最も敬愛した作家・プルーストの小説の登場人物からとったものである。デビュー作が大変な評判を取った後で彼女は、次の作品をみなが機関銃を構えて待っているのを知ってるわと語った。プレッシャーに押しつぶされることなく、いわば精神的包囲網を突破して発表されたのがこの”ある微笑”であり、個人的にはサガン作品の中で一番好きな一篇である。

ソルボンヌ大生のドミニックにはベルトランという同級生の恋人がいる。ある日ベルトランの叔父である旅行家の男性・リュックに紹介され、ドミニックは強く惹かれていく。彼は気軽に浮気を楽しめる男で、妻のフランソワーズの存在はそれと弁え、ドミニックを誘う。二人の男性の間で揺れ動くドミニックは、慣れ親しんだパリの街が違った顔を持っていることに気づく。恋する人間がよく経験するジャメ・ヴュの世界。ドミニックにとって、パリは美しい黄金色の硬い都であり、決して人に騙されない都。そのパリの明け方、夜通し遊び疲れてベルシイ河岸から眺めるセーヌ河は、おもちゃの中に座った悲し気な子供のよう、と何とも心憎い表現をするサガン。ベルトランの別荘に招待されたドミニックはリュックとフランソワーズと共に休日を楽しむ。ドミニックは、まだ海を見たことがないと言ってみなを驚かせる。するとリュックはすかさず、見せてあげるよ、と言う。女心を知り尽くした男の手管。夕食後、リュックがドミニックを散歩に誘い、二人は初めてキスする。ベルトランの場合、キスはすぐに次の欲望に取って代わり、不要になってしまう、いわば欲望の一段階でしかないが、リュックとのキスは何か尽きることのない満たされたものだった、と成熟した男性の恋のマジックに落ちていく女性を表現するサガン。熱いキスに酔いながら、”私は自分が怖かった、彼が怖かった、その瞬間でないすべてのものが怖かった”と言うドミニックは、幸せを永遠に保存することなどできないとわかっている。幸せの絶頂にいてもただそれに浸りきるのではなく、かけがえのない時間が過ぎ去り、失われることへの恐怖を覚えてしまうのは人間の性だろう。

フランソワーズ・サガンは24歳で最初の結婚をしており、その相手はギ・シェレールと言う大手出版社アシェットの重役で、彼女より20歳近く年上だった。夜遊びが大好きな妻と早朝から乗馬に出かける夫ではライフスタイルが違いすぎ、結婚生活は長くは続かなかったものの、彼女は若いときから中年男の魅力に敏感だったのだろう。悲しみよこんにちはの男やもめの父にしろ、ある微笑のリュックにしろ、サガンの小説で魅力的に描かれているのは中年男性ばかりで、若い男は頼りなく、時に滑稽なカリカチュアとなっている。ドミニックは初めて会ったリュックを、灰色の瞳を持ち、疲れた様子をしていてほとんど悲し気だった、ある意味で彼は美しかった、と描写している。早熟な文学少女・サガンらしい感性だ。自分に置き換えてみると、若い頃は若くて見栄えのいい男の子にしか興味はなかったので、ある微笑を読んでいてもなぜこんなおじさんがいいのかと不思議でならなかった。本題からは逸れるが、実家に帰省したドミニックが川で水切りをする場面がある。水切り=ricochet。ちょうどそのころ、ボウイのアルバム・Let’s danceが流行っていて、その中にRicochetという歌が収録されていた。相乗効果でricochetがいともたやすく記憶に刻まれたのが嬉しかった。

閑話休題。夏休みを実家で過ごしていたドミニックはリュックから、今アヴィニヨンにいますとの手紙を受け取る。迷うことなくアヴィニヨンに向かうドミニック。しかし田舎の両親の家を発つ時、初めて両親の庇護の外に出る気がしたという彼女はやはり不安だったのだろう。アヴィニヨンからリュックの車でサン・ラファエルに向かう途中、ドミニックにとって初めての海が広がる。素晴らしい景色。海の美しさに驚嘆する一方で、ドミニックはリュックが得意気に海を見せて彼女の反応をうかがうのではないかと恐れた。リュックは、ただ海を指さして、ほら海だよ、と言っただけだった。そのさりげなさ。かっこよすぎるおじさんリュック。二人の傍らで夜の海は灰色になるまで褪せていく。ここはある微笑の中で一番美しいシーンだと思われる。カンヌの高級ホテルに投宿し、昼間は海を、夜はバーでの時間を楽しむ二人。休暇はいつしか終わる。二人はここが旅先だということを正視したくない。パリに戻ればお互いそれぞれの場所に帰るしかないから。そんなことには慣れっこのリュックはそれでよかった。しかしドミニックは本気で彼を愛するようになってしまう。

パリでは、何事もなかったように再びリュック、フランソワーズ、ベルトランとで昼食を共にするドミニック。リュックはカンヌでよく聴いたレコードをかける。二人の思い出が詰まったレコードだ。このメロディーが大好きだと言ってドミニックに微笑するリュックにとって二人の愛はもう過去のものだった。ドミニックの変化に薄々気づいていたベルトランは彼女を去り、ドミニックは独りぼっちになってしまう。孤独と苦しみの日々。報われない愛。しかしある時彼女は鏡に映った自分の顔に微笑みが浮かんでいるのに気づく。彼女は声に出して呟く。独り。独り。でもそれが一体なんだ?私は一人の男を愛した一人の女だった。それはごく単純な物語で、もったいぶることもないのだ。多くは語りたくはないのよ、とばかりにシンプルに一つの愛の物語を終わらせるサガン。10代の自分にはとってもおしゃれな大人の世界に思えて、悲しみよこんにちは以上にこの作品に惹かれたのだった。

数年前、サガンの人生が映画化された。とにかく女性とは思えない破天荒な生き方をした人なので、映像化するにはうってつけの素材だったと思う。彼女の書いた小説以上にドラマチックな人生なのだ。早すぎた成功がその後の人生を狂わせたのか、彼女が引き起こしたスキャンダルの数々は、若くして成功を収めた聡明な作家の仕業とはとても思えない。1954年からの4年間にサガンが手にした印税は当時の日本円にして約1億円と言われ、彼女はそれをスポーツカーに、ナイトクラブに、ギャンブルに、湯水のごとく使った。気前のいい彼女は、友人や見知らぬ人にまで大盤振る舞いをしたという。古きよき時代のお嬢様、パリジェンヌって感じ。彼女は物凄いスピード狂で、そのために自動車事故を起こし九死に一生を得ている。そんな大事故にも懲りず、その後も夜のパリを200キロで飛ばすのが好きだったってやはり普通ではない。また、無類のギャンブル狂でもあり、家を担保に入れたり、一夜で何億もすってしまったり、フランスの賭博場から出禁を食らえばロンドンにまで出かけていくという情熱の持ち主だ。”賭博”というタイトルでエッセイもものしている彼女は、21歳(当時の成年)になったその夜、意気揚々と初めてカジノの扉を叩いたと書いている。根っからのギャンブル好きだったのだろう。映画では、生前彼女が公にしてはいなかった同性愛のことも描かれていた。サガンはバイセクシュアルだったようで、より女性を愛した。ペギー・ロッシュという女性が長年に亘るパートナーで、癌で彼女を失ったときは半狂乱に陥った。晩年は莫大な借金と孤独に苛まれ、薬物中毒でもあったサガンは、準備していた自らの墓碑銘をこう結んでいた”人生と作品を手際よく片付けたが、その死は本人だけの事件だった”。2004年、心肺代謝不全で69歳で死去。

若き日、我が世の春を楽しんだ人も一生幸せに過ごせるとは限らないが、サガンが晩年、失意の底に沈んでいたとは胸が痛む。華々しい栄光とのギャップがよけい悲しい気持ちにさせるのだろう。人並み外れた才能に恵まれながらそれを計算高く使うことを知らず、人に食い物にされたところもあった人生だったのか。しかし、長い間人生を楽しみ、遊んだので何も後悔していないと言い放つ頼もしさがまたサガンの魅力でもある。写真を見ると、左右の目の大きさが少し違う。そういう人には天才が多いと聞いた。誰よりも聡明なその目で、人間を、人生を見つめて生きたサガン。衝撃のデビュー作が10代の女の子を主人公に夏のまばゆいばかりのフレンチ・リヴィエラを舞台にしていたせいか、今でもサガンというと、過ぎてからこそわかる祝福された季節・青春の輝きが蘇ってくる。

ストリート・オブ・クロコダイル 不毛な袋小路の悪夢の人形劇

アメリカ出身の双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの監督作品。双子の共同作業というだけで興味を持ちました。特殊なシンパシィが通い、シンクロニシティを共有することも多いという双子。神秘的な絆で結ばれているのでしょう。志同じくした双子の彼らによる作品が凡庸なはずはない!との期待にたがわなかった悪夢のような映画・ストリート・オブ・クロコダイル。かなりエキセントリックな世界ですが、その陰鬱ながら幻想的な頽廃美は唯一無二。

ストリート・オブ・クロコダイルの地図が大写しになる。物淋しい口笛が響き渡る。くたびれかけた初老の男が劇場に入っていくと、舞台の奥は博物館になっており、中は古色蒼然、古びたねじや拡大鏡、キネトスコープが雑然と置かれている。キネトスコープを覗くと、積もり積もった埃と錆に埋もれたストリート・オブ・クロコダイルの機械仕掛けの模型が見える。ドラマチックで哀切なヴァイオリンの音。長らく止まっていた模型に男がつばを垂らすと、模型は動き始める。男は、模型の中にいたやせこけたパペットの男をつなぐひもを鋏で切る。自由になったパペットはストリート・オブ・クロコダイルを彷徨い、ある仕立て屋に吸い寄せられていく。

薄汚れたガラスに映る埃、ねじ、ひも。可愛いアウグスティンのメロディが流れる。機械仕掛けの猿がシンバルを鳴らすとそれが合図のようにニット帽をかぶった子供の人形が地面に落ちたねじを拾う。迷宮のような仕立て屋の奥にはマネキン人形が並んでいる。さらに進むと、頭の上部と眼球がない人形がパペットを待っている。人形の合図で、同様のマネキン人形が一斉に動き出し、パペットをとらえて頭部を自分たちと同じマネキンに挿げ替え、中に綿を詰め込む。剥製状態。人形が作業台に敷いたポーランドの地図の上にマジックのように取り出したのは生々しい肝臓。それを紙で包み、きれいにピン打ちし、挿げ替えたパペットの頭部につなげる。再びおびただしい埃にまみれたねじとマネキン人形が映し出され、新しい肉体を得たパペットは仕立て屋を後にする・・・って不思議な話でしょう。全体を通して無彩色で暗澹たるムードが漂い、人形の頭を挿げ替えたり生の肝臓が登場するなど不気味なシーンの連続なのに、全く不快感を覚えないどころか、ブラザーズクエイの審美眼に圧倒されます。錆びたねじ、埃で汚れた調度品が俄然魅力的に見えるのが凄い。冒頭のくたびれかけた男や古色蒼然とした博物館と同じく、ストリート・オブ・クロコダイルは過去の遺物。その模型が再現する世界を支配しているのは脳をくりぬかれた人形たちで、何の意志も感情もないまま、訪れる者におそらく同じ仕打ちを繰り返しているのでしょう。全くつかみどころのない話なのでかえって好奇心をそそられ、原作を読んでみました。

原作者は19世紀末ポーランドに生まれたブルーノ・シュルツ。小説だけでなく、絵画にも才能を発揮したのだそうです。上は彼の自画像です。ストリート・オブ・クロコダイルは”肉桂色の店”に収録された短編で、工藤幸雄氏により大鰐通りの名で訳されています。これがまた不思議な話なのです。ある町の美しい地図に空白として描かれている大鰐通り。そこは人間の屑が住み着く腐敗した場所で、地図の製作者はその界隈を町の一部として認めるのを憚ったために空白としているかのようです。色彩のない、全てが灰色の大鰐通りにまともな人間は近づこうとはしませんが、例えば自暴自棄になったり、安い誘惑に縋りたくなったりすると、人々はそこに吸い寄せられます。街娼がたむろし、列車の発着時刻も定められていない無秩序な町で、人々は束の間の快楽をむさぼろうとします。しかし欲望は満たされないまま大鰐通りを後にするのが常。

シュルツが愛した生まれ故郷・ドロホビチの不健全な一画を描いたこの小説にはプロットが全くありません。何度読んでも何の話だったのかわからないほど難解で、随分戸惑いました。小都市ドロホビチを侵食した資本主義経済への批判の書とも言われていますが、私は、劣等な人間が住む劣悪な地域の風紀を独特の筆致で描いているところに魅力を感じます。また、順風満帆な時はそんな地域を馬鹿にしている人間も、魔がさせばたやすく入り込んでいけると、人間の弱さに言及しているところも忘れられません。何もかもが冴えない大鰐通りなのに、自分の立場を忘れ放逸を尽くしたい人間にはパラダイスになってしまうのです。魔界の陥穽。

原作に仕立て屋で服をあつらえるエピソードは登場するものの、マネキン人形たちによる肝臓移植の話は完全にブラザーズ・クエイのオリジナルです。シュルツは50歳でゲシュタポに殺されています。ポーランドの地図の上で肝臓を移植するイメージは、ナチスの洗脳・侵略を象徴しているのでしょうか。登場するマネキン人形たちの風貌が、ナチスの将校と捕虜のユダヤ人女性との倒錯の愛を描いた”愛の嵐”に出てくる、パーティーシーンで扮装したナチスの将校に似ているのも印象的です。映画の最後に、”安っぽい人間が素材となっているこの町では、どんな才能も花ひらくことなく、暗く、異常な情熱が刺激されることもない。大鰐通りは、私たちが現代と大都会の腐敗の言い訳として作った租界だった。その不幸は、そこでは何も成功せず、確かな結論にたどり着けないことであった。もちろんそこについて私たちは去年の古新聞から切り抜いた不自然なコピーや合成写真ぐらいしか提供することができない。”との原作からの引用が示されます。そんな不毛な袋小路で、人形たちはまた誰かが模型につばを垂らすのを待っているのでしょう。ちなみに、シュルツの小説はタイトルが何とも魅力的。この大鰐通りも然り、肉桂色の店、砂時計サナトリウム、マネキン人形論、などなど。読みたいのはやまやまですが、難解過ぎてなかなか挑戦できずにいます。

汚れた血 永遠に疾走する愛に憑かれた孤独な青年

もう30年も前、当時流行っていたミニシアターは満席で、立ち見したのを覚えています。若さゆえの体力。3本立てで3時間なんてシネママラソンやオールナイトも平気だったあの頃が懐かしい。若き鬼才、ゴダールの再来ともてはやされていたカラックスは、時代の閉塞感を打破しようとする若者を描き、若年層に熱狂的な歓迎を受けた映画監督です。カラックスのブランド力は絶大で、カラックスを知っていると言うとちょっとした映画通のような印象を与えたものです。ドリカムの歌にもカラックスがどうのって歌詞がありましたね。時代の先端を行くカリスマ、完全主義の謎めいた監督といった売り方で、配給会社がうまくプロモーションしましたね。難解で斬新な映像という触れ込みもまさに若者ターゲットの惹句。その作戦に乗せられた私もカラックスに憧れました。まず早熟の天才ぶりを示すエピソードの数々が眩しい。16歳で高校を中退し、18歳で批評家として活動を始め、20歳で初めての監督作品を撮るとか、凡人には想像もつかない華々しさ。汚れた血はカラックスが自身を投影したアレックス三部作(カラックスの本名はアレックス・デュポン)の第二部で、第一部であるボーイミーツガールを撮ったのが23歳の時。そして汚れた血は26歳の時の作品です。

愛のないセックスによって感染するSTBO (フランス版エイズ?)が蔓延する世紀末のパリ。今思えばこの設定だけで笑ってしまいますが若者はノックダウンされました(少なくとも私は)。ハレー彗星の接近で異常な暑さの夏。(実際は厳寒の中撮影が行われたそうです。)街頭でのトランプ賭博で日銭を稼ぐいわば与太者のアレックス(ド二・ラヴァン)は孤独な青年。手先がマジシャンの如く器用で、腹話術もものします。このドニ・ラヴァン、不気味で不吉な雰囲気を醸し出す強烈な個性の持ち主。カラックスはよくあんな顔の俳優を主役に選んだものだと思います。野卑な魅力漂うと言えば聞こえはいいものの美形にはほど遠いセルジュ・レジアニも好きみたいだし、アレックスと後述のマルクがけんかの末ガラスに顔を押し付け合い、その醜くゆがんだ顔を映し出すシーンもあったりで、カラックスはいわば変顔趣味なのでしょうか?アレックスは子供のころから異常に無口な子で、親は皮肉をこめてお喋り(langue pendue:フランス語で宙吊りの舌。おしゃべりは常に舌を動かしているから)と呼びます。私はこれでlangue pendueというフランス語を覚えました。彼にはリーズ(ジュリー・デルピー)という美しい恋人がいます。森で裸でくつろいだり、バイクで疾走したりするアレックスとリーズ、煙草の吸い方までそっくりな微笑ましさ。しかしアレックスは満たされず、何とかして生活を立て直したいと思っています。バブルが崩壊した日本でこのアレックスの姿に共感する人も多かったのではないでしょうか。

アレックスの父親もよからぬ人物で多額の借金を残して死に、それが友人のマルク(ミシェル・ピコリ)の肩にのしかかります。マルクはSTBOの血清を盗んで密売し、窮地をしのごうと画策し、その相棒としてアレックスに白羽の矢が立つことに。生活の基盤を築きたかったアレックスはリーズに別れを告げ、金欲しさに犯罪に加担します。その過程でマルクの年若い恋人・アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に惹かれ・・・30年前はこの物語に痺れました。でも今となっては愛のないセックスで感染するSTBOって設定が青すぎて・・・例えばかつて一世風靡したリングもホラーの伏線の張り方は見事ですが、呪いで人は殺せません。出発点そのものが突っ込みどころ満載だと観る方は萎えてしまいます。とはいえ汚れた血は、こうして書き残したいと思わせる魅力に満ちた作品です。ジャン=イヴ・エスコフィエが彫琢を重ねた職人技を発揮して撮影した夜のパリの景色を始め、カラックスの美学を反映したシーンの数々とともに、珠玉のようなセリフが散りばめられているのも忘れがたい。

リーズがアレックスに贈った絵に添えられてあった、娘が脚を開くとそこから秘密の蝶が飛び立つという謎めいたセリフ。泣き虫のアンナは自分を涙が止まらない血友病みたいと例えます。アレックスが見た夢の中でアンナが語る、私の目に二つの黄色い月が見えたらオルガスムなの。また、公開時のキャッチコピー”愛は疾走する”はキーワードであり、アレックスがアンナに尋ねる、永遠に疾走する愛を信じるか?のセリフも決まっていました。ボウイのモダン・ラヴに乗って、アレックスが走って走って走りまくるシーン、アンナへの迸り出る恋心が切なくも力強く描き出されていて、圧巻のシーンですね。ワクチンを盗み出すことに成功しながら、裏切り者の密告により追手に撃たれたアレックス。もう一度人生を生きたいと強く願うアレックスが息絶えるラストシーンでは涙が出ました。強がってはいても天涯孤独の身だったアレックスの淋しさははかり知れません。ともに生きる人との幸せを求めたのに叶えられなかった彼の悲痛な姿が胸を打ちます。息絶えたアレックスを見て感極まったアンナが走り出し、それを追ってマルクも走り出す。疾走がやはりキーワード。青春の只中にいる者の不安、孤独、夢といった混沌とした内面描写に共感します。プロコフィエフやベンジャミン・ブリテンの音楽も効果的に使われていました。

カラックスは当時恋人同士でもあったジュリエット・ビノシュを神秘の麗人といった筆致で描いています。暑さに耐えきれず上目遣いで髪を吹き上げるビノシュ、日本でもカラックスの意図通りに紹介されていました。二人の男を翻弄する謎の女ーでも私にはいかにも田舎のお姉さんに見えました。無邪気な顔して田舎者の図々しさを発揮する悪女って感じ。昔誰かが彼女をフランスの大竹しのぶと呼んでバッシングを受けたそうですが、私には的を得た指摘に思えます。その悪女ぶりは以後、存在の耐えられない軽さやダメージなどで遺憾なく発揮され、イングリッシュペイシェントではアカデミー助演女優賞も受賞、堂々の演技派女優になりましたね。キェシロフスキのトリコロール・青の愛でも交通事故で夫と娘を失った女性の悲しみの表現が見事でした。個人的には確信犯的ぶりっ子ぶりが鼻について好きになれないのですが。ただ、アレックス三部作の最終作、完成するまでもめにもめたポンヌフの恋人で、汚れ切ったホームレスの女性を演じ、美しかったのには驚きました。ビノシュの演技力とカラックスマジックのなせる技でしょう。全てを失った、社会の敗残者同士の間に生まれた愛を通して、飾りをはぎ取った、人間の本質的な美しさに迫ろうとしたカラックスは只者ではない。

バイクに乗った天使・リーズを演じるジュリー・デルピー。広い額に離れた目、金髪の彼女、美人ではないところが魅力的。キェシロフスキの”トリコロール・白の愛”の盲目的に愛される妻役でも天使のような愛らしさでした。ご本人はカラックスとの仕事を楽しまなかったようで、バイクに乗った天使、妖精のイメージにこだわったカラックスから絶対太るなと言われ、毎日体重計に乗ったとあるインタビューで不満気に語っていました。ポンヌフの恋人のことも、甘やかされた映画と痛烈に批判していたものです。

本を読みすぎて早熟になったアレックスは、すぐに年老いると友人に言われているーその言葉通り、実際のカラックスが一気に年老いてしまったのか、アレックス三部作を撮り終えると長い長い沈黙の時代に突入します。ポンヌフの恋人が最後の作品と本人も公言してはいましたが。その後話題になったのは1999年のポーラX。未見なのが残念なので機会があったら観てみたい。カラックスはもともと大の映画好きで、映画評論家としての活動歴も長いので、映画に関する知識は驚くほど豊富です。バイクや鏡といった小道具、運命の女が街頭を歩く姿を追うシーンはコクトー作品からの引用でしょうし、瀕死のアレックスがアンナに会おうとやっとの思いでアジトにたどり着くシーンはアンドレ・カイヤット”火の接吻”のラストを思わせます(カラックスはこの作品に相当思い入れがあるようです。火の接吻の原題は”Les amants de Verone”で、ポンヌフの恋人の原題は”Les amants du pont-neuf”とよく似ています。口から火を噴く大道芸人アレックスの造形にも火の接吻の影響がみられ、火の接吻の主人公はムラノのガラス職人で、彼がガラスを吹くときに火が赤々と燃え上がるシーンは、そのままアレックスにより再現されています。おまけにその主人公を演じているのがセルジュ・レジアニなのです!)オールドシネマファンにはこういったディテールを楽しめるのもカラックス作品の魅力ですね。

最近デジタルリマスター版を見返して、アレックスの晴れ着なのか、黄色い地にトランプのダイヤのような黒いマークがついたジャケットと、彼がいつも履いているカンフーシューズみたいなフラットな靴が心に残りました。喫煙のシーンが多いのも時代を感じさせます。誰もがひっきりなしに煙草を喫っており、くわえ煙草がまたサマになっています。近未来を設定していますが、まさか近い将来喫煙がこれほど糾弾されることになろうとは思いも寄らなかったのでしょう。それに今見ると・・・若き日のカラックス(覗き屋役で一瞬出演している)ってインパルスの板倉に似ています。これは新しい発見でした。

思い出のチーズケーキー20世紀のリッチテイスト

今まで食べた中で一番美味しかったチーズケーキ。母が持っていたお菓子の本に載っていたレシピです。チーズ風味のスポンジ台の上に、チーズクリームとメレンゲを混ぜた種を重ねて焼きます。甘味を抑えた濃厚な味。チーズクリームは、まずカスタードクリームを作り、それをすりおろしたエダムチーズと卵の黄身を混ぜて作ったシュー種に加えて仕上げます。そこに卵の白身をもったりするまで攪拌して砂糖を加えたメレンゲを混ぜ合わせる。それをスポンジ台に乗せて焼き、焼きあがったら洋酒で溶いたあんずジャムを塗って完成。これがたまらなく美味。子供の頃、まずはこの写真に憧れました。ダイヤモンドリナーなんてチーズおろし器、当時は見たこともなく、買ってもらった時はそれはそれはうれしかったものです。エダムチーズという名もこの本で初めて知りました。アプリコットジャムというのもおしゃれな感じで、女の子の心に響いたのでしょう。(杏里のデビューアルバムのタイトル・そういえばアプリコットジャムでした( ^)o(^ )10代、お菓子作りに目覚めてから何度このチーズケーキを作ったことでしょうか。初めて食べたチーズケーキがこの濃厚な味だったせいか、どうしてもレアチーズケーキは受け付けませんでした。友達はレアの方が好きという子が多かったけれど。

昭和のお菓子のレシピ本って概してカロリー計算度外視というか、今見ると作らない方が身のためと思われるリッチテイスト。でもとにかく凝っていて、簡単に作れるものではないところが風格を感じさせます。チーズケーキと言えば昭和の末頃に爆発的に流行したティラミス、私はあまり好みではありませんでしたが、知り合いのイタリア人が、名前の由来はあまりに美味しくてハイになるからだと教えてくれました。赤坂・グラナータのティラミス人気でしたね。最近もニューヨークチーズケーキを始め、チーズケーキは相変わらずの隆盛ぶりを見せていますね。コンビニのスイーツ売り場にも必ずあるアイテム。チーズ党って多いんですね。

長じてからはお酒を飲むようになり、スイーツからは遠ざかりました。今ではチーズはワインのお供で、好みもシンプルテイストのサムソーやコンテから、濃厚なマンステール、エポワスまで幅広くなりましたが、なぜかお菓子に加工されたものは苦手になりました。もうチーズケーキを作ることもないでしょう。でもあのチーズケーキは母と一緒に作った思い出の味であり、レシピ本の重厚な雰囲気と共に忘れられません。

フレンチジョーク アムールの国フランス娘に魅せられて

ある男が秘書を探していると、3人の若い女性が面接に訪れた。一人はアメリカ人。もう一人はイギリス人。最後の一人はフランス人。誰にするか迷った彼は、今からする質問に一番いい回答を出した女性を雇うことにした。”あなたは眉目秀麗で男らしい一流アスリート24人と一緒にプライベートジェットに乗っています。女性はあなた一人です。そのジェット機は故障し、砂漠の真ん中に不時着してしまいます。そこにはあなたとアスリートたちの他には誰もいません。さてあなたならどうしますか?”アメリカ人女性は即座に答えた。”私は自分の身は自分で守ります。私の祖国は開拓者精神が生き続ける国ですから。私は彼らを外に誘導してから飛行機に乗り込み、ドアを封鎖して救助隊が来るのを待ちます” ”なるほど”と男は言ってイギリス人女性の方を向き”あなたならどうしますか?”と尋ねた。イギリス人女性は”私は長きにわたる騎士道精神の伝統を持つ国の出身です。輝ける鎧に身を包んだ騎士たちの伝説はご存知でしょう。私は一番屈強な男性を見つけて、彼に私の名誉を守ってくれるように頼みます。彼はきっと私を守ってくれます”男はいかにも、といった風に頷き、”わかりました、ではあなたは?”とフランス人女性に尋ねた。フランス人女性は長いこと考えていた。あまりに長いので男はイライラして言った。”質問の意味がわからないのですか?”フランス人女性は肩をすくめて答えた。”もちろん意味はわかっていますよ。でも一体何が問題なの?”

これはブリジット・バルドーの伝記”Bardot Two lives”で紹介されていたフレンチジョーク。バルドーは20世紀のフランス女優の中で一番ぐらいに好きな女優さん。パリ16区のブルジョワ出身のお嬢様ながら、当時はタブーとされていたヌードやセックスにも実にオープンで、奔放で天衣無縫な魅力の持ち主だった。もともとバレリーナを目指していた彼女は目を見張る美しいプロポーションを誇り、とわざわざ言わなくてもこの写真でご理解いただけるだろう、ヴィーナスの如き豊かなバスト、49センチと言われる驚異的に細いウエスト(最初の夫のヴァディムが両手を回せたほどだという)や、アキレス腱が削げたような切れ味鋭い足首など全て羨ましい限りである。この美貌でこのスタイル、多くの男性を虜にし、翻弄した。ヴァディムはバルドーと別れた後、アネット・ストロイベルグ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェーン・フォンダと交際し、それぞれをスターダムに押し上げていったが、最初がバルドーっていうのが許せない、と誰かが言っていた。わかります。一番女として魅力的に思えるもの。いいね、フランス娘!

五社英雄が描く極彩色の苦界 吉原炎上

明治40年の東京・吉原。誰も教えてくれない歴史。昔、川崎競馬場に行った帰り、ショートカットの歓楽街を通ってJR川崎駅まで歩いたことがあります。女だとまず足を踏み入れる機会のないエリア、怖いもの見たさの社会科見学気分です。川崎競馬場から帰途につく人々の群れは男性ばかり。おりしも極寒の季節、紫色のムートンのコートを着ていた私はかなり場違いでした。そこで働く者と勘違いされたのか、好奇の視線を感じながら歩いていると、あるショーウィンドウに女性が数名座っていたのに驚いたのですが、この映画を観てまさにそれが昔の吉原のシステムだったことを知りました。

吉原で働く女郎は、貧しい出自か、親の借金のカタに売られてきた女の子ばかり。でもここにいれば三度の食事にありつけると健気です。冒頭の岸田今日子によるナレーションが印象的。吉原への道は二つあったといえましょう。男が通る極楽への道。女が通る地獄への道。名取裕子演じる主人公・ひさのも親の借金のカタに売られた身。先輩の花魁や女将から花魁道の手ほどきを受けます。殺し文句が大事。床上手で泣きのうまい子がお得意さんを作る。とにかくリピーターになってもらうこと。今のマーケティング戦略と同じですね。美人はそれだけで傲慢だからダメ。なるほど。ふのりを局部に塗り、辛い行為に耐える女郎たち。ふのりとは、昔障子を張り替えるのに使ったのりだと聞いたことがありますが、そんな用途もあったのですね。ひさのは一生懸命学び、お披露目に臨みます。客はガラス越しに女郎たちを値踏みする。川崎の歓楽街の光景がよみがえります。しかしいざ客を取る段になると激しい嫌悪を示し、脱走するひさの。その道中で根津甚八演じる救世軍に身を投じた財閥の御曹司・古島と偶然出会う。古島はひさのを救おうとして果たせず、しかしお互い忘れ得ぬ存在となります。根津甚八、味のある演技でした。

連れ戻され、折檻を受けたひさのに女郎の心得を教える先輩花魁・九重(二宮さよ子)。このレズビアンシーン官能的で迫力満点、生々しすぎて怖いくらいです。二宮さよ子の色っぽさは格が違います。人気女優二人がこんなシーンを演じているのにちょっとびっくり。続いて藤真利子、西川峰子、かたせ梨乃演じる花魁&女郎のエピソードが綴られます。藤真利子演じる花魁・吉里は、本気で愛した男に去られて絶望して自殺する。西川峰子・小花は、没落した名家の出と吹聴しているがすべては嘘。最後結核で果てる姿が凄惨です。かたせ梨乃・菊川は要領が悪いと下級の置屋に追いやられてもたくましく生き、結婚して幸せをつかむ。と思いきや旦那はとんだ食わせもので、最下層の女郎屋に身を落とす。最後、最高級の御職に上り詰め、紫太夫と名乗るひさのが唯一愛したのは古島でした。登楼しても決してひさのと床を共にすることはなかった古島。商品としてのひさのを買いたくはなかったのでしょう。二人の気持ちは一つでした。でもひさのは身請けしたいと古島が出した金を花魁道中に使いたいと言いだします。そして豪華な花魁道中が実現する。花魁道中と言う言葉、寡聞にして知りませんでした。花魁がお供を連れて店屋まで練り歩く、いわばファッションショーのようなものだったようですね。黒塗りの高下駄を履いて外八文字と呼ばれる独特の歩き方を披露する。よくあんな歩き方を考え出したものですー当時のモンローウォークでしょうか。

古島への思いは捨てきれないけれど、一度袖にした相手に縋るのは筋ではないと菊川に諭され、身請けしようといった別の男との結婚を決めるひさの。吉原を去るその日に吉原は大火に見舞われ・・・というラスト。重くて熱い2時間でした。五社英雄監督が描く極彩色の吉原絵巻。五社作品は、夏目雅子のなめたらいかんぜよで有名な鬼龍院花子の生涯にせよ、高知の遊郭を描いた陽暉楼にせよ、どろどろした重いトーンが特徴的です。登場人物はみな暗澹たる人生の中でもがいています。その宿命的な暗がりに一瞬、生の歓び、艶が閃く。小花の壮絶な断末魔のシーンを含め、出血シーンが多いのは吉原と言う苦界に生きた女人の業を物語っているのでしょうか。映画を観ていて、俳優から最高の演技を引き出す名手だったヴィスコンティを思い出しました。五社監督もそうだったのでは。花魁は遊郭の大黒柱。そこに携わるすべての人間の糧となる存在で高位の称号だからでしょうか、みな名前でなくおいらん、おいらんと呼んでいたのが印象的でした。花魁・・・美しい漢字ですね。