半老徐娘 =姥桜?21世紀なら美魔女か熟女か

北京語を学んでいたとき、台湾の柏楊という作家の小説・一束花(もしかしたら違うタイトルだったかもしれない)を読んだ。ずいぶん昔の話なので内容は忘れてしまったものの、美しい短編だった。そこにこの半老徐娘という言葉が出てきたのである。あまりいい意味では使われていなかった。辞書には姥桜とあったが、姥桜なんて死語だし、どうも解せない。その後、日本語が堪能な同僚の中国人女性に尋ねたら、当時30代半ばだったと思しき彼女はこう答えた。”いま私が半老徐娘と言われたらいやだけど、もっと年を取ってから言われたら嬉しいかも知れない”。でも彼女もふさわしい日本語訳を探し当てられなかった。未だに気になる。年をとってはいても十分色香を残している女性を指すのだろうが、今で言うなら美魔女や熟女か。もっと正統な訳がないものか、なお模索中である。ちなみに半老徐娘でgoogleで画像を検索したところ・・・熟年のお見合い写真みたいな艶なるマ~ダムの写真がたくさん出てきた。なるほど!

ストリート・オブ・ファイヤー 愛し合いながら断腸の思いで別れる二人 ロックンロールファンタジー

テーマソングの”Tonight is what it means to be young”が好きなのです。ストリートギャングに拉致された人気ロックシンガー・エレン・エイム(ダイアン・レイン)をかつての恋人・トム(マイケル・パレ)が奪還する物語。ストリートギャング・ボンバーズの首領に悪役の権化といった容貌の若き日のウィレム・デフォーが扮しています。今見ると青い感じがするものの、当時から十分怖い顔をしていたデフォー、この役では卑しさもにじませる演技で真骨頂を発揮しています。

♪サンセットキッス♪の歌が印象的なリトル・ロマンスのヒットで日本でも人気だったダイアン・レイン。アメリカ人の少女とフランス人の少年がパリで出会い、ベニスに行く。恋愛のエッセンスが結晶していく過程を鮮やかに描いた映画でした。重要なモチーフとなるベニスの溜め息の橋には、日が沈む時、恋人同士がゴンドラに乗ってその橋の下でキスすると永遠の愛が約束されるという伝説があります。二人が永遠の愛を誓おうとそこに向かうシーンの詩情あふれる美しさはたまりません。そのリトル・ロマンスの頃は少女だったレインが十代の後半に差し掛かり、セクシーな美しさを披露しています。豊かな胸に長い脚、びっくりするほどスタイルがいい。トムを演じたマイケル・パレは当時は無名だったそうですが、王道のヒーロー役にぴったりでかっこよかった。

内容は西部劇の現代版のようでどうってことないー何と言ってもラストのライヴシーンが圧巻で、レインの歌は吹替ながら痺れるパフォーマンスを見せてくれます。海辺や森で美しい天使を見たけれど、都会には天使はいない。でも天使がいなくても男の子ならいる。男の子は天使の次にいいものかもしれない、という詩が好きです。祝祭を始めよう、炎を燃やして。安らげない、傷ついた人たちのために踊ろう。青春は気が付く前に終わってしまうから・・・邦題、今夜は青春(身も蓋もない訳に思えますが、原題がその通りだから仕方ですね)の通り、激しく燃え盛る若さが炸裂する歌。本当は一緒にいたいのに、エレンのステージを見守りながら去っていくトム。熱い視線を交わして、パフォーマンスの途中で出ていく彼とそれを見送るエレンの断腸の思いが曲のクライマックスと重なって最高に盛り上がります。熱いロックンロールファンタジー。でも映画自体は本国ではこけたそうです。このかっこよさ、アメリカ人の心には響かないのでしょうか。個人的にはそれが不思議です。

アブラゼミゼラブルー蝉しぐれが静寂を呼ぶ夏の感傷

夏のわずかな期間、圧倒的な蝉しぐれを聞かせる油蝉。その姿は(私には)グロテスクで醜い。激しい蝉しぐれを浴びながら、夏の陽炎に揺らめいて旺盛な生命力に溢れる向日葵を見ていると、時間が止まったかのような静寂を感じる時がある。蝉しぐれの喧噪が呼ぶ静寂。炎暑ー生命がその頂点を極める力強い季節が静寂と結びつくのは不思議だが、それも生と死が存在の表裏一体に過ぎないせいだろうか。そんな哲学的命題を頭に過らせる夏は、なぜかいつも残酷な季節に思える。無鉄砲に飛び交い束の間の生を謳歌した後、地面に転がる油蝉の無残な死骸。生と死の荒々しい対比。見るたびにアブラゼミゼラブルと言いたくなる。夏の感傷。

マリンのシャツ 異郷の妖精・イザベル・アジャーニの歌う悲しみ

美しかった・・・イザベル・アジャーニ💛フランス女優ながらアルジェリア移民とドイツ人の血を引く彼女、異郷の妖精・神秘と狂気のヒロインといったイメージで日本のフレンチシネマファンの間で大人気だった。そんな彼女がセルジュ・ゲンズブールの歌を歌ったのがこちら。もう30年以上前のアルバムなのか。マリンのシャツってタイトルが素敵。♪プールの底に触ったの 小さなマリンのシャツを着て ほつれっぱなしにしておいたあなたからのプレゼント 私は見捨てられているみたい 私の目がマリンブルーなのはプールの底にいる時だけじゃない あなたはその目を見つけて私のところにやってきた 底に触れるまでの間 私は後ろ向きで沈んでいく 底で起こることに気づかないまま プールの底で溺れて 誰もあなたを見つけない 小さなマリンのシャツ 絡みついてあなたを抱いた もう引き返せないところで いわば私たちの愛の限界で♪恋人から贈られたマリンブルーのシャツを着て、プールの底に沈んでいくってヴィジュアルがまた素敵。去っていった恋人を思う切ないバラードだが、私は内容よりも濡れた髪のアジャーニがマリンブルーのVネックのセーターを着て遠くを見つめているアルバムジャケットが何より好き。

他には彼女をスターダムに押し上げた”アデルの恋の物語”の主人公を思わせる、恋に取り憑かれた女性が絶望的に放浪する姿を歌った”Ohio”、ディビット・ボウィへのオマージュ”Beau oui comme Bowie”(ウィが韻を踏んでいるところがゲンズブールっぽくっておしゃれ。ボウィのことを、少しオスカー・ワイルド、少しドリアン・グレイ、冷たい閃光と氷のようと歌う)などが好き。女優の歌って台詞っぽいと言おうか独特だ。歌唱力より表現力。ゲンズブールは声量のあるいかにも歌手って感じの歌い方が嫌いで、だから女優と仕事をするのが好きだったそうだ。女優に慣れていないことをやらせると不思議な魅力が出て、それが彼の審美眼に適っていたのだとか。先日ルイ・ヴィトンに行ったら店内にBeau oui comme Bowieが流れていたので驚いた。おそらくデザイナーの二コラ・ジェスキエールのミューズであるシャルロット・ゲンズブールからのゲンズブール繋がりだろう。ちなみにこのマリンのシャツ、リュック・ベッソンによるビデオクリップもおしゃれで話題になった。アジャーニっていつも今にも泣き出しそうな顔をしていて、それが何とも魅力的。

シェルブールの雨傘 ジャック・ドゥミが誘う夢の世界へ

昔、フランスを車で旅した時、某所の道路標識にCherbourgとあるのを見て胸が躍りました。目指す方角ではなかったのに、行ってみたくなりました。この映画の舞台だったからです。全編の台詞が歌という当時としては画期的なミュージカル映画。シェルブールの港が映し出され、ミシェル・ルグランの哀切極まりないメロディが流れる。俯瞰するシェルブールの町には雨が降り始め、傘の花が開く。降り続く雨の中、港を臨む街路で七色の傘がすれ違う。冒頭のこのシーンで一気にロマンティックな夢の世界に連れ出されます。映画のプロローグの醍醐味を思いっきり感じさせてくれる名シーンです。雨の多い港町・シェルブールで雨傘屋を営む母・エムリ(アンヌ・ヴェルノン)と二人暮らしのジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は17歳。ガソリンスタンドで働くギィ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)という恋人がいる。若い二人の交際を心配するマダム・エムリをよそに二人は結婚を望むほど惹かれあっていきますが、ギィにアルジェリア戦線への召集令状が届く。第一章の”出発”は、ギィの出征までを綴ります。色とりどりの傘で華やぐマダム・エムリの店を始め、鮮やかな色を基調とした背景や衣装がおとぎ話の世界のようにスイートで可愛いらしい。まだ弱弱しい美しさのドヌーヴ(しかしこのときすでに一児の母でした)が纏うイエローのカーディガンやブルーのワンピース、ピンクのコート(髪にはリボン!)が素敵でした。ジュヌヴィエーヴがダンスホールでシトロン!とレモンジュースを頼むシーンがなぜか妙に好きです。

母にギィとの交際を咎められたジュヌヴィエーヴはギィに結婚したいと縋ります。そんな彼女に、召集令状が届き2年はフランスへは帰れないだろうと告げるギィ。これから生きていく支えになるような思い出を作ろうと最後の夜を共に過ごす二人。あなたなしでは生きられない、永遠にあなただけを愛するといった、若者同士の情熱が迸る最高に盛り上がる歌唱が繰り広げられます。ギィが自転車を引きながらジュヌヴィエーヴと歩くシーン、まるでベルトコンベアに乗っているかのようで謎です。私はその謎っぽい歩行シーンがお気に入りなのですが。その翌日、別れを惜しみながらシェルブールの駅でギィを見送るジュヌヴィエーヴ。シェルブールの駅名が映し出され列車が離れていくシーンが切ない。

第二章・”不在”。その後妊娠が判明し、一人不安に耐えるジュヌヴィエーヴ。ギィからの手紙も途絶えがち。第一章に、マダム・エムリが経済的苦境に陥り宝石を売ろうとジュヌヴィエーヴを伴って質屋を訪れるエピソードがあります。そこに居合わせた宝石商のローラン・カサール(マルク・ミシェル)が宝石を買い取って救うのですが、彼はその時ジュヌヴィエーヴに一目惚れしていました。彼はどんどん大きくなっていくお腹を抱えたジュヌヴィエーヴにそれを承知で結婚を申し込みます。途方に暮れていたジュヌヴィエーヴは彼を受け入れて結婚することに。このカサールという男性、監督のジャック・ドゥミがシェルブールの雨傘に先立って撮った”ローラ”にすでに登場しています。”ローラ”はドゥミの故郷である港町のナントを舞台にした作品で、初恋の人との子供を育てながらひたすら彼の帰りを待つ踊り子・ローラの物語。カサールはローラに恋するが叶わない。”シェルブールの雨傘”では、昔ローラと言う女性に失恋して傷つき、世界の果てまで旅をしたと語っています。その過程で富を築いたのでしょうか。カサールが思い出を辿るシーンではナントの奇観・ポムレィ路地も映し出されます。ドゥミの映画を見続けているファンにはうれしい。シェルブールの雨傘で語り継がれた物語はのちに”ロシュフォールの恋人たち”で再び語られます。

第三章・帰還。帰還したギィはジュヌヴィエーヴの結婚を知らされます。出征前、二人で最後の時を過ごしたカフェを訪れるギィ。残ったのは思い出だけ。傷ついた彼に追い打ちをかけるように育ての親である最愛の伯母が他界する。そんな彼を支えてくれたのは伯母を甲斐甲斐しく介護したマドレーヌでした。マドレーヌの献身的な愛に気づいたギィは彼女と結婚し、子供をもうけます。伯母の遺産で購入したガソリンスタンドの経営も軌道に乗り、やっと幸せをつかんだギィ。ある雪の降る12月、クリスマスを迎えようとする頃、今はパリで暮らすジュヌヴィエーヴがマダム・エムリの葬儀の帰路、偶然ギィのガソリンスタンドを訪れます。予期せぬ再会。車の中で無心で窓ガラスの雪と戯れる少女・フランソワーズはギィの娘です。ジュヌヴィエーヴはギィに娘に会うかと尋ねますが、ギィは首を振り、もう行った方がいいと促します。ジュヌヴィエーヴの車が去った後、買い物から帰ったマドレーヌと息子・フランソワと雪の中で遊ぶギィ。かつて、子供には女の子ならフランソワーズ、男の子ならフランソワと名付けようと語り合っていた二人。今はそれぞれに幸せなのです。何度見ても泣けるラストシーン。

ジャック・ドゥミの作品は、市井の人々を優しい目で描いたものが多い。シェルブールの雨傘では戦争で引き裂かれる恋人たちを描きながら声高に戦争を批判するトーンもなく、そこも彼の持ち味だと思います。彼の妻で映画監督であるアニエス・ヴァルダが彼の人生を映画化した”ジャック・ドゥミの少年期”(これも涙なしでは見られない・・・オールドフレンチシネマファンにはたまらない作品)で、未婚のままお腹が大きくなっていくドゥミの幼馴染が描かれていました。シェルブールの雨傘のジュヌヴィエーヴにも幼い日の思い出が投影されているのでしょう。そんなエピソードにもドゥミの優しさを感じます。

ナント出身のドゥミには港町を舞台にした作品が多いのも特徴です。シェルブールの雨傘を始め、先に触れたローラ、ロシュフォールの恋人たち、カジノに狂う人々を描いた天使の湾然り。様々な人々が訪れては去り、出会いと別れを描くのに打ってつけの場所でもあります。数年前の夏、ローラと天使の湾を渋谷のイメージフォーラムで鑑賞し、連鎖反応か久しぶりにシェルブールの雨傘を見返しました。そのほとんどのフランス語の台詞(歌詞)が聞き取れる自分に驚き悦に入っていたら、思い返せば学生時代、フランス語の授業で暗記させられた経緯がありました。役に立たないことはよく覚えているものです。先生は勉強したがらない学生がせめて興味を持ちそうな主題を選んで下さったのでしょう。当時は知る由もなかった先生の愛を感じました。

失恋レストランー道化師=ピエロの溜まり場ではなかった(+o+)

名曲なのに!清水健太郎が問題を起こしすぎるので?懐メロでも取り上げられないのが残念。当時はああいう浅黒い肌に白い歯でギターを弾いて歌う歌手は珍しかった。40年以上前だろうか、彼の全盛期に軽井沢で見かけたことがある。子供心になんてかっこいい人なんだろうと感動した。子供の感覚もいい加減だが、その後の人生で芸能人を見てあれほど感動したことはない。それがのちの度重なる薬物騒動でがっかり。その失恋レストランの歌詞についてなのである。♪好きな女に裏切られて笑いを忘れた道化師がすがる失恋レストラン♪とあり、つい最近まで数十年間、失恋レストランにはシルクのてかてかした衣裳を着て唇をオーバーサイズに縁取り、目に星なんか描いたピエロばかりが集まるのだと思っていた。

 

おかしな光景だ。疑問には感じていたが、それが隠喩だとどうして気づかなかったのか信じられない。ず~っとその絵をイメージして聴き、歌っていたのだから。たくさんのピエロが泣きながらメイクも崩れて飲み食いするファンタスティックな光景に酔い痴れていた一方で、最後の歌詞は冷静に受け止めていたのが不思議♪ねぇマスターラストオーダーは失恋までのフルコース♪ラストオーダーがフルコースだったら店側は大変だと同情を覚え、心優しいマスターが怒りに駆られてハートブレイカーたちを傷つけなければいいがと危惧していた。外食産業がブームを迎える前の話。失恋とレストランを結びつけた発想もつのだひろさんクールだ。

ジェフ・クーンズ 見てはいけないものを見せてくれるアーチスト

発売前から随分話題になっていたジェフ・クーンズ指揮下でのルイ・ヴィトンのコレクション、多くのLVファンの度肝を抜いたことだろう。最近は話題性のあるアーチストとのコラボレーションを展開するハイブランドが多いが、まさかルイ・ヴィトンが古今の絵画をモノグラム・キャンバスに載せるとは、草間彌生で驚いている場合ではなかった。もちろん寛斎とのコラボだって驚きだ。モノグラムの上の達磨や歌舞伎の隈取り、ツーリストにとっては新鮮なのだろうが。この春、ルイ・ヴィトンの店頭に並んだ絵画プリントシリーズ第一弾を見た時、自分がルイ・ヴィトンショップにいるとは思えなかった。もはやジェフ・クーンズの世界。ルイ・ヴィトンは遥か彼方に退いたかのようだった。ルイ・ヴィトンのアイコニックなフラワーモチーフとLVのロゴに自身のJKのロゴをゴールドの金具で配したデザインは素敵だったけど。一番印象的だったのは、バッグの内側にモナリザならダ・ヴィンチの、糸杉のある麦畑ならゴッホの肖像がプリントされていたこと。外観以上に価値があるようにも思えるこだわりのディテール。新しい試みは常に賛否両論を呼ぶ宿命にある。今回のルイ・ヴィトンの作戦は下品すれすれの爆発的なインパクトに賭けた冒険だったのではないか。

ルイ・ヴィトンの方に伺ったら、デザインはジェフ・クーンズに一任してLV側は一切口を出さない契約だったとのこと。寡聞にして詳しい来歴を知らなかったが、相当力のある人物なのだろう。LVの公式サイトでジェフ・クーンズの写真を見ると、完全に目が飛んでいて得も言われぬ胡散臭さが漂う。気になって調べたらwikiでアメリカ出身の前衛芸術家とあり、その今までに例を見ない作品の数々が紹介されていた。読み進めていくうちに彼の私生活に関する記述を目にし・・・な・ん・と!若き日、あのチチョリーナと結婚していたのだという(その後離婚)。チチョリーナ!ハンガリー出身でイタリアでハードコアポルノ女優兼政治家として活躍した女性だ。30年ぐらい前日本でも巷間を騒がせた。彼女が来日したとき偶然成田空港で見かけ圧倒された。活火山のような見事な胸に奇抜なメイクが歩くポルノグラフィといった感じの、噂に違わないド迫力の女性だったのだ。そうか!それで一気にジェフ・クーンズを理解した(気になった)。

このお二人まさに天の配剤。なぜか赤裸々って言葉が浮かんでくる(なぜだ)。規格外の胡散臭さ、いかがわしさ、ここまでお似合いのカップルも珍しい。おまけにクーンズは二人の愛の営みをモチーフに作品を制作したそうで、彼女との結婚も含めてセルフプロデュースの天才なのか。クーンズ&チチョリーナが結びつき、老舗の高級ブランド・ルイ・ヴィトンを(おそらく)翻弄した風雲児に関する疑問が氷解したのがおかしい。初めて彼の顔を見たとき、関根勤に似ていると思った。それは彼のアイコンがラビットだからで、気のせいだろう・・・ルイ・ヴィトンのバッグにチャームとして付いているそのラビットは全然可愛くなく・・・なんだか轢死体を俯瞰したような感じなのである。とはいえ異端の芸術は物議を醸し出しても燦然と輝く魅力がある。かつてやはり異色の映画監督・ピーター・グリーナウェイに悪趣味の美学を感じたが、ジェフ・クーンズはそれとはまた違う。クーンズは、良心のある人間が恥ずかしい、人目に触れさせたくないと思うものを白日の下に晒し、彼らがそれを羞恥心を持って見るのを喜んでいるかのよう。見てはいけないものを見たという感覚を喚起させる作品群。彼は言わば恥部の供覧会の主催者だ。秋には第二弾・モネにマネ、ターナーなどがリリースされ・・・そしてこれからLVはどこへ行くのか。オールドLVファンとしては興味が尽きない。

東方之珠ー羅大佑が歌う東洋の真珠・香港への愛

香港が中国に返還された1997年当時、縁あって香港に住んでいた。そのころ聴いた、英国領であった香港を歌った美しい歌。♪小さい河が湾曲して南に流れる 香港まで辿り着いたら見に行こう 東洋の真珠 愛しい人 あなたは昔のままに風情溢れる街なのか 月光が揺れる港 夜のとばりに包まれて明かりが煌く 東洋の真珠よ 眠らない街 世につれてめまぐるしく変容する約束を守り続けている 海風よ五千年の月日を吹き飛ばして 涙の一粒一粒があなたの威厳を物語るよう 海よ一緒に神のご加護を与えよう 永遠に変わらない私の黄色い顔を忘れないで 小舟は港を目指し 振り向けば 海は洋々と果てしなく 東洋の真珠よ 私を抱きしめて あなたのその淋しい胸を温めさせて♪作者の羅大佑は台湾の人で共産主義を批判した歌も多いがその限りではなく、切ない恋歌にも名曲が多い。滾滾紅塵とか恋曲2000とか、痴痴的等とか。東方之珠は、何と言っても白人の支配下にあった香港に向けて永遠に変わらない黄色い顔を忘れないでと歌っているところに感動する。皇后大道東というアルバムに収録されていた。これだけが北京語でその他は広東語の歌。中国大陸に向けて発信するために北京語で歌う必要があったのか。広東語はわからないけれど好きなアルバム。

ラストタンゴインパリ ミッドライフクライシスの痛み

芸術か猥褻か、論争があったことを思い出します。チャタレイ夫人の恋人然り、サド然り。10代の頃ラストタンゴインパリのポスターを見て、それこそ猥褻感たっぷりなので嫌悪と恐怖さえ覚えました。当時はポルノグラフィの規制もゆるく、今では信じられないような画像が街中にあふれていたものです。暗殺の森ですっかり魅了され、ベルトルッチは畏敬の念を抱かざるを得ない映像作家なのに、おそらくそのポスターのせいでラストタンゴインパリはいやらしい映画との先入観ができあがってしまい、若い頃は怖くて観る気がしませんでした。それが数年前、あるバーでアルゼンチンタンゴのアルバムを聴いて大層気に入り、タンゴの名曲が使われているこの映画を観ようと思い立ったのです。フランシス・ベーコンの絵が映し出される導入部から観入ってしまいました。男女の爛れた関係を描いた映画と言われもしますが、私にはミッドライフクライシスが痛いほど感じられて身に染みました。年を取ってから観てよかったのかも知れません。

ブルジョワの若い娘(マリア・シュナイダー)が、妻に自殺された中年男(マーロン・ブランド)と偶然出会い、関係を持つ。二人はお互いの素性を何も知らないままアパートの一室で密会を重ね・・・と男性にとってはたまらないようなストーリー。宣伝のためにせよ性愛描写ばかりが独り歩きしてしまい、いい映画なのに勿体ない。妻の無残な死をきっかけに、それまで男が抱えていた苦悩が一気に噴き出して彼を蝕んでいく。棺に納められた妻の遺体を前に、彼は自分たちの奇妙な結婚生活(妻には愛人がいた)を振り返り、そんな関係に苦しみながらもどんなに彼女に恋い焦がれていたかを語る。深い悲しみに満ちた心に残るシーンなのですが、裏話によるとブランドは一切セリフを暗記して来ず、カンペを部屋中に貼り巡らしてそれを頼って切り抜けたそうで、カンペを見る様子が歴然だとか。それでもあんな演技をするブランドが凄い。劇中の彼はもし若かったらあのような末路は辿らなかったでしょう。もう人生を軌道修正するには遅い年齢に達してしまい、堕ちていく辛さ。過激な性描写は、あの男が壊れていく様子を物語るのに必要だったのかとも思えます。

特に好きなのが、ビルアケム橋で二人がすれ違う冒頭のシーン(妻の死を受けてブランドは泣いている)とラスト近く、ブランドがタンゴを踊るシーン。裸体のラブシーンより断然いい。やはり名優は着衣で勝負です。当初ブランドの役にはジャン=ルイ・トランティニャンが、シュナイダーの役にはドミニク・サンダが予定されていたのが、サンダの妊娠によって叶わなかったのだそうです。暗殺の森のコンビーもしその二人を配していたらどんな映画になったのか想像がつきません。マリア・シュナイダーのいかにもいわくありげな胡散臭い雰囲気とブランドのうらぶれた中年男ぶりがぴったりだっただけに・・・途中、マリア・シュナイダーと恋人の話も語られるものの妙にミスマッチだった記憶があります。恋人役は頼りなさそうなジャン=ピエール・レオで、強烈な個性を持つマリア・シュナイダーにはどうにもそぐわない。

全編を通して流れるガトー・バルビエリのタンゴ、いいですね!官能的ながら不安を誘う孤独感もあり、彷徨える魂を象徴しているようで・・・小田和正の”ラブストーリーは突然に”のサビの部分がこれに似ていると思うのは私だけ?

ブランドは生前、これはベルトルッチによる精神分析の映画だと語ったそうです。しかし自分でも本当は何の映画なのかわからないと。多様な解釈が許される芸術作品ほど奥行きがあるのでしょう。それにしても、20代で暗殺の森を、30そこそこにしてラストタンゴインパリを撮ってしまうベルトルッチとは何者なのでしょう。観終えた後、猥褻などという言葉は遥か彼方に消えていました。心に残ったのは煽情的なラブシーンではなく、すでに若さを失い、ぬぐい切れない汚点に満ちた人生の重みに耐えかね、救済を求める男の孤独で痛ましい姿でした。

天井桟敷の人々 東京競馬場の伝説のファミリーはどこへ

天井桟敷とは劇場の最後方、天井に近い観覧席で、狭く見にくいため安い料金で庶民に提供される場所でした。この席は某劇場で”天国”と称され、そこに押しかけて無邪気に騒ぎ、野次を飛ばす貧しい人々は天国の子供たちと呼ばれていたそうです。それがこのフランス映画史に残る名画・天井桟敷の人々の原題・Les enfants du paradisです。3時間を超える大作で、初めて銀座の名画座で観たときは緊張しました。名作に触れる喜びと若い自分に理解できるかという不安で胸がいっぱいでー純情でしたね。恋なんて簡単よと軽くあしらう艶っぽい中年女・ガランス(フランス語で茜の意味。アルレッティが演じました)と彼女への恋に打ち震える繊細な若者・バチスト(ジャン=ルイ・バロー)。初めて観たときはどうしてあんなおばさんを・・・と不思議でなりませんでした。年増女の爛熟した魅力をまき散らすアルレッティは、確かに子供にはわからない大人の魅力に溢れています。最後、人ごみの中ではぐれていくガランスを、ガランス!ガランス!と絶望的に追いかけるバチストの姿が忘れられません。しかしなぜここで天井桟敷の人々なのでしょうか。それは東京競馬場の伝説のファミリーの思い出につながります。起源がいつなのか定かではありませんが、恐らく昭和の時代から数十年に亘り、東京競馬場の観覧席で覇権を誇った人々です。

東京競馬場の4階、21番柱の前は、天井桟敷とは違いウイナーズサークルを臨む絶好の観覧席です。そこを占拠し陣地とした競馬ファンがいました。その棟梁は真顔で趣味は競馬場の席取りとのたまう変わり者。彼が競馬場を訪れるのは馬券を買うためではなく、観覧席を確保するためなのです。新宿に住んでいた彼は毎土曜日の朝まだき、新宿二丁目のカップルたちが別れを惜しんで集う公園を抜け、始発電車で競馬場に駆け付けていました。土曜の競馬が終わると翌日曜日のために係員が去るのを待って敷物を広げ最前列の場所取りをし、日曜日は再び始発で馳せ参じるのです。仕事で穴をあけざるを得ない日を除き、何十年もそれが彼の土日のルーティンでした。G1の前ともなれば一週間以上前からファミリーメンバーが交代で一番前の場所を確保し、当日は数十人が開門ダッシュを決めて走りました。PCを背負いながら最速の上がりで前を行くメンバーを差し切って席を押さえる強者もいました。転んで骨折した輩も一人や二人ではありません。東京の三大G1・ダービー、天皇賞、JCの前日は寝袋を持っての泊まり込みは当然の頼もしさ。ガムテープに大量のチラシ、タオルなどでの陣取り合戦。話は逸れますが、もうずいぶん前のダービー前日、門前で列を成す熱心なファンたちの前に故・後藤浩輝騎手が現れ缶コーヒーをふるまったそうで、棟梁をはじめとするファミリーはみな感激していました。気配りの人だったのでしょう。合掌。

ダービーの日は、そのファミリーだけで200もの席を確保したこともあるそうです。ダービーの早朝に東京競馬場を訪れたことのある方はおわかりでしょうが、あれだけの収容力を誇る観覧席が開門と同時に一瞬で埋まります。それほど熾烈な戦いが繰り広げられるのです。もちろん200人ものファミリーがやってくるわけではなく、当日席を求めて彷徨う人々に譲ったりするのだから気前がいいと言いましょうか。棟梁はそれが何より楽しそうでした。そしてファミリーはどんどん膨れ上がっていきました。JRAの職員に目をつけられてはいましたが、その牙城を崩すことは誰にもできませんでした。絶好のロケーションであれ、無料の席でにぎやかに競馬を楽しむファミリーは、私の目にはまさに天井桟敷の人々に見えました。それが数年前の天皇賞秋・・・大雨に見舞われたその日、21番柱の前にそのファミリーの姿はありませんでした。東京競馬場に異変あり。あれだけ熱心に、というか偏執的なまでにあの場所を死守していた棟梁に何があったのでしょう。人もまばらな夏競馬の時でさえ陣取っていたのに、G1の日に姿を見せないなんてあり得ません。天井桟敷の人々はどこへ行ってしまったのでしょうか。彼らのいない21番柱の前を通るとき、一抹の寂しさが胸を過るのを禁じ得ません。