ティファニーで朝食を カポーティが描く都会のおとぎ話

このタイトルを聞くと、恐らく多くの人々がオードリー・ヘップバーンが主演したおしゃれなラブ・コメディを連想するだろう。冒頭、ジヴァンシィのシックな黒いドレスを身にまとった彼女がティファニーの前でコーヒーを片手にデニッシュペストリーを食べるシーンはあまりにも有名だ(ゴージャスな衣裳と紙コップのコーヒー、デニッシュとのギャップがおかしい)。様々な色が混じり合った髪、オーバーサイズのサングラス、首には何連だろうか贅沢な真珠のネックレスにダイヤ。彼女を飾る小道具も素敵で子供心に強烈に憧れた。

 

トルーマン・カポーティという原作者の名前を知ったのは高校生の頃、偶然彼の短編集を読んだことによる。タイトルはA tree of night、夜の樹。収められていた短編はどれも20代の青年が書いたとは思えないほど完成度が高く、研ぎ澄まされた感性が光るものばかりだった。特に好きだったのがThe headless hawk、無頭の鷹、とShut a final door、最後の扉を閉めて。前者はドッペルゲンガーを愛してしまう男の物語。愛する人間の中にいつも自分自身の壊れたイメージが見えるという慨嘆も印象的な彼は孤独な男。後者は自分自身に嫌気がさして逃げようとするがドッペルゲンガーに追いかけられる男の話。他にもドッペルゲンガーを取り上げた幻想的な作品があり、神秘的なものに惹かれる年ごろだった私はカポーティに興味を持った。そしてティファニーで朝食をの原作、Breakfast at Tiffany’sに辿り着いたのである。

小説は、今は作家になった主人公が駆け出し時代に住んだ部屋を懐かしく思い出すシーンから始まる。この立ち上がりがわくわくするーごちゃごちゃした、古い、陰気な部屋だが、ポケットに手を入れてこの部屋の鍵に触れるといつも気持ちが昂揚した。初めての自分自身の部屋で、自分の本があり、鉛筆立てには削られるのを待っている鉛筆があり、作家になるために必要なものすべてが揃っているように思えたからー希望に満ちた若者の活力が頼もしい描写である。そのアパートで彼の下の階に部屋を借りていたのが魅惑のヒロイン・ホリー・ゴライトリーで、彼は彼女を回想する。いつも鍵を忘れて、深夜帰宅すると上階の彼の部屋の呼び鈴を押し、ドアを開けさせたホリー。彼女の名刺にはミス・ホリディ・ゴライトリー(Holiday go lightly、お休みの日は楽しくいきましょう)、トラヴェリングと印刷されている。なんともチャーミング。白子のようなブロンドと黄色、黄褐色と自分で複雑に染め上げた髪、朝食に出されるシリアルのように健康的な雰囲気で、石鹸とレモンの清潔さがあり、頬はピンク色に輝いているホリー。子供時代は過ぎたがまだ大人の女にはなりきっていない顔つきで、16歳にも30歳にも見えるー実際にはもうすぐ19歳。この描写からはオードリー・ヘップバーンの顔は思い浮かばない。しかし、初めて会った時のホリーー細身の黒いシックなドレスに黒いサンダル、小さな真珠のネックレスを身に着けて、いかにも上品で細い体つきをしていたーこの一節を読むと、ジヴァンシィのリトルブラックドレスに身を包んだヘップバーンが登場してしまう。

後にカポーティのインタビュー集を読んで驚いたのだが、彼はティファニーで朝食を、をミスキャストだらけ(特に日本人写真家を演じたミッキー・ルーニー)でへどが出るなどとこきおろし、ヘップバーンをホリー役に起用したのは製作者側の背信行為だと糾弾している。ヘップバーンとカポーティは非常に親しい友人同士だったものの、カポーティ曰く、ホリーは、シックで痩せた、骨ばった顔をしたヘップバーンとはタイプが違う。彼女はとても頭のいい女の子だがヘップバーンとは全く違う意味で頭がいいのだという。オードリー=ホリーとしてインプットされている読者は困惑してしまう話だ。当初カポーティは妖精のようなヒロインにマリリン・モンローを望んでいたといい、後には、ジョディ・フォスターがホリーに打ってつけだと語っている。社会派映画でアカデミー賞を二度受賞した彼女とホリーのイメージは重ならないが、少女の頃、タクシードライバーやダウンタウン物語に出ていたころの彼女はほわーんとした雰囲気で、カポーティは当時の彼女を思い描いていたのだろうか。モンローにせよフォスターにせよ、いかにもシックで痩せている、という印象はないのだが。。。ホリーは南部からニューヨークにやってきた女の子で、カポーティはアメリカの南部美人を想定していたのだろう。それをヨーロッパ出身のヘップバーンが演じるのでは素地が違い過ぎたのか。以前さゆりというアメリカ映画があった。日本の芸者の物語で、主人公の芸者を中国の国際スター・チャン・ツィイーが演じると聞いて違和感を覚えた。そのとき、カポーティがティファニー・・の映画版に激怒したのもわかる気がした。

いずれにせよ、小説が世に出たとき、この魅力的なヒロインは熱狂的な支持を受け、カポーティの周りにいた社交界の女性たちは、自分こそがホリディ・ゴライトリーのモデルだとこぞって主張したという。カポーティとしては、彼が憧れていたプルーストが失われた時を求めてで試みたように、さまざまなモデルをホリーに昇華させたのだろう。1950年代の自由で奔放な女性像というと、ヨーロッパはフランス、悲しみよこんにちはでサガンが描いたセシル、我が日本では原田康子が挽歌で描いた怜子などが思い起こされる(未読だが、日本ではやはり50年代に、岩橋邦枝が逆光線という小説で奔放な女性を描いているらしい。かっこいいタイトルだ)。二人とも若さゆえの無分別の報いを受け、青春の終わりが暗示されているのに対して、ホリーは野性のイノセンスを保ったまま姿を消す。ホリーのその後の人生は語られていないが、主人公はホリーを、共に過ごした若く輝ける日々の中に封印してしまいたいのだろう。あのホリーが年を重ね、中年の失意を味わうなんて考えたくない。ホリーは現実の世界の桎梏から解き放たれた、天衣無縫な永遠のアイコンとして生き続ける。カポーティの描いたティファニーで朝食をは、めでたしめでたしで終わるわけではないものの、都会のおとぎ話でもある。

よく知られているように、カポーティは同性愛者だった。女性を性愛の対象として見ないせいか、彼の女性描写には乾いたタッチの洗練が感じられ、そこも彼の小説の大きな魅力である。ヘテロセクシュアルの世界とは別の愛の形。ティファニー・・・でも、随所にプラトニックラブが語られている。主人公とホリーがよく通ったバーのマスター・ジョー・ベルは、ホリーのことを、”体に触れたい”なんて欲望とは無縁の感情で好きだったと言う。カポーティ自身を投影した主人公の作家がホリーに抱いていたのも恋愛感情ではない。ホリーが、いつか自分の子どもたちをたくさん連れてまた帰ってきたいと語る大好きな街・ニューヨークへの愛、昔田舎で結婚していたホリーが年の離れた夫の家を飛び出した後、飼っていたオウムが”ルラメー、ルラメー(ホリーの本名)”としきりにホリーを恋しがって鳴いたというエピソード、捨て鉢になったホリーが飼っていた猫を雨あがりのハーレムで捨て、しかしすぐに後悔し、猫を探し歩いてあの猫と私はお互いのものだった、あの猫は私の猫だったと呟くシーン、みな温かいプラトニックラブで溢れている。

画像を入れるとどうしてもカポーティがくさした映画の印象が蘇るが、映画は映画で当時のニューヨークの街並みが美しくも軽やかに描き出され、小説と別物として見れば楽しい。(カポーティは、そんな魅力的な作品に仕立てた監督のブレイク・エドワーズを最低の男などと貶しているが(+_+))それにしてもオードリー=ホリーのティファニーファッションを真似した有名人のショットがたくさんあるのに驚く。シックと洗練の極みと言ったスタイルを再現する企画には共感するものの、どれも本家オードリーには遠く及ばない。マリリン・モンローそっくりさん大会と同じようなものか。オードリーにせよマリリンにせよ、エピゴーネンの出る幕はない本物の魅力とはこれかと思う。さすがだ。ちなみに、素敵なタイトルはカポーティが小耳にはさんだエピソードに基づくという。第二次大戦中のニューヨーク、ある土曜の夜。一人の中年男が海兵とデートした。彼は海兵のたくましい腕に抱かれて至福の時を過ごし、興奮さめやらず、感謝を込めて何か贈り物をしたいと思った。しかし二人が目覚めたのは日曜の朝で店は全て閉まっていた。彼ができることといえば海兵に朝食をごちそうすることぐらいだった。彼は海兵にどこか行きたい店はある?この街で一番豪華で高級な店を選んで、と言った。するとニューヨーカーではなかった海兵は、ニューヨークでおしゃれで高級な店といったらその一軒しか聞いたことがなく、じゃあティファニーで朝食をとろうと言ったのだった。

ティファニーがどれだけ有名だったかと言う話。

全編を彩る煌くようなホリーのエピソードはどれも何度読んでも飽きない。先述したホリーの外見描写をはじめ、ピカユーンという謎めいた銘柄の煙草を喫って、カテージチーズとメルバトーストが主食だとか、良家の子女とは程遠い生活ぶりもなんだか眩しかった。結婚する約束だった金持ちの御曹司の子供を流産し、入院した彼女を見舞った主人公は、彼女は12歳にもなっていないようにピュアで、雨水みたいに透明な瞳をしていたと綴る。件の恋人からの別れの手紙を前に、一気に年老いたような表情を見せるホリー。女っていうのはこの手の手紙を口紅もつけずに読むわけにはいかないのよ、と主人公に引き出しから化粧ポーチを取り出させて化粧し、悲しみに向け完全武装する。粋な強がり。

若くして時代の寵児となり、恐るべき子供と称されながら、文学賞の受賞という形では世間の評価を受けていなかったカポーティは、自分はもっと賞を受けるに値する作家だと信じていたという。同世代のノーマン・メイラー、ソウル・ベローなどはノーベル文学賞を受賞し、メイラーはさらに二度ピュリッツアー賞を受賞している。しかし、それらノーベル賞受賞者たちの作品が歳月と共に風化し、今や読まれなくなっているのと対照的に、カポーティの作品は21世紀の今でも読み継がれ、古典の相を呈している。私がかつて魅了された短編集然り、ティファニーで朝食を然り、今も燦然と輝く魅力に変わりはない。それもカポーティが本質的には人間の内面を見つめた、シリアスな作家だったからではないだろうか。

 

トリコロール 青の愛

クシシュトフ・キェシロフスキという舌を噛みそうな名前のポーランドの監督を知ったのは、二人のベロニカでだった。それぞれポーランドとフランスに生まれた、同じ名前と容姿を持つ二人のベロニカの物語。カンヌで主演女優賞を受賞したイレーヌ・ジャコブの凛とした美しさが光った。ドッペルゲンガーをテーマとした怪異な物語ではなく、静謐な雰囲気に満ちた不思議な物語だった。その監督がフランス国旗の三色をモチーフに、それぞれが象徴する自由、平等、博愛をテーマに撮った三部作の第一部がこちら。交通事故で夫と娘を失った女性の物語である。高名な音楽家の夫・パトリスと可愛いさかりの娘と共に、何不自由ない生活を送っていたジュリーは突然の出来事で不幸のどん底に突き落とされる。自身も重傷を負い、満身創痍の上、夫には数年来の愛人がいたことを知る。まして愛人は妊娠中で・・・辛い展開。ジュリーを演じるのは、この演技でヴェネツィア国際映画祭の女優賞を得たジュリエット・ビノシュで、悲しみと絶望の表現が見事だ。

パトリスにはオリヴィエという新進作曲家のパートナーがおり、二人はフランス政府からヨーロッパ統合祭のために演奏する曲の作曲の依頼を受け、制作にいそしんでいた。オリヴィエはパトリスとの共同作業の過程で知り合ったジュリーをひそかに愛するようになっていた。このパトリス役、なんとジュテームで嫉妬に狂うゲイ青年を演じたユーグ・ケステルで、数十年ぶりの再会にびっくり。彼はジェラール・フィリップ賞を受賞したこともある生粋の演劇青年なのだそうだ。

ジュリーもかねてからオリヴィエが自分を愛していることに気づいていた。絶望の中で彼を求め一夜を過ごすものの、すぐに悔恨の念にとりつかれ自分を責めるジュリー。自らを罰するように、泣きながら掌を石塀にこすりつけて歩き、血がにじみ出るシーンが忘れがたい。オリヴィエとのことは忘れようと努め、その後誰にも告げずに新天地で暮らし始めるジュリー。オリヴィエは行方知れずになった彼女を探し当て、パトリスの死で頓挫した欧州統合の協奏曲”自由、そして愛”を一緒に完成させようとする。この、自由、そして愛が感動の名曲。ギリシャ語でコリント人への手紙が合唱される。もちろんギリシャ語はわからないが、このコリント人への手紙は、今までに読んだ愛に関する文書の中で最も感動したもののうちの一つ。

たとえ私が天使たちの言葉を話しても 愛がなければ虚しい限り ただ鳴り響く鐘に過ぎない

たとえ私に予言する力があっても たとえ私が奥義に通じていても あらゆる知識に通じていても 山を動かすほどの信仰があっても 愛がなければ無に等しい 無に等しい

愛は寛容なり 愛は善意に満ちる 愛は決して妬むことなく 決して高ぶらない

愛は耐え忍び、全てを信じる 全てを望み ひたすら耐える 愛は決して滅びることがない

予言はいつしか終わりを告げる 言葉はいつしか沈黙する 知識もいつしか消滅するだろう

残り続けるのは信仰と希望と愛 この三つの中で最も尊いのは愛 最も尊いのは愛

曲を完成させ、ジュリーはオリヴィエの愛を受け入れる。この合唱が鳴り響くラストシーンでは涙が止まらなかった。一人の女性が絶望の淵から再生し、悲しみから解き放たれる姿に、トリコロールの青のテーマ・自由を重ねたところが心憎い。ブルーを基調とした映像も美しかった。自己を回復する過程で、夫の愛人を許し、財産を彼女とその子供に譲ろうとまで考えるジュリー。死んだ夫の残した曲を仕上げながら、彼女は夫を理解し、無限の愛情をもって彼を讃える。いわば崇高な精神を身に着けていく。ただ演じるジュリエット・ビノシュはそんな寛大で心の美しい女性には見えなかった。絶望の底で慟哭する演技は素晴らしいけれど、彼女の真骨頂はやはり無邪気な顔した悪女だと思う。夫・パトリスは二人の女を同時に愛した罪な男。しかしそれだけ心が豊かだったともいえるのか。彼が残した壮大な協奏曲の世界観は、愛はあらゆる既成概念を超え、それだけで価値があるものだと訴える。彼の言葉として引用される”人間は天使ではない。だから愛が必要なのだ。そして愛が生まれた時には力を尽くして育て、守らねばならない”は印象的。

 

 

ビヨルン・アンドレセン 20世紀映画史上に燦然と輝く永遠の美少年

たった一本の映画に出演しただけで永遠の美少年アイコンになってしまった人。イタリアの巨匠・ルキノ・ヴィスコンティがトーマス・マンの小説を映画化した”ベニスに死す”のタジオの造形は、ビヨルン・アンドレセンなしでは不可能だったと思われる。ヴィスコンティは14歳のポーランド少年・タジオ役を演じる俳優を求めてヨーロッパ中を探し回り、数千人もの候補者の中からスウェーデン生まれの15歳のビヨルン・アンドレセンを見出した。その過程は、テレビドキュメンタリー”タジオを求めて”で詳述されている。ストックホルムの音楽学校に学び、それまでにエキストラとして映画に出演したことがあった彼は、5歳で父に捨てられ、それが原因で母に自殺されるという不幸な背景を持つ少年だった。

トーマス・マンの原作では作家である主人公・アッシェンバッハは、映画では音楽家(グスタフ・マーラーをモデルにしたと言われる)の設定で、コンサートホールで倒れ、医者に長期休養を命じられてベニスを訪れる。豪華なホテルのサロンで寛ぎながらあたりを見回すと、ポーランド人らしき家族に目が留まった。中年の女性と三人の女の子、そこから少し離れて立つセーラー服姿の少年・・・アッシェンバッハは、その少年の完璧な美しさに驚嘆し目を瞠る。青白い肌、優美で控え目な上品さを湛える顔立ち。ウェーヴがかかった蜂蜜色の髪は軽やかで、全てがこの世のものとは思えないほど繊細で精巧につくられていた。このセーラー服姿のタジオの神がかった美しさは衝撃的で、アッシェンバッハは悪魔に魅入られたかのようにこの少年に夢中になる。タジオを追い求めて、偶然を装い彼の行動半径に出没するアッシェンバッハ。タジオも自分を見つめるアッシェンバッハの視線にうすうす気づくようになる。

アッシェンバッハに扮したダーク・ボガードは、この役を自ら最高の演技と称し、今後生活のために映画に出演することはあっても、これ以上の演技は自分にはできないだろうと語っている。一世を風靡した作曲家が老境に達し、年甲斐もなく美しい少年への恋に溺れ、恋の病から若返りたいと望み、床屋で髪を黒く染め白粉を塗り、頬紅をはたいて口紅までつける。その姿でタジオを追い、街中で見失って焦って方々を探し回る。一気に汗が噴き出し、白髪染めの染料が汗に黒く滲む。我に返り、そんな自分の惨めな姿を大声で笑うボガード=アッシェンバッハは、滑稽さと哀しみを醸し出す圧巻の演技だった。彼はかつてミュンヘンのコンサートホールの控室で言われたことを思い出していた。”威厳も高貴性ももうお終いだ。あなたはご自分の音楽ともども墓場に入ればいい。もうご老体なんだ。そして、世界中に老年ほど醜いものはない” アッシェンバッハに引導を渡す言葉。老いた者の悲しい現実。冷徹な、ヴィスコンティらしい美意識を反映した演出だ。

若く神々しいタジオとすでに死臭を漂わせているかのようなアッシェンバッハを対比させることによって、タジオの美もアッシェンバッハの老醜も残酷なほど際立つ。タジオ一家がホテルを発つ日、アッシェンバッハは砂浜のデッキチェアに腰かけ、波打ち際で友達と戯れるタジオの姿を見納めとばかりに見つめる。突然不快感に襲われたアッシェンバッハは、タジオに近づこうとして立ち上がることもできず、顔に噴き出した汗にはまた白髪染めの染料が溶け出す。アッシェンバッハに気づいて彼を見つめるタジオ。それがタジオと交わした最後の視線となり、アッシェンバッハは死出の旅に出る。マーラーの華麗なシンフォニーを背景に、ストーリーはやるせないものである。10代の頃初めて観たときにはアンドレセンの美しさばかりが心に残ったが、年を重ねてから観るとボガードの演技にも圧倒され、感慨深い。いつ見ても神話から抜け出してきたように美しいアンドレセン。美少年という言葉は彼のためにあるのではと思わせる。無邪気な笑顔を見せながら背徳の香りも漂わせる、まるで堕天使のような美しさだった。

コスチュームデザインは多くのヴィスコンティ映画で衣裳を担当したピエロ・トージ。きちんとした時代考証に基づく卓越したデザインを披露している。タジオのセーラー服や金ボタンの詰襟、ボーダーのマリンのシャツ、水着などはため息をつく趣味の良さ。また、アッシェンバッハの服装が上品でおしゃれ。白麻、ベージュの麻、黒のサマーウールのスリーピースのスーツにハット、マフラーを合わせた、上流階級の男の旅先でのファッションのお手本のような着こなしには惚れ惚れする。もちろん、タジオの母役のシルヴァーナ・マンガーノの華やかなドレスや、タジオの妹たちのセーラー服もたまらなく素敵なのだが、この作品ではどうしてもメンズのファッションに目がいってしまう。ヴィスコンティ作品ではピエロ・トージのコスチュームを見るのも大きな喜びである。

その後、アンドレセンのオフスクリーンショットを見て驚いた。映画での魔性の美少年はどこへやら、全く普通の男の子だったのである。健康的で初々しい高校生にベニスに死すの神秘的なタジオの面影はなく、愕然としたと同時にヴィスコンティマジックを思い知った。ルートヴィヒでヘルムート・バーガーを鬼気迫る美しさの孤高の王に仕立て上げたように、妙なる魔術によってアンドレセンをベニスに死すの中で永遠の美少年として封印したのである。美、特に少年少女の美は儚くうつろいやすい。最も美しい時の姿を、貴族出身のヴィスコンティの手で更に高貴に美化されたアンドレセン。彼を見る側にしてみればありがたいことこの上ないが、その後、タジオのイメージからの脱皮に苦しんだというアンドレセン自身にとっては幸せだったのかどうか。ベニスに死す出演後、アンドレセンはいつの間にか映画界から姿を消した。残念至極とはいえ、いかにも伝説の美少年を演じた彼にふさわしい。便宜上、美男・美女のカテゴリーに入れても彼はあくまでも美少年。大人になる前の束の間の季節の麗人。その後のことなど知らなくていい・・・のに、これだけ通信が発達すると容易に消息が得られてしまう。インターネットの世界はアンドレセンを宇宙の彼方に消えた王子様のように守ってはくれない。若さはいつしか失われ、生きていく限り誰もみな年老いる。時の流れは残酷だからこそ、失われた時代の奇跡的な美の映像の価値も増すということか。ベニスに死すの中でだけ、夢はそのままだ。

ドミニク・サンダ パリの香りを漂わせる最後の女優・ファムファタル

白皙の美貌にダークブロンド、長い脚。とにかくきれいな人だった。憧れをかきたてる神々しい美しさで、ファムファタルがよく似合った。初めて観たのは若き日のベルトルッチの傑作・暗殺の森だっただろうか。パリのブルジョワ家庭に生まれながら15歳で結婚しすぐに離婚、ファッションモデルから女優に転身したという実生活での早熟なプロフィルも手伝って彼女には興味津々だった。本名はドミニク・ヴァレーニュ。サンダという芸名の由来について彼女は、ただSで始まる言葉が好きなだけ。だからSANDAとつけたと答えており、そのシンプルな理由も素敵に思えた。ファシズムの吹き荒れるイタリア、親子ほど年の離れた反ファシズムの大学教授の若き妻・アンナというのがサンダの役だった。教授の教え子であるファシストのマルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)が、組織から教授の身辺調査の命を受け、教授の家を訪ねるシーン。煙草をくゆらせ、芝居がかったポージングで彼を案内するアンナは、それまでにない女性像を体現していたというか、自由闊達に生きる進歩的な女として強烈な印象を残した。もちろんマルチェロは一目で彼女に惹きつけられる。

この映画自体が私には忘れられない一編。いずれ映画のカテゴリで暗殺の森のタイトルで書きたい。モラヴィアの小説の原題は体制順応者。それに暗殺の森という邦題をつけたことで、より多くの日本の映画ファンの心をわしづかみにしたと思われる映画会社の功績は大きい。ファシズムが荒れ狂う重苦しいムードのイタリア、ストーリーは重いが、サンダの溜め息をつくような美しさは一瞬ファシズムの恐怖を忘れさせてしまう。イヴニングを纏い、ステファニア・サンドレッリとダンスを踊るシーンは同性愛描写と騒がれ、確かになまめかしい。思い起こせばベルトルッチの同胞の大先輩・フェリーニの81/2にも、マストロヤンニ演じる主人公の妻・アヌーク・エーメと、不倶戴天の仲であるはずの愛人が仲良さそうにダンスのステップを踏むシーンがあった。ベルトルッチも影響を受けたのか?とどうしてもサンダを語ると暗殺の森に深入りしてしまう。ファシストの組織は教授の暗殺を命じ、教授はアンナを伴って車で雪の森を移動する途上でめった刺しにされる。その後アンナが銃で撃たれ森の中で顔を血で染めて無残に暗殺されるシーンは何度観ても痛ましく、震えが走るほどだ。

すっかり彼女に魅了されて次に観たのがツルゲーネフの原作をマクシミリアン・シェルが忠実に映画化した”初恋”。これもまた、名作!16歳のアレキサンダー(ジョン=モルダー・ブラウン)は、夏に訪れた両親の別荘の隣の敷地に家を借りた公爵一家の美しい一人娘・ジナイーダ(ドミニク・サンダ)に一目惚れする。彼より少し年上で、どこか神秘的ではかり知れないジナイーダ。初めての恋に気も狂わんばかりの日々を過ごすアレキサンダー。奔放な彼女の魅力に翻弄されるうち、彼は恋する者の直感で、彼女も誰かに恋していることに気づく。彼女目当ての男は何人もいたーしかし一体誰に?はやる心をおさえるアレキサンダーだったが、ある日偶然、ジナイーダは父の愛人だったことを知る・・・打ちのめされるアレキサンダーの描写は原作以上で胸に迫った。公爵令嬢ともあろうものが、自分の前途を台無しにしてまでなぜ妻帯者である父を愛したのか。理解に苦しんだアレキサンダーは不意に悟る。それが恋なのだ、それが情熱というものなのだと。サンダの透明感溢れる美しさはジナイーダにぴったりで、ツルゲーネフも納得したのではと思われる。映画を観てもう一度原作を読み返したくらい、胸を打つ初恋の物語だった。

ロシア語は全くわからないので翻訳に頼るしかないが、翻訳も美文なのである。以下神西清訳から引用”ああ、青春よ!青春よ!お前はどんなことにも、かかずらわない。お前はまるで、この宇宙のあらゆる財宝を、ひとり占めにしているかのようだ。憂愁でさえ、お前にとっては慰めだ。悲哀でさえ、お前には似つかわしい。お前は思いあがって傲慢で、”われは、ひとり生きるーまあ見ているがいい!”などと言うけれど、その言葉のはしから、お前の日々はかけり去って、跡かたもなく帳じりもなく、消えていってしまうのだ。さながら、日なたの蠟のように、雪のように”。数年後、ジナイーダが結婚し、難産の末死んだことを知ったアレキサンダーの言葉である。漲る力を持て余す若者に甘い夢を与え、洋々たる可能の未来を見せてくれる青春は、束の間のはかない夢であると、誰もが過ぎ去ってから知る。気づくときには遅すぎる。

私にとってのドミニク・サンダはこの二作に尽きるーとはいえ、16歳のデビュー作・”やさしい女”の彼女もまた美しい。監督のロベール・ブレッソンは芝居がかった演技を嫌い、素人俳優を起用し続けたことで有名で、当時のサンダも演技経験は全くない素人だった。原作はドストエフスキーで(初恋といい、彼女はロシア文学に縁があるようだ)、男と女は結局は理解し合えないものなのではないかと問題提起している作品。頑固で完全主義者のブレッソンと自我の強いサンダは撮影中うまく折り合わなかったという。非商業映画を手掛ける巨匠・ブレッソンだけに、この作品もプロットがなく、途中で何度も睡魔に襲われた。サンダの美しさは堪能できたのだが・・・今もう一度見たら新たな発見があるかもしれない。

その後サンダは、21歳で俳優のクリスチャン・マルカンとの間に男児をもうけ(彼は彼女より20歳以上も年上だった)、数多くのフランス女優の先輩に倣い?未婚の母となる。女優としても、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルキノ・ヴィスコンティ、リリアーナ・カヴァーニ、マルグリット・デュラスといった名匠の作品に恵まれる。マウロ・ボロニーニのフェルラモンティの遺産の演技でカンヌ映画祭の主演女優賞も受賞した。陶器のような肌のヌードを披露したり、確かにその中での彼女は美しかったものの、映画の内容は印象に残らなかったのでかなり意外だった。上記の監督作品での彼女もそれぞれ美しく魅力的だが、女優としては駆け出しだった10代のころ出演した先の三作品のセンセーショナルな美しさには敵わない。あまりに美し過ぎた人には時の流れは残酷なのか。サンダは、齢70を過ぎて大女優の風格のカトリーヌ・ドヌーヴや、80代でシャネルを着こなし映画の主演を務めたジャンヌ・モローのような存在にはならないだろう。70に手が届こうかという今の彼女はやけに老け込んでしまった感じだ。かつてのファムファタルの面影を求めるわけではないが、大年増となってさらに輝くドヌーヴやモローの強かさが彼女にはなかったのか。いずれにせよ、ドミニク・サンダはパリの香りのする最後の女優という気がする。爛熟した文化を生きてこその頽廃の香りを放つ。その下の世代の女優からは失われてしまった大人の魅力。ちなみに下のギターを弾いている男性がクリスチャン・マルカン。昔の峰岸徹みたいな渋い中年といったところか。サンダもとてもこれで20歳そこそこには見えない。さすが15歳で家を飛び出し結婚したマドモアゼル、早くも爛熟の美の片鱗を漂わせている。

ジャック・サマーズビー 愛に殉じた男

羊たちの沈黙で二度目のアカデミー主演女優賞を受賞し、乗りに乗っていたジョディ・フォスターの美しさが輝く。16世紀フランス、失踪した男になりすましてその男の家庭に入り込み、詐欺罪で訴えられ処刑されたマルタン・ゲール事件を下敷きに、舞台を南北戦争終結後のアメリカ南部に置いた映画。ご当地フランスではジェラール・ドパルデューとナタリー・バイ主演で映画化されている(たまたま聴いたミシェル・ポルタルによるテーマ音楽がドラマチックでよかった!セザール賞音楽賞を受賞している。)南北戦争に出征し、生死不明となっていた農園経営者のジャック・サマーズビー(リチャード・ギア)が6年ぶりに帰還する。死んだものと諦めていた妻のローレル(ジョデイ・フォスター)や周囲は困惑するが、以前は冷たい性格で嫌われ者だった彼が別人のように村人と協調し、ローレルに愛情を注ぎ、打ち解けていく。煙草を栽培して村を活性化しようと新機軸を打ち出したり、リーダーシップをとれるジャックをいつしか周囲は尊敬するようになる。しかし、ジャックのいない間にローレルと親しくなっていたオーリンは最初からジャックが偽物ではないかと疑っている。

子供も生まれ幸せな日々を送るジャックとローレル。しかし好事魔多し。ジャックは過去に喧嘩で人を殺した容疑で逮捕され、裁判にかけられる。ローレルには初めからジャックが偽物だとわかっていた。それが証明されれば(偽)ジャックの容疑は晴れる。法廷でローレルは、彼はジャック・サマーズビーではない、妻である私が一番よくわかる、なぜなら私は夫のジャック・サマーズビーをこんな風に愛したことはなかったからと切々と訴える。何者だかわからない愛する男を救いたい一心だ。このシーンのジョディ・フォスター忘れられない。知的でクールなイメージの彼女には珍しく平凡な主婦役でもさすがの演技。彼女の長いキャリアの中で、女性的な美しさが遺憾なく発揮されたという点ではこの作品が最高だったと思っている。しかし、(偽)ジャックはローレルに語る。南北戦争でジャック・サマーズビーと行動を共にし、多くのことを語り合った。その後ジャックは戦死する。それをきっかけに、今までの人生に嫌気がさしていた彼は、ジャックに成りすまして別の人生を生きてみようと思い立った。ジャックの情報はいやというほど頭に叩き込んでいる。幼い頃のエピソード、テネシー州の小さな村で農園を経営していたこと、妻と子供・・・意を決してジャックの語った村に行ってみると、美しい妻のローレルがいた。彼も最初からローレルに惹かれた。そんな彼の人生で、一番価値があったのはローレルを愛し、共に幸せな日々を送ったこと。だからその誇りを胸に、このままジャック・サマーズビーとして死にたいと。このリチャード・ギアも泣かせる。ジャックの罪は確定し、衆人環視の中、もちろんローレルも見守る中、絞首刑に処される。涙ぐんでしまった。

リチャード・ギアは若い頃のアメリカン・ジゴロの高級ジゴロ役もかっこよかったけれど、年を重ねて断然よくなった人。最近ではオランジーナのCMでアメリカ人寅さんを演じていい味出していたし (このCM、フランスの飲料の宣伝にアメリカ人俳優を起用して日本の国民的ヒーロー?を演じさせるって不思議なコンセプトだった。)数年前他界したやしきたかじんとその妻を小説化した”殉愛”という作品が物議を醸した話を聞いた時、真っ先にこの映画を思い出した。愛に殉じるとはまさにこの映画のリチャード・ギア。自分はジャック・サマーズビーではないと証明できれば、詐欺罪には問われても死刑は免れたはず。愛するローレルと子供のために生きることが真っ当だとは思うが、男の自負とは厄介なものでもあるのか。

火の接吻 ロミオとジュリエットの物語を運命のように引き受ける二人

この美しい邦題!観ずにはいられない。原題はLes amants de Verone、ヴェローナの恋人たち、ロミオとジュリエットの翻案である。20世紀末、フランスで恐るべき子供と称され、その才能を絶賛された映画監督・レオス・カラックスもこの映画に傾倒している。彼のアレックス三部作の最終作・ポンヌフの恋人の原題はLes amants du pont-neufと火の接吻の原題にそっくり。ポンヌフの恋人でのアレックスは口から火を噴く大道芸人だが、こちらの映画の主人公・アンジェロはムラノのガラス職人で、ガラスを吹く時に火が赤々と燃え上がる。そしてそのアンジェロに扮したセルジュ・レジアニをカラックスは汚れた血で起用している。汚れた血の最後、手負いのアレックスがそれを隠して愛しいアンナの許にたどり着くのはまさにアンジェロの最期と一緒。カラックスがオマージュを捧げたくなるのもよくわかる、魅力的な悲劇なのである。

カンヌ映画祭でグランプリに輝いたクロード・ルルーシュの”男と女”の印象が強いアヌーク・エーメ。冬のドーヴィルを舞台に、ムートンを上品に着こなす大人の女っぷりが素敵だった彼女、火の接吻ではその若き日の瑞々しい美貌を堪能できる。水の都・べニスの没落した名家の令嬢・ジョルジアが彼女の役。ロミオとジュリエットの映画を撮るために街を訪れたプロデューサーと女優が、撮影で使う年代ものの調度品を探してジョルジアの屋敷にやってくる。当主のエットーレは家名を誇り過去の栄華に執着し続け、その徒弟アメデオは戦傷により精神に異常を来しており、機関銃を撃つポーズを絶えず繰り返す。これがのちの悲劇の伏線となっている。エットーレの妻も家政婦もみな風変わり。変人ばかりの中でジョルジアだけが清純な美しさを放っている。一家はラファエレという男に経済的援助を受け、ラファエレはジョルジアの婚約者になっているが、ジョルジアは彼を嫌っている。ジョルジアは女優に職を紹介してくれと頼み、女優は撮影所に来るように言う。ちょうどロミオとジュリエットで一番有名なシーンと思しきバルコニーでの逢瀬を撮るところで、ジョルジアは女優のスタンドインの仕事を得る。ムラノのガラス職人・アンジェロは女優のファンで、彼女見たさに撮影所を訪れると、なぜかエキストラと間違えられて衣裳を着せられる。いざ撮影が始まると、ロミオを演じる役者が高所恐怖症で高い縄梯子を登れない。後ろ姿の撮影なので、急遽アンジェロが代役を務めることになり、縄梯子を登ってバルコニーにたどり着くと、そこにはジュリエットに扮したジョルジアがいて・・・二人は一目で恋に落ちる。運命に引き寄せられるように全くの偶然からロミオとジュリエットを演じた二人が、現実の恋人同士になってしまうなんて、なんてロマンチック!

監督のアンドレ・カイヤットの書下ろしのストーリーを枯れ葉で有名な詩人のジャック・プレヴェールが脚色した作品で、詩人の感性が随所に煌く名作である。カイヤットは社会派の作品で広く知られていたのが、こんなに甘美な映画も撮っていたのかと驚いた。ベニスでのロマンスというと当時はキャサリン・ヘップバーンの”旅情”が有名だった。それが火の接吻で恋する二人が薔薇の花で飾られたゴンドラに乗るシーンを見て以来、ベニスと言えば断然こちら!と思うようになった。映画では、撮影隊がロミオとジュリエットゆかりの地、ヴェローナを訪れることになり、二人も同行して夢のような日々を過ごす。しかしムラノのガラス職人に名家の令嬢はやれないということで、ジョルジアの家人は与太者に頼んでアンジェロを殺そうとするが失敗する。ジョルジアの父は自らアンジェロを手にかけようとし、アンジェロはそれを逃れながらも、気のふれたアメデオの乱射した銃に撃たれる。命からがら撮影所のジョルジアの許にたどり着いたアンジェロだが、ジョルジアの腕の中で息絶え、絶望したジョルジアは動脈を切って後を追う。まさにロミオとジュリエットを地で行ってしまった二人なのである。

上のゴンドラの二人幸せそう。激しい恋のさなかにいて、もうお互いしか見えない状態の二人。羨ましい。セルジュ・レジアニはやんちゃでコミカルな顔立ちながら、若い頃はそれなりにかっこいい。赤々と燃え盛る火をバックに仕事するガラス職人は頼もしく、レジアニの野卑な魅力が炸裂する。私がジョルジアだったらやはりこの人に恋してしまっただろうと思わせる演出はさすが。

モンパルナスの灯然り、ローラ然り、81/2然り、愛よもう一度然り・・・改めて思い出すと、私が観てきたアヌーク・エーメの主演作はそれこそ女ざかりの彼女の魅力がいっぱいだが、若き日の彼女と言えばこちらの他にもう一つ、フランスのダンディズムの極み、悪魔的嗜好と頽廃趣味で有名なバルベー・ドールヴィリー原作の真紅のカーテンを映画化した邦題”恋ざんげ”も忘れがたい。ナラタージュで進行するパントマイム劇で、エーメの美しさが物語の悪魔的な魅力によっていっそう輝く。一見の価値あり。それにしても火の接吻も恋ざんげも、ともに邦題が素敵だ。恋ざんげって、原作を読んだ身には唸らせるようなタイトル。何か出所があるのかと検索したら、伍代夏子の同名の歌が出てきた。歌のタイトルはおそらくこの映画からとったのだろう。そういえば宇野千代に色ざんげという小説があった。映画の公開は小説より後。宇野千代作品にインスパイアされたのだろうか。

A chacun son enfer…誰にもそれぞれの地獄がある

中森明菜、松田聖子、山口百恵の歌姫たち三者三様の生き方に触れたインターネットの記事にコメント欄がついていて、どこの家庭でも一つや二つはそれなりの悩みがあるはず、とコメントしていた人がいた。それでこの映画を思い出した。社会派映画監督として知られるアンドレ・カイヤットの1977年の作品で、それはそれは怖~い映画だった。一見幸せそうに見える家庭に潜んでいた地獄・・・吐き気を催すような恐怖を覚えた。話は逸れるが主演した当時のフランスきっての人気女優アニー・ジラルド、何とも汚いおばさんといった雰囲気で、フランス人の好みを不思議に思った。日本で人気があったフランスの俳優と言えば容姿端麗で清潔感のあるカトリーヌ・ドヌーヴやアラン・ドロンだったが、フランス人はいわば腐る寸前の、よく言えば味のある人がお好きなようだ。爛熟期の魅力に敏感なのだろう。素材のよさだけではダメで、人生経験を重ねた大人の風格が求められるのか。確かに、まさに爛熟した、汚れた雑巾の如きアニー・ジラルドの演技は素晴らしかった。とはいえ、セルジュ・ゲンズブールジェーン・バーキン、ロジェ・バディム&カトリーヌ・ドヌーヴ、クリスチャン・マルカン&ドミニク・サンダ、などなど、おじさまと若い女の子のカップルが多いのもフランスである。昔、フランス人歌手のフランソワーズ・アルディが、誰だったか日本の有名人女性との対談で、”フランスの男性は大人の女の魅力がわかるから、若い女ばかりちやほやされる日本とは違って羨ましい”などと言われ、”あらフランス人男性だって若い女の子が好きですよ”とあっさり答えていたのを思い出す。大人の魅力がわかる大人の世界といったフランス観が昭和の日本では喧伝されていたが、若い女が好きなのは男の性、その傾向に国境はない。フランス人女性に学ぶ・・・とか鵜呑みにしないほうがいい。

閑話休題。邦題は愛の地獄。原題がこの、誰にもそれぞれの地獄がある、である。その後、北京語を勉強して、北京語にも”家家都有本難念的経”という諺があるのを知った。”どんな家にも一つは唱えるのが難しいお経がある”、どんな家にも必ず一つは問題があるという意味である。人間が考えることはみな同じ、洋の東西を問わないのだろう。どちらも年を重ねるにつれて心に沁みる。名言だと思う。完全無欠な人間はいない。誰でも自分の中に不完全なもの、満ち足りないものを抱えて生きている。自分の中にある地獄ーそれに気づかないで生きていけたら幸せだろうが、そんな幸運な人は少ないのではないか。人間の一生は自分の中の地獄との闘いでもある。それに侵食されずに生きていくのは大変なことだ。自死を選ぶ人を見ると、恐らく己の地獄に呑み込まれてしまったのだろうと痛ましく思う。ニーチェも、深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いているのだと言った。童話の、王子様とお姫様はいつまでも幸せに暮らしました、めでたし、めでたしというエンディングに何の疑問も感じなかった子供時代が懐かしい。人生は重く、苦い。

海を感じる時 暗い情熱の滾る青春を持て余して

何が驚きって、記憶を辿るとこの本を初めて読んだのは小学生の時なのだ。それもお小遣いで購入して。なんておませな・・・今ほど情報が溢れていない時代でも、小学生の好奇心は休むことを知らず、精一杯触手を伸ばして面白いものを探していたに違いない。講談社の単行本の表紙、児童書とは明らかに違う大人の雰囲気で嬉しかった。恋愛という未知の世界に心ときめかせる年ごろーそれにしても子供にはあまりに重い小説だった。作者の中沢けい、18歳の処女作である。高度経済成長が終わり、学生運動に失望した無気力、無関心、無責任の三無主義、いわゆるしらけ世代の高校生の性愛体験。地方都市の高校の新聞部に所属する早熟な主人公は小学生の時に父親を亡くし、女手一つで育てられる。母親にとっては希望の星だ。高校生、背伸びしたい盛りに彼女は新聞部の先輩・高野に恋をする。同級生より一足先に大人になりたい。そんな願望が彼女を駆り立て、決して自分を恋愛対象としては見てくれない高野に身を任せる。それが母親の知るところとなり、母親は何か汚いものでも見るような目つきで彼女を見、半狂乱になる。処女でお嫁に行きなさいと言われた時代なのだろう。彼女は高野への思いを募らせるが、彼が求めるのは体だけ。母との関係の緊張、高野への一方的な愛、すべてが満たされないまま時間ばかりが過ぎてゆく。

この小説、何よりもまずタイトルがいい。今まで憚られて語られずに来た、女性の性の神秘が明かされるのでは・・・との期待通りに、生々しい性描写に衝撃を受ける。高野の子を妊娠したのではないかと不安に駆られているとき、不意に体を貫くように始まる生理。”小さな蛇が鋭く体をくねらせ、出てきた。小さな赤い蛇が水晶のような目で、静かに見つめている”って、鮮やかでリアル。折しも雨に濡れたスカートの中に手を忍ばせ、彼女は生理を確かめる。”赤茶色の血が指先で、生臭いにおいを発していた” 美化するそぶりもない中沢けいが好きだ。そしておそらくこの小説を読んだ全ての人が胸に刻んだ圧巻のシーンは、ラストの、生理の血を夜の暗い海にたとえた箇所だろう。”海の水には、ねばり気があるようだ。タールの海だ。私の下腹にもタールの海がある。うねうねと、予兆と甘美な快楽が打ち寄せる” 若い表現者の描く海は概して青春と結びつきやすい祝福された場所。それを全く違った感性で捉える斬新さ。”世界中の女たちの生理の血をあつめたらばこんな暗い海ができるだろう。呪いにみちた波音を上げるだろう。下降をしいられる意識。生理の生ぐさいにおいの中へ” ヨットで遊び、サーフィンに興じ、水着で開放的になれる海。そんなイメージを一変させ、10代で女の業を見据えてしまった中沢けいって何者なのだろう。やはり18歳で衝撃の処女作をものしたフランソワーズ・サガンは青春の光と影を描いた。中沢けいの描く青春は精神と肉体のアンバランスな成長に戸惑う暗~い世界。光など差さない。この暗さがまたたまらなくいいのだけれど。

いかにも昭和の価値観がいっぱいのこの小説が数年前に映画化されたというので驚いた。というよりそれまで映画化されなかったことの方が不思議か。この小説が発表されてからどのくらい経っていたのかわからないが、衝撃的な内容だったからだろう、コンセプトアルバムが制作された。当時はカセットテープの時代で、ラジオから流れてきた歌を母が録音してくれた。私が気に入っていたのは”あなたの下宿”という歌。小椋佳作詞・作曲、オペラ歌手の五十嵐麻利江が歌っていて、哀愁を帯びた声が素敵だった。主人公が、東京の大学に進学した高野を追って下宿を訪ねる歌。ドラマチックで未だに覚えている。♪あなたから届いた返事封筒の厚さだけ喜んで それだけにあなたの遠さ読み終えて なおさらの淋しさ♪自分も恋人を追って下宿を訪ねてみたいなどと子供心に思った。残念ながらそんな機会には一度も恵まれなかった。昨年だったか、横浜のホテルニューグランドのレストランで隣のテーブルに見覚えのある女性が座った。中沢けいだった。健啖家ぶりを発揮してエネルギッシュに友人と思しき女性と食事を楽しんでいた(ように見えた)。海を感じる時から数十年・・・暗い情熱を感じさせる風貌は健在で頼もしかった。私は勝手に、この人に土着の縄文民族のにおいを感じて魅せられている。

lust caution・・・色・戒 不倶戴天の仲なのに・・・どんな関係でも愛は愛

20世紀中国を代表する女流作家・張愛玲の作品の映画化。邦題はラスト・コーション。てっきり最後の警告かと思ったら違い。。。日本語だとわかりませんね。日本公開時、”奥様悶絶!中国映画ラスト・コーションのやりすぎ四十八手”という煽情的な週刊誌の惹句に乗っかり観に行った。確かにこの人たちなにやってるの?と訝るアクロバティックなラブシーンの連続で、なまめかしいことこの上ない。しかし張愛玲がそんな下りを描くとも思えず、原作はいったいどんな話なのかと読んでみた。

1942年、日本占領下の上海で抗日運動に身を投じる女子大生のスパイ・王佳芝は、日本の傀儡政権のボス・易に近づき、暗殺の機会をうかがう。その過程で彼女の色仕掛けに易が乗るのだが、映画はずいぶんと想像をたくましくした展開になっている。命を狙う者とそうとは知らずに若い女に感情移入していく中年男。ましてや戦時下、死と隣り合わせの日常がもたらす緊張感から、二人の愛の営みは暴力的なまでに激しくなり・・・などとは、小説では描かれていない。易は佳芝に惹かれ、佳芝も知らず知らずのうちに易を愛してしまう。愛の記念に易は佳芝に指輪を贈ると言い、二人は宝石店に出かける。そこで佳芝の仲間は易を暗殺する計画だ。宝石店の店主はピンクダイヤの指輪を勧める。二人で指輪を選ぶー幸せの象徴のような行為が死出の旅の始まりとは皮肉なものだ。しかし決行の直前、佳芝は彼が自分を本当に愛していることを感じ取る。そして彼を逃がすのだ。暗殺を画策した学生たちは一網打尽にされ、銃殺される。もちろん佳芝も。易は、彼女は処刑される前、自分を恨んだだろうと追想する。だが”毒なき者、男にあらず”、このような男でなければ彼女も自分を愛さなかったに違いないとも思う。易夫人と、貿易商の妻を装った佳芝が、ほかの御婦人方と共に麻雀に興じる場面から始まった小説は、佳芝の処刑を知らない易夫人たちが麻雀卓を囲むところで終わる。何ともやるせない気分にさせる幕切れである。

張愛玲の小説は愛に関しては悲観的なものが多く、読み終わると淋しいような悲しいような気持ちに捉えられる。恐らく彼女自身にあまり幸福な愛の思い出がなかったためではないかと思う。張愛玲は1920年、上海の名門家庭に生まれた。父親は旧社会の貴族の息子で阿片を吸い放蕩三昧を繰り返し、進歩的で芸術を愛する母親とは全くそりが合わず、いさかいの絶えない夫婦だったという。また母親は幼い張愛玲を残してイギリスに留学してしまい、母親の留守中には芸妓上がりの女性が家に入り込んだそうで、彼女は温かい家庭を知らずに育った。ロマンチックなタイトルを冠しながらいい意味で読者を裏切る傾城の恋然り、愛し合いながらも結ばれない二人を描いた半生縁然り、彼女の小説の登場人物は、人間の手ではどうにもならない運命とでもいったものに翻弄され、そのがんじがらめの人生の中で束の間の愛に身を投じるが、愛によって幸福になりはしない。張愛玲はそれが人生なのだと諦観しているきらいがある。スパイでありながらその標的を愛してしまい、本分を投げやる佳芝は哀しい。易は易で、佳芝を殺さない選択もありえた。しかし自分の保身のためにはやむを得なかったと言い聞かせ、彼女は生きていても死んで亡霊となっても自分のものだと呟く。まさに毒なき者、男にあらずだ。

 

映画では、愛国主義の学生たちが傀儡政権のトップ暗殺を画策するなんてと荒唐無稽な印象を受けたものの、小説だと結構リアルだった。異常な状況下を借りての過激なアクロバティック・ラブ・シーンは打ってつけであり、映画をヒットさせるためには必要だったのだろう。しかし何と言っても一番心に残ったのは易役のトニー・レオン。全身から中年男の色気を発散させて見事だ。何が凄いって、ラブシーンよりスーツ姿のトニーの方が全然色っぽいこと。むかしむかし、やはりラブシーンが話題となったデュラスの”愛人”でも、ラブシーンは主演のレオン・カーフェィではなく代役を使ったというが、こちらもまさかトニー・レオンがあのラブシーンを演じたとは思えない。でもそんなことはどうでもいい。いい役者は脱ぐ必要などない、着衣で勝負の見本のような俳優だ。ラブシーンが大変だったであろう佳芝役の女優さんも綺麗だった。色・戒。身の破滅に至るとも情欲を抑えきれない人間という業の深い生き物に、張愛玲は欲望は慎みなさいとメッセージを残したのだろうか。思いもよらず愛し合ってしまう不倶戴天の二人が哀しい。

ツバメのように

ユーミンには人の死を歌った名曲が多い。デビューアルバムのひこうき雲のみずみずしい感性は言うまでもないが、その後に発表した死にまつわる歌もみな、個人的な体験が普遍化したかの如く、感情移入できるもの。戦争で恋人を亡くし精神に異常を来した女性を描くミス・ロンリー然り、白血病で他界した彼との思い出を語る雨に消えたジョガー然り、失恋して旅路での死を選ぶコンパートメント然り。と列挙してみたらみな時のないホテルからなのか。私がなんだか淋しい時に思い出すのはいつも決まってこのツバメのように、なのだが。

ユーミン自身が語っているように、ツバメのように、はシャンソンのパリ・ソワールを下敷きにしている。投身自殺した女性の顔にハンカチがかけられていたのが、本家ではパリ・ソワールという夕刊誌。その彼女を誰かがあまり美人じゃないと言ったのも本家の通り。そんな裏話を聞いても、ユーミンの歌の魅力は全く色あせない。女性が死を選んだのは、裏切った恋人のせいじゃない、どんな言葉に託そうと淋しさはいつも人の痛みなの、と歌うユーミン。30年ぐらい前、コンパートメントってミュージックビデオにも収録されていた。今でも痛切に思う・・淋しさはいつも人の痛み。