ジャック・サマーズビー 愛に殉じた男

羊たちの沈黙で二度目のアカデミー主演女優賞を受賞し、乗りに乗っていたジョディ・フォスターの美しさが輝く。16世紀フランス、失踪した男になりすましてその男の家庭に入り込み、詐欺罪で訴えられ処刑されたマルタン・ゲール事件を下敷きに、舞台を南北戦争終結後のアメリカ南部に置いた映画。ご当地フランスではジェラール・ドパルデューとナタリー・バイ主演で映画化されている(たまたま聴いたミシェル・ポルタルによるテーマ音楽がドラマチックでよかった!セザール賞音楽賞を受賞している。)南北戦争に出征し、生死不明となっていた農園経営者のジャック・サマーズビー(リチャード・ギア)が6年ぶりに帰還する。死んだものと諦めていた妻のローレル(ジョデイ・フォスター)や周囲は困惑するが、以前は冷たい性格で嫌われ者だった彼が別人のように村人と協調し、ローレルに愛情を注ぎ、打ち解けていく。煙草を栽培して村を活性化しようと新機軸を打ち出したり、リーダーシップをとれるジャックをいつしか周囲は尊敬するようになる。しかし、ジャックのいない間にローレルと親しくなっていたオーリンは最初からジャックが偽物ではないかと疑っている。

子供も生まれ幸せな日々を送るジャックとローレル。しかし好事魔多し。ジャックは過去に喧嘩で人を殺した容疑で逮捕され、裁判にかけられる。ローレルには初めからジャックが偽物だとわかっていた。それが証明されれば(偽)ジャックの容疑は晴れる。法廷でローレルは、彼はジャック・サマーズビーではない、妻である私が一番よくわかる、なぜなら私は夫のジャック・サマーズビーをこんな風に愛したことはなかったからと切々と訴える。何者だかわからない愛する男を救いたい一心だ。このシーンのジョディ・フォスター忘れられない。知的でクールなイメージの彼女には珍しく平凡な主婦役でもさすがの演技。彼女の長いキャリアの中で、女性的な美しさが遺憾なく発揮されたという点ではこの作品が最高だったと思っている。しかし、(偽)ジャックはローレルに語る。南北戦争でジャック・サマーズビーと行動を共にし、多くのことを語り合った。その後ジャックは戦死する。それをきっかけに、今までの人生に嫌気がさしていた彼は、ジャックに成りすまして別の人生を生きてみようと思い立った。ジャックの情報はいやというほど頭に叩き込んでいる。幼い頃のエピソード、テネシー州の小さな村で農園を経営していたこと、妻と子供・・・意を決してジャックの語った村に行ってみると、美しい妻のローレルがいた。彼も最初からローレルに惹かれた。そんな彼の人生で、一番価値があったのはローレルを愛し、共に幸せな日々を送ったこと。だからその誇りを胸に、このままジャック・サマーズビーとして死にたいと。このリチャード・ギアも泣かせる。ジャックの罪は確定し、衆人環視の中、もちろんローレルも見守る中、絞首刑に処される。涙ぐんでしまった。

リチャード・ギアは若い頃のアメリカン・ジゴロの高級ジゴロ役もかっこよかったけれど、年を重ねて断然よくなった人。最近ではオランジーナのCMでアメリカ人寅さんを演じていい味出していたし (このCM、フランスの飲料の宣伝にアメリカ人俳優を起用して日本の国民的ヒーロー?を演じさせるって不思議なコンセプトだった。)数年前他界したやしきたかじんとその妻を小説化した”殉愛”という作品が物議を醸した話を聞いた時、真っ先にこの映画を思い出した。愛に殉じるとはまさにこの映画のリチャード・ギア。自分はジャック・サマーズビーではないと証明できれば、詐欺罪には問われても死刑は免れたはず。愛するローレルと子供のために生きることが真っ当だとは思うが、男の自負とは厄介なものでもあるのか。

火の接吻 ロミオとジュリエットの物語を運命のように引き受ける二人

この美しい邦題!観ずにはいられない。原題はLes amants de Verone、ヴェローナの恋人たち、ロミオとジュリエットの翻案である。20世紀末、フランスで恐るべき子供と称され、その才能を絶賛された映画監督・レオス・カラックスもこの映画に傾倒している。彼のアレックス三部作の最終作・ポンヌフの恋人の原題はLes amants du pont-neufと火の接吻の原題にそっくり。ポンヌフの恋人でのアレックスは口から火を噴く大道芸人だが、こちらの映画の主人公・アンジェロはムラノのガラス職人で、ガラスを吹く時に火が赤々と燃え上がる。そしてそのアンジェロに扮したセルジュ・レジアニをカラックスは汚れた血で起用している。汚れた血の最後、手負いのアレックスがそれを隠して愛しいアンナの許にたどり着くのはまさにアンジェロの最期と一緒。カラックスがオマージュを捧げたくなるのもよくわかる、魅力的な悲劇なのである。

カンヌ映画祭でグランプリに輝いたクロード・ルルーシュの”男と女”の印象が強いアヌーク・エーメ。冬のドーヴィルを舞台に、ムートンを上品に着こなす大人の女っぷりが素敵だった彼女、火の接吻ではその若き日の瑞々しい美貌を堪能できる。水の都・べニスの没落した名家の令嬢・ジョルジアが彼女の役。ロミオとジュリエットの映画を撮るために街を訪れたプロデューサーと女優が、撮影で使う年代ものの調度品を探してジョルジアの屋敷にやってくる。当主のエットーレは家名を誇り過去の栄華に執着し続け、その徒弟アメデオは戦傷により精神に異常を来しており、機関銃を撃つポーズを絶えず繰り返す。これがのちの悲劇の伏線となっている。エットーレの妻も家政婦もみな風変わり。変人ばかりの中でジョルジアだけが清純な美しさを放っている。一家はラファエレという男に経済的援助を受け、ラファエレはジョルジアの婚約者になっているが、ジョルジアは彼を嫌っている。ジョルジアは女優に職を紹介してくれと頼み、女優は撮影所に来るように言う。ちょうどロミオとジュリエットで一番有名なシーンと思しきバルコニーでの逢瀬を撮るところで、ジョルジアは女優のスタンドインの仕事を得る。ムラノのガラス職人・アンジェロは女優のファンで、彼女見たさに撮影所を訪れると、なぜかエキストラと間違えられて衣裳を着せられる。いざ撮影が始まると、ロミオを演じる役者が高所恐怖症で高い縄梯子を登れない。後ろ姿の撮影なので、急遽アンジェロが代役を務めることになり、縄梯子を登ってバルコニーにたどり着くと、そこにはジュリエットに扮したジョルジアがいて・・・二人は一目で恋に落ちる。運命に引き寄せられるように全くの偶然からロミオとジュリエットを演じた二人が、現実の恋人同士になってしまうなんて、なんてロマンチック!

監督のアンドレ・カイヤットの書下ろしのストーリーを枯れ葉で有名な詩人のジャック・プレヴェールが脚色した作品で、詩人の感性が随所に煌く名作である。カイヤットは社会派の作品で広く知られていたのが、こんなに甘美な映画も撮っていたのかと驚いた。ベニスでのロマンスというと当時はキャサリン・ヘップバーンの”旅情”が有名だった。それが火の接吻で恋する二人が薔薇の花で飾られたゴンドラに乗るシーンを見て以来、ベニスと言えば断然こちら!と思うようになった。映画では、撮影隊がロミオとジュリエットゆかりの地、ヴェローナを訪れることになり、二人も同行して夢のような日々を過ごす。しかしムラノのガラス職人に名家の令嬢はやれないということで、ジョルジアの家人は与太者に頼んでアンジェロを殺そうとするが失敗する。ジョルジアの父は自らアンジェロを手にかけようとし、アンジェロはそれを逃れながらも、気のふれたアメデオの乱射した銃に撃たれる。命からがら撮影所のジョルジアの許にたどり着いたアンジェロだが、ジョルジアの腕の中で息絶え、絶望したジョルジアは動脈を切って後を追う。まさにロミオとジュリエットを地で行ってしまった二人なのである。

上のゴンドラの二人幸せそう。激しい恋のさなかにいて、もうお互いしか見えない状態の二人。羨ましい。セルジュ・レジアニはやんちゃでコミカルな顔立ちながら、若い頃はそれなりにかっこいい。赤々と燃え盛る火をバックに仕事するガラス職人は頼もしく、レジアニの野卑な魅力が炸裂する。私がジョルジアだったらやはりこの人に恋してしまっただろうと思わせる演出はさすが。

モンパルナスの灯然り、ローラ然り、81/2然り、愛よもう一度然り・・・改めて思い出すと、私が観てきたアヌーク・エーメの主演作はそれこそ女ざかりの彼女の魅力がいっぱいだが、若き日の彼女と言えばこちらの他にもう一つ、フランスのダンディズムの極み、悪魔的嗜好と頽廃趣味で有名なバルベー・ドールヴィリー原作の真紅のカーテンを映画化した邦題”恋ざんげ”も忘れがたい。ナラタージュで進行するパントマイム劇で、エーメの美しさが物語の悪魔的な魅力によっていっそう輝く。一見の価値あり。それにしても火の接吻も恋ざんげも、ともに邦題が素敵だ。恋ざんげって、原作を読んだ身には唸らせるようなタイトル。何か出所があるのかと検索したら、伍代夏子の同名の歌が出てきた。歌のタイトルはおそらくこの映画からとったのだろう。そういえば宇野千代に色ざんげという小説があった。映画の公開は小説より後。宇野千代作品にインスパイアされたのだろうか。

A chacun son enfer…誰にもそれぞれの地獄がある

中森明菜、松田聖子、山口百恵の歌姫たち三者三様の生き方に触れたインターネットの記事にコメント欄がついていて、どこの家庭でも一つや二つはそれなりの悩みがあるはず、とコメントしていた人がいた。それでこの映画を思い出した。社会派映画監督として知られるアンドレ・カイヤットの1977年の作品で、それはそれは怖~い映画だった。一見幸せそうに見える家庭に潜んでいた地獄・・・吐き気を催すような恐怖を覚えた。話は逸れるが主演した当時のフランスきっての人気女優アニー・ジラルド、何とも汚いおばさんといった雰囲気で、フランス人の好みを不思議に思った。日本で人気があったフランスの俳優と言えば容姿端麗で清潔感のあるカトリーヌ・ドヌーヴやアラン・ドロンだったが、フランス人はいわば腐る寸前の、よく言えば味のある人がお好きなようだ。爛熟期の魅力に敏感なのだろう。素材のよさだけではダメで、人生経験を重ねた大人の風格が求められるのか。確かに、まさに爛熟した、汚れた雑巾の如きアニー・ジラルドの演技は素晴らしかった。とはいえ、セルジュ・ゲンズブールジェーン・バーキン、ロジェ・バディム&カトリーヌ・ドヌーヴ、クリスチャン・マルカン&ドミニク・サンダ、などなど、おじさまと若い女の子のカップルが多いのもフランスである。昔、フランス人歌手のフランソワーズ・アルディが、誰だったか日本の有名人女性との対談で、”フランスの男性は大人の女の魅力がわかるから、若い女ばかりちやほやされる日本とは違って羨ましい”などと言われ、”あらフランス人男性だって若い女の子が好きですよ”とあっさり答えていたのを思い出す。大人の魅力がわかる大人の世界といったフランス観が昭和の日本では喧伝されていたが、若い女が好きなのは男の性、その傾向に国境はない。フランス人女性に学ぶ・・・とか鵜呑みにしないほうがいい。

閑話休題。邦題は愛の地獄。原題がこの、誰にもそれぞれの地獄がある、である。その後、北京語を勉強して、北京語にも”家家都有本難念的経”という諺があるのを知った。”どんな家にも一つは唱えるのが難しいお経がある”、どんな家にも必ず一つは問題があるという意味である。人間が考えることはみな同じ、洋の東西を問わないのだろう。どちらも年を重ねるにつれて心に沁みる。名言だと思う。完全無欠な人間はいない。誰でも自分の中に不完全なもの、満ち足りないものを抱えて生きている。自分の中にある地獄ーそれに気づかないで生きていけたら幸せだろうが、そんな幸運な人は少ないのではないか。人間の一生は自分の中の地獄との闘いでもある。それに侵食されずに生きていくのは大変なことだ。自死を選ぶ人を見ると、恐らく己の地獄に呑み込まれてしまったのだろうと痛ましく思う。ニーチェも、深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いているのだと言った。童話の、王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしました、めでたし、めでたしというエンディングに何の疑問も感じなかった子供時代が懐かしい。人生は重く、苦い。

海を感じる時 暗い情熱の滾る青春を持て余して

何が驚きって、記憶を辿るとこの本を初めて読んだのは小学生の時なのだ。それもお小遣いで購入して。なんておませな・・・今ほど情報が溢れていない時代でも、小学生の好奇心は休むことを知らず、精一杯触手を伸ばして面白いものを探していたに違いない。講談社の単行本の表紙、児童書とは明らかに違う大人の雰囲気で嬉しかった。恋愛という未知の世界に心ときめかせる年ごろーそれにしても子供にはあまりに重い小説だった。作者の中沢けい、18歳の処女作である。高度経済成長が終わり、学生運動に失望した無気力、無関心、無責任の三無主義、いわゆるしらけ世代の高校生の性愛体験。地方都市の高校の新聞部に所属する早熟な主人公は小学生の時に父親を亡くし、女手一つで育てられる。母親にとっては希望の星だ。高校生、背伸びしたい盛りに彼女は新聞部の先輩・高野に恋をする。同級生より一足先に大人になりたい。そんな願望が彼女を駆り立て、決して自分を恋愛対象としては見てくれない高野に身を任せる。それが母親の知るところとなり、母親は何か汚いものでも見るような目つきで彼女を見、半狂乱になる。処女でお嫁に行きなさいと言われた時代なのだろう。彼女は高野への思いを募らせるが、彼が求めるのは体だけ。母との関係の緊張、高野への一方的な愛、すべてが満たされないまま時間ばかりが過ぎてゆく。

この小説、何よりもまずタイトルがいい。今まで憚られて語られずに来た、女性の性の神秘が明かされるのでは・・・との期待通りに、生々しい性描写に衝撃を受ける。高野の子を妊娠したのではないかと不安に駆られているとき、不意に体を貫くように始まる生理。”小さな蛇が鋭く体をくねらせ、出てきた。小さな赤い蛇が水晶のような目で、静かに見つめている”って、鮮やかでリアル。折しも雨に濡れたスカートの中に手を忍ばせ、彼女は生理を確かめる。”赤茶色の血が指先で、生臭いにおいを発していた” 美化するそぶりもない中沢けいが好きだ。そしておそらくこの小説を読んだ全ての人が胸に刻んだ圧巻のシーンは、ラストの、生理の血を夜の暗い海にたとえた箇所だろう。”海の水には、ねばり気があるようだ。タールの海だ。私の下腹にもタールの海がある。うねうねと、予兆と甘美な快楽が打ち寄せる” 若い表現者の描く海は概して青春と結びつきやすい祝福された場所。それを全く違った感性で捉える斬新さ。”世界中の女たちの生理の血をあつめたらばこんな暗い海ができるだろう。呪いにみちた波音を上げるだろう。下降をしいられる意識。生理の生ぐさいにおいの中へ” ヨットで遊び、サーフィンに興じ、水着で開放的になれる海。そんなイメージを一変させ、10代で女の業を見据えてしまった中沢けいって何者なのだろう。やはり18歳で衝撃の処女作をものしたフランソワーズ・サガンは青春の光と影を描いた。中沢けいの描く青春は精神と肉体のアンバランスな成長に戸惑う暗~い世界。光など差さない。この暗さがまたたまらなくいいのだけれど。

いかにも昭和の価値観がいっぱいのこの小説が数年前に映画化されたというので驚いた。というよりそれまで映画化されなかったことの方が不思議か。この小説が発表されてからどのくらい経っていたのかわからないが、衝撃的な内容だったからだろう、コンセプトアルバムが制作された。当時はカセットテープの時代で、ラジオから流れてきた歌を母が録音してくれた。私が気に入っていたのは”あなたの下宿”という歌。小椋佳作詞・作曲、オペラ歌手の五十嵐麻利江が歌っていて、哀愁を帯びた声が素敵だった。主人公が、東京の大学に進学した高野を追って下宿を訪ねる歌。ドラマチックで未だに覚えている。♪あなたから届いた返事封筒の厚さだけ喜んで それだけにあなたの遠さ読み終えて なおさらの淋しさ♪自分も恋人を追って下宿を訪ねてみたいなどと子供心に思った。残念ながらそんな機会には一度も恵まれなかった。昨年だったか、横浜のホテルニューグランドのレストランで隣のテーブルに見覚えのある女性が座った。中沢けいだった。健啖家ぶりを発揮してエネルギッシュに友人と思しき女性と食事を楽しんでいた(ように見えた)。海を感じる時から数十年・・・暗い情熱を感じさせる風貌は健在で頼もしかった。私は勝手に、この人に土着の縄文民族のにおいを感じて魅せられている。

lust caution・・・色・戒 不倶戴天の仲なのに・・・どんな関係でも愛は愛

20世紀中国を代表する女流作家・張愛玲の作品の映画化。邦題はラスト・コーション。てっきり最後の警告かと思ったら違い。。。日本語だとわかりませんね。日本公開時、”奥様悶絶!中国映画ラスト・コーションのやりすぎ四十八手”という煽情的な週刊誌の惹句に乗っかり観に行った。確かにこの人たちなにやってるの?と訝るアクロバティックなラブシーンの連続で、なまめかしいことこの上ない。しかし張愛玲がそんな下りを描くとも思えず、原作はいったいどんな話なのかと読んでみた。

1942年、日本占領下の上海で抗日運動に身を投じる女子大生のスパイ・王佳芝は、日本の傀儡政権のボス・易に近づき、暗殺の機会をうかがう。その過程で彼女の色仕掛けに易が乗るのだが、映画はずいぶんと想像をたくましくした展開になっている。命を狙う者とそうとは知らずに若い女に感情移入していく中年男。ましてや戦時下、死と隣り合わせの日常がもたらす緊張感から、二人の愛の営みは暴力的なまでに激しくなり・・・などとは、小説では描かれていない。易は佳芝に惹かれ、佳芝も知らず知らずのうちに易を愛してしまう。愛の記念に易は佳芝に指輪を贈ると言い、二人は宝石店に出かける。そこで佳芝の仲間は易を暗殺する計画だ。宝石店の店主はピンクダイヤの指輪を勧める。二人で指輪を選ぶー幸せの象徴のような行為が死出の旅の始まりとは皮肉なものだ。しかし決行の直前、佳芝は彼が自分を本当に愛していることを感じ取る。そして彼を逃がすのだ。暗殺を画策した学生たちは一網打尽にされ、銃殺される。もちろん佳芝も。易は、彼女は処刑される前、自分を恨んだだろうと追想する。だが”毒なき者、男にあらず”、このような男でなければ彼女も自分を愛さなかったに違いないとも思う。易夫人と、貿易商の妻を装った佳芝が、ほかの御婦人方と共に麻雀に興じる場面から始まった小説は、佳芝の処刑を知らない易夫人たちが麻雀卓を囲むところで終わる。何ともやるせない気分にさせる幕切れである。

張愛玲の小説は愛に関しては悲観的なものが多く、読み終わると淋しいような悲しいような気持ちに捉えられる。恐らく彼女自身にあまり幸福な愛の思い出がなかったためではないかと思う。張愛玲は1920年、上海の名門家庭に生まれた。父親は旧社会の貴族の息子で阿片を吸い放蕩三昧を繰り返し、進歩的で芸術を愛する母親とは全くそりが合わず、いさかいの絶えない夫婦だったという。また母親は幼い張愛玲を残してイギリスに留学してしまい、母親の留守中には芸妓上がりの女性が家に入り込んだそうで、彼女は温かい家庭を知らずに育った。ロマンチックなタイトルを冠しながらいい意味で読者を裏切る傾城の恋然り、愛し合いながらも結ばれない二人を描いた半生縁然り、彼女の小説の登場人物は、人間の手ではどうにもならない運命とでもいったものに翻弄され、そのがんじがらめの人生の中で束の間の愛に身を投じるが、愛によって幸福になりはしない。張愛玲はそれが人生なのだと諦観しているきらいがある。スパイでありながらその標的を愛してしまい、本分を投げやる佳芝は哀しい。易は易で、佳芝を殺さない選択もありえた。しかし自分の保身のためにはやむを得なかったと言い聞かせ、彼女は生きていても死んで亡霊となっても自分のものだと呟く。まさに毒なき者、男にあらずだ。

 

映画では、愛国主義の学生たちが傀儡政権のトップ暗殺を画策するなんてと荒唐無稽な印象を受けたものの、小説だと結構リアルだった。異常な状況下を借りての過激なアクロバティック・ラブ・シーンは打ってつけであり、映画をヒットさせるためには必要だったのだろう。しかし何と言っても一番心に残ったのは易役のトニー・レオン。全身から中年男の色気を発散させて見事だ。何が凄いって、ラブシーンよりスーツ姿のトニーの方が全然色っぽいこと。むかしむかし、やはりラブシーンが話題となったデュラスの”愛人”でも、ラブシーンは主演のレオン・カーフェィではなく代役を使ったというが、こちらもまさかトニー・レオンがあのラブシーンを演じたとは思えない。でもそんなことはどうでもいい。いい役者は脱ぐ必要などない、着衣で勝負の見本のような俳優だ。ラブシーンが大変だったであろう佳芝役の女優さんも綺麗だった。色・戒。身の破滅に至るとも情欲を抑えきれない人間という業の深い生き物に、張愛玲は欲望は慎みなさいとメッセージを残したのだろうか。思いもよらず愛し合ってしまう不倶戴天の二人が哀しい。

ツバメのように

ユーミンには人の死を歌った名曲が多い。デビューアルバムのひこうき雲のみずみずしい感性は言うまでもないが、その後に発表した死にまつわる歌もみな、個人的な体験が普遍化したかの如く、感情移入できるもの。戦争で恋人を亡くし精神に異常を来した女性を描くミス・ロンリー然り、白血病で他界した彼との思い出を語る雨に消えたジョガー然り、失恋して旅路での死を選ぶコンパートメント然り。と列挙してみたらみな時のないホテルからなのか。私がなんだか淋しい時に思い出すのはいつも決まってこのツバメのように、なのだが。

ユーミン自身が語っているように、ツバメのように、はシャンソンのパリ・ソワールを下敷きにしている。投身自殺した女性の顔にハンカチがかけられていたのが、本家ではパリ・ソワールという夕刊誌。その彼女を誰かがあまり美人じゃないと言ったのも本家の通り。そんな裏話を聞いても、ユーミンの歌の魅力は全く色あせない。女性が死を選んだのは、裏切った恋人のせいじゃない、どんな言葉に託そうと淋しさはいつも人の痛みなの、と歌うユーミン。30年ぐらい前、コンパートメントってミュージックビデオにも収録されていた。今でも痛切に思う・・淋しさはいつも人の痛み。

 

 

罪深きめんどり

このタイトルがなんだかわかる人がどれだけいるだろう。10年以上前、日本人公務員である夫が横領した10数億もの公金を貢がせ、悪女と騒がれたチリ妻アニータ。彼女がチリでリリースした歌のタイトルである。他にアニータ大統領、自称マッチョ、日本のホクロ、という歌があった。日本のホクロは確か日本人男性をバカにした歌だった。このネーミングセンス素晴らしい。チリではヒロインのように迎え入れられたのか、時の人のパワーは凄く、アニータのレコーディングシーンを放映する日本の放送局もあった。それをしっかり見て未だに覚えている自分が笑えるが、こういう話って心に残る。ユーミンも名作・”時のないホテル”で、♪堅いニュースはすぐに忘れてゴシップだけが残る♪と歌っていたっけ。2017年ももうすぐ暮れる。今年も数えきれないゴシップが世間を賑わせた。罪深きめんどりの話、私はたぶん一生忘れないだろうが、今年のゴシップでそれだけ寿命が長いものがあるかどうか。直近のホットな話題は船越・松居の離婚成立と太川陽介が夫人の密会疑惑を受けて行った記者会見。前者にはいい印象がないものの、太川陽介のは未見ながらなんか面白い。Youtubeで彼のLui Luiパフォーマンスまで見てしまった。そして気づいたこと・・・LとRの判別、日本人には難しいのに、太川陽介はしっかりLでルイルイと言っている。だから何?いえ、それだけだけど印象的。奥様、明るいルイルイで皆を幸せにする太川陽介のためにも罪深きめんどりにはならないでください。太川陽介、若い頃かっこよかったんですね。。。

ある微笑 パリからリヴィエラへ…ひと夏の恋は甘くて残酷

20世紀のフランス人作家で最も商業的に成功したフランソワーズ・サガン。18歳で書いた処女作・悲しみよこんにちはの世界的ヒットで若くして巨万の富を得、時代の寵児になった。日本でも彼女の著作は多数翻訳され、多感な文学少女たちに多大な影響を及ぼしたと思われる。私も10代の頃悲しみよこんにちわを読んで衝撃を受けた。小説の内容にーというよりは、それを書いたのが18歳の女の子だという事実にだろう。もちろん、18歳の女の子が書いたとは俄かには信じがたい完成された小説世界に驚嘆したのも事実。彼女のその後の波乱万丈の人生は有名だが、21世紀の日本では彼女を知らない人も多いだろう。もともと裕福なブルジョワ家庭に生まれ、恵まれた少女時代を過ごしたサガン。幼い頃から大変な読書好きだったという。ペンネームのサガンは、彼女が最も敬愛した作家・プルーストの小説の登場人物からとったものである。デビュー作が大変な評判を取った後で彼女は、次の作品をみなが機関銃を構えて待っているのを知ってるわと語った。プレッシャーに押しつぶされることなく、いわば精神的包囲網を突破して発表されたのがこの”ある微笑”であり、個人的にはサガン作品の中で一番好きな一篇である。

ソルボンヌ大生のドミニックにはベルトランという同級生の恋人がいる。ある日ベルトランの叔父である旅行家の男性・リュックに紹介され、ドミニックは強く惹かれていく。彼は気軽に浮気を楽しめる男で、妻のフランソワーズの存在はそれと弁え、ドミニックを誘う。二人の男性の間で揺れ動くドミニックは、慣れ親しんだパリの街が違った顔を持っていることに気づく。恋する人間がよく経験するジャメ・ヴュの世界。ドミニックにとって、パリは美しい黄金色の硬い都であり、決して人に騙されない都。そのパリの明け方、夜通し遊び疲れてベルシイ河岸から眺めるセーヌ河は、おもちゃの中に座った悲し気な子供のよう、と何とも心憎い表現をするサガン。ベルトランの別荘に招待されたドミニックはリュックとフランソワーズと共に休日を楽しむ。ドミニックは、まだ海を見たことがないと言ってみなを驚かせる。するとリュックはすかさず、見せてあげるよ、と言う。女心を知り尽くした男の手管。夕食後、リュックがドミニックを散歩に誘い、二人は初めてキスする。ベルトランの場合、キスはすぐに次の欲望に取って代わり、不要になってしまう、いわば欲望の一段階でしかないが、リュックとのキスは何か尽きることのない満たされたものだった、と成熟した男性の恋のマジックに落ちていく女性を表現するサガン。熱いキスに酔いながら、”私は自分が怖かった、彼が怖かった、その瞬間でないすべてのものが怖かった”と言うドミニックは、幸せを永遠に保存することなどできないとわかっている。幸せの絶頂にいてもただそれに浸りきるのではなく、かけがえのない時間が過ぎ去り、失われることへの恐怖を覚えてしまうのは人間の性だろう。

フランソワーズ・サガンは24歳で最初の結婚をしており、その相手はギ・シェレールと言う大手出版社アシェットの重役で、彼女より20歳近く年上だった。夜遊びが大好きな妻と早朝から乗馬に出かける夫ではライフスタイルが違いすぎ、結婚生活は長くは続かなかったものの、彼女は若いときから中年男の魅力に敏感だったのだろう。悲しみよこんにちはの男やもめの父にしろ、ある微笑のリュックにしろ、サガンの小説で魅力的に描かれているのは中年男性ばかりで、若い男は頼りなく、時に滑稽なカリカチュアとなっている。ドミニックは初めて会ったリュックを、灰色の瞳を持ち、疲れた様子をしていてほとんど悲し気だった、ある意味で彼は美しかった、と描写している。早熟な文学少女・サガンらしい感性だ。自分に置き換えてみると、若い頃は若くて見栄えのいい男の子にしか興味はなかったので、ある微笑を読んでいてもなぜこんなおじさんがいいのかと不思議でならなかった。本題からは逸れるが、実家に帰省したドミニックが川で水切りをする場面がある。水切り=ricochet。ちょうどそのころ、ボウイのアルバム・Let’s danceが流行っていて、その中にRicochetという歌が収録されていた。相乗効果でricochetがいともたやすく記憶に刻まれたのが嬉しかった。

閑話休題。夏休みを実家で過ごしていたドミニックはリュックから、今アヴィニヨンにいますとの手紙を受け取る。迷うことなくアヴィニヨンに向かうドミニック。しかし田舎の両親の家を発つ時、初めて両親の庇護の外に出る気がしたという彼女はやはり不安だったのだろう。アヴィニヨンからリュックの車でサン・ラファエルに向かう途中、ドミニックにとって初めての海が広がる。素晴らしい景色。海の美しさに驚嘆する一方で、ドミニックはリュックが得意気に海を見せて彼女の反応をうかがうのではないかと恐れた。リュックは、ただ海を指さして、ほら海だよ、と言っただけだった。そのさりげなさ。かっこよすぎるおじさんリュック。二人の傍らで夜の海は灰色になるまで褪せていく。ここはある微笑の中で一番美しいシーンだと思われる。カンヌの高級ホテルに投宿し、昼間は海を、夜はバーでの時間を楽しむ二人。休暇はいつしか終わる。二人はここが旅先だということを正視したくない。パリに戻ればお互いそれぞれの場所に帰るしかないから。そんなことには慣れっこのリュックはそれでよかった。しかしドミニックは本気で彼を愛するようになってしまう。

パリでは、何事もなかったように再びリュック、フランソワーズ、ベルトランとで昼食を共にするドミニック。リュックはカンヌでよく聴いたレコードをかける。二人の思い出が詰まったレコードだ。このメロディーが大好きだと言ってドミニックに微笑するリュックにとって二人の愛はもう過去のものだった。ドミニックの変化に薄々気づいていたベルトランは彼女を去り、ドミニックは独りぼっちになってしまう。孤独と苦しみの日々。報われない愛。しかしある時彼女は鏡に映った自分の顔に微笑みが浮かんでいるのに気づく。彼女は声に出して呟く。独り。独り。でもそれが一体なんだ?私は一人の男を愛した一人の女だった。それはごく単純な物語で、もったいぶることもないのだ。多くは語りたくはないのよ、とばかりにシンプルに一つの愛の物語を終わらせるサガン。10代の自分にはとってもおしゃれな大人の世界に思えて、悲しみよこんにちは以上にこの作品に惹かれたのだった。

数年前、サガンの人生が映画化された。とにかく女性とは思えない破天荒な生き方をした人なので、映像化するにはうってつけの素材だったと思う。彼女の書いた小説以上にドラマチックな人生なのだ。早すぎた成功がその後の人生を狂わせたのか、彼女が引き起こしたスキャンダルの数々は、若くして成功を収めた聡明な作家の仕業とはとても思えない。1954年からの4年間にサガンが手にした印税は当時の日本円にして約1億円と言われ、彼女はそれをスポーツカーに、ナイトクラブに、ギャンブルに、湯水のごとく使った。気前のいい彼女は、友人や見知らぬ人にまで大盤振る舞いをしたという。古きよき時代のお嬢様、パリジェンヌって感じ。彼女は物凄いスピード狂で、そのために自動車事故を起こし九死に一生を得ている。そんな大事故にも懲りず、その後も夜のパリを200キロで飛ばすのが好きだったってやはり普通ではない。また、無類のギャンブル狂でもあり、家を担保に入れたり、一夜で何億もすってしまったり、フランスの賭博場から出禁を食らえばロンドンにまで出かけていくという情熱の持ち主だ。”賭博”というタイトルでエッセイもものしている彼女は、21歳(当時の成年)になったその夜、意気揚々と初めてカジノの扉を叩いたと書いている。根っからのギャンブル好きだったのだろう。映画では、生前彼女が公にしてはいなかった同性愛のことも描かれていた。サガンはバイセクシュアルだったようで、より女性を愛した。ペギー・ロッシュという女性が長年に亘るパートナーで、癌で彼女を失ったときは半狂乱に陥った。晩年は莫大な借金と孤独に苛まれ、薬物中毒でもあったサガンは、準備していた自らの墓碑銘をこう結んでいた”人生と作品を手際よく片付けたが、その死は本人だけの事件だった”。2004年、心肺代謝不全で69歳で死去。

若き日、我が世の春を楽しんだ人も一生幸せに過ごせるとは限らないが、サガンが晩年、失意の底に沈んでいたとは胸が痛む。華々しい栄光とのギャップがよけい悲しい気持ちにさせるのだろう。人並み外れた才能に恵まれながらそれを計算高く使うことを知らず、人に食い物にされたところもあった人生だったのか。しかし、長い間人生を楽しみ、遊んだので何も後悔していないと言い放つ頼もしさがまたサガンの魅力でもある。写真を見ると、左右の目の大きさが少し違う。そういう人には天才が多いと聞いた。誰よりも聡明なその目で、人間を、人生を見つめて生きたサガン。衝撃のデビュー作が10代の女の子を主人公に夏のまばゆいばかりのフレンチ・リヴィエラを舞台にしていたせいか、今でもサガンというと、過ぎてからこそわかる祝福された季節・青春の輝きが蘇ってくる。

煙草との別れ 愛しい君は二度と会えない彼方へ こんな禁煙方法もある

父が病院で闘病生活を送っていた時、病の進行と共に人の手を借りずには喫煙室まで行けなくなり(当時は病院内に喫煙室が設けられていた)、一人では好きな煙草も喫えないと嘆いていた。その姿を見て、自分がもしそうなったら辛いだろうと禁煙を思い立ったのである。しかし思い立ったはいいが、どう実行するべきか迷った。金を払って禁煙外来に行く気はなかった。タバコがいかに有害かを説く文書を読んでも効き目はないだろうと思った。どちらも長期的にみたら失敗に終わりそうな気がしたのである。長い間、嬉しいときも哀しいときも片時も離れずにきた友というか恋人のような存在である。掌を返すように悪者扱いするのは心苦しい。これは意識を変えなければ無理だと思い、大好きな人と別れる気持ちで禁煙しようと決めた。さよならだけが人生だの名言もある通り、人生に別れは付きもの。自分で意志的に選ぶ別れもあれば、相手の決断でいかんともしがたい別れもあり、果ては死別という最も悲しい別れもある。いずれにしろ、深くかかわりを持った相手との別れはつらい。

コンビニで、kioskで、数百円と引き換えに手に入れられる煙草を、運命のいたずらでもう二度と会えない人と思うようにした。何かの拍子に異次元にワープした、あるいはタイムトラベルでプトレマイオス朝の彼方へ飛んでいってしまった煙草にはもう会えない。街で見かける煙草は全て偽物で私の恋人ではない。そんな風に自分自身を洗脳し、まだ中に数本残っていた煙草のパッケージを捨てた。それ以来二度と煙草に触っていない。何度かの試行錯誤を経てではなく、一回の洗脳で煙草をやめた。禁断症状や苛立ち、倦怠感もなかった。一般に指摘されている煙草の依存性を疑わしく思ったほどだ。一種の脳内革命だったと自分では思っている。それから約10年が経ったが、煙草は一度も喫っていない。強い意志の力でやめる!と意気込んだり、どうしてもやめなければと自分を追い詰めていたら無理だったと思う。発想の転換は大切だ。喫煙者には肩身の狭いご時世、この傾向は今後一層強まるだろうが、天邪鬼な自分は、誰もが煙草などやめるころ時代に逆行してまた喫ってみたいなどと周囲に吹聴している。

ストリート・オブ・クロコダイル 不毛な袋小路の悪夢の人形劇

アメリカ出身の双子の映像作家、ブラザーズ・クエイの監督作品。双子の共同作業というだけで興味を持った。特殊なシンパシィが通い、シンクロニシティを共有することも多いという双子。神秘的な絆で結ばれているのだろう。志同じくした双子の彼らによる作品が凡庸なものであるはずはない!との期待にたがわなかった悪夢のような映画・ストリート・オブ・クロコダイル。かなりエキセントリックな世界だが、その陰鬱ながら幻想的な頽廃美は唯一無二。

ストリート・オブ・クロコダイルの地図が大写しになる。物淋しい口笛が響き渡る。くたびれかけた初老の男が劇場に入っていくと、舞台の奥は博物館になっており、中は古色蒼然、古びたねじや拡大鏡、キネトスコープが雑然と置かれている。キネトスコープを覗くと、積もり積もった埃と錆に埋もれたストリート・オブ・クロコダイルの機械仕掛けの模型が見える。ドラマチックで哀切なヴァイオリンの音。長らく止まっていた模型に男がつばを垂らすと、模型は動き始める。男は、模型の中にいたやせこけたパペットの男をつなぐひもを鋏で切る。自由になったパペットはストリート・オブ・クロコダイルを彷徨い、ある仕立て屋に吸い寄せられていく。

薄汚れたガラスに映る埃、ねじ、ひも。可愛いアウグスティンのメロディが流れる。機械仕掛けの猿がシンバルを鳴らすとそれが合図のようにニット帽をかぶった子供の人形が地面に落ちたねじを拾う。迷宮のような仕立て屋の奥にはマネキン人形が並んでいる。さらに進むと、頭の上部と眼球がない人形がパペットを待っている。人形の合図で、同様のマネキン人形が一斉に動き出し、パペットをとらえて頭部を自分たちと同じマネキンに挿げ替え、中に綿を詰め込む。剥製状態。人形が作業台に敷いたポーランドの地図の上にマジックのように取り出したのは生々しい肝臓。それを紙で包み、きれいにピン打ちし、挿げ替えたパペットの頭部につなげる。再びおびただしい埃にまみれたねじとマネキン人形が映し出され、新しい肉体を得たパペットは仕立て屋を後にする・・・って不思議な話でしょう。全体を通して無彩色で暗澹たるムードが漂い、人形の頭を挿げ替えたり生の肝臓が登場するなど不気味なシーンの連続なのに、全く不快感を覚えないどころか、ブラザーズクエイの卓越した審美眼に圧倒される。錆びたねじ、埃で汚れた調度品が俄然魅力的に見えるのが凄い。冒頭のくたびれかけた男や古色蒼然とした博物館と同じく、ストリート・オブ・クロコダイルは過去の遺物。その模型が再現する世界を支配しているのは脳をくりぬかれた人形たちで、何の意志も感情もないまま、訪れる者におそらく同じ仕打ちを繰り返しているのだろう。全くつかみどころのない話なのでかえって好奇心をそそられ、原作を読んだ。

原作者は19世紀末ポーランドに生まれたブルーノ・シュルツ。小説だけでなく、絵画にも才能を発揮した。上は彼の自画像である。ストリート・オブ・クロコダイルは”肉桂色の店”に収録された短編で、工藤幸雄氏により大鰐通りの名で訳されている。これがまた、不思議な話なのである。ある町の美しい地図に空白として描かれている大鰐通り。そこは人間の屑が住み着く腐敗した場所で、地図の製作者はその界隈を町の一部として認めるのを憚ったために空白としているかのようだ。色彩のない、全てが灰色の大鰐通りにまともな人間は近づこうとはしないが、例えば自暴自棄になったり、安い誘惑に縋りたくなったりすると、人々はそこに吸い寄せられる。街娼がたむろし、列車の発着時刻も定められていない無秩序な町で、人々は束の間の快楽をむさぼろうとする。しかし欲望は満たされないまま大鰐通りを後にするのが常だ。

シュルツが愛した生まれ故郷・ドロホビチの不健全な一画を描いたこの小説にはプロットが全くない。何度読んでも何の話だったのかわからないほど難解で、私も随分戸惑った。小都市ドロホビチを侵食した資本主義経済への批判の書とも言われているが、私は、劣等な人間が住む劣悪な地域の風紀を独特の筆致で描いているところに魅力を感じる。また、順風満帆な時はそんな地域を馬鹿にしている人間も、魔がさせばたやすく入り込んでいけると、人間の弱さに言及しているところも忘れがたい。何もかもが冴えない大鰐通りなのに、自分の立場を忘れ放逸を尽くしたい人間にはパラダイスになってしまうのだ。魔界の陥穽。

原作に仕立て屋で服をあつらえるエピソードは登場するものの、マネキン人形たちによる肝臓移植の話は完全にブラザーズ・クエイのオリジナルである。シュルツは50歳でゲシュタポに殺されている。ポーランドの地図の上で肝臓を移植するイメージは、ナチスの洗脳・侵略を象徴しているのだろうか。登場するマネキン人形たちの風貌が、ナチスの将校と捕虜のユダヤ人女性との倒錯の愛を描いた”愛の嵐”に出てくる、パーティーシーンで扮装したナチスの将校に似ているのが印象的だ。映画の最後に、”安っぽい人間が素材となっているこの町では、どんな才能も花ひらくことなく、暗く、異常な情熱が刺激されることもない。大鰐通りは、私たちが現代と大都会の腐敗の言い訳として作った租界だった。その不幸は、そこでは何も成功せず、確かな結論にたどり着けないことであった。もちろんそこについて私たちは去年の古新聞から切り抜いた不自然なコピーや合成写真ぐらいしか提供することができない。”との原作からの引用が示される。そんな不毛な袋小路で、人形たちはまた誰かが模型につばを垂らすのを待っているのだろう。ちなみに、シュルツの小説はタイトルが何とも魅力的。この大鰐通りも然り、肉桂色の店、砂時計サナトリウム、マネキン人形論、などなど。読みたいのはやまやまだが、難解過ぎてなかなか挑戦できずにいる。